第145話 署名のある異議
封を切ったのはその晩のうちだった。
中は二枚あった。一枚目が異議の本紙で、二枚目には番号と写しの配り先が並んでいる。本文は書記官の字で、署名の欄だけが太かった。
「統轄部の綴りの番号が先に振ってあります」
ミレナが灯を寄せた。
「向こうで綴じてから、こちらへ回してきています」
「ではこちらでも振ってください」
ノラが異議の綴りを開いた。署名の無い一通の次は白い頁で番号の欄だけが刷ってある。
「二通目ね」
筆を入れる前にノラは本紙を最後まで読んだ。読み終えても筆は持ったままだった。
「声に出すわよ。座って聞きなさい」
書き出しの一行は前の一通と同じで、台帳の登載に異議を述べるとあった。二行目から変わっていた。
――九十四枚は在り処を写した紙であって、止める者を定めた紙ではない。
――十九の街へ横並びで決めさせるのは、決めないのと同じである。全員が当事者であるなら、誰も止めない。
三行目には、こちらの書いた紙がそのまま引いてあった。
――止める場が定まらないため、暫定で監査官が止めた。これは権限に基づく処置ではない。
番号まで添えてある。峠の窪みへ三行の紙を立てたときその下へ自分で足した二行だった。
「三部に配ると決めたのはこちらです」
「配ったわね。ちゃんと届いたわ」
ノラは本紙を卓の中央へ滑らせた。
「あなたが書いて、あなたが送った紙よ。向こうは一枚も新しく作っていないの」
「作る必要がありませんでした」
「無いわね」
末尾にもう一行あった。同じ趣旨を口頭で述べたいので追って参る、とだけ書いてある。日付は入っていない。
「来るのですか」
ミレナが顔を上げた。
「王都からの道は、この季節に縮みません」
「縮まないわ。縮まない道を長が自分で来るのよ」
ガルドは戸口の脇で外套を掛けたまま聞いていた。
「あんたの書いた二行で殴られてるわけだ」
「殴られています」
「消せるのか、その二行は」
「消せます。写しを差し替えれば、綴りのどこにも残りません」
「消すのか」
「消しません」
アシュレイは筆をそのまま置いた。
「消した紙は、次に同じことをしたときに書けなくなります」
翌朝ミレナが反論の欄をどこへ入れるかを訊いてきた。
「書きません」
「書かないのですか」
「書けば異議と反論が並びます。並んだ紙は、読んだ者に選ばせる紙です。……いま十九の街に選ばせるものが、こちらにありません」
ノラは自分の罫の頁を開いたまま何も書かなかった。
「言っておくわ。あの人の書いた二行目ね、私が先に言ったのと同じことよ」
「上の無い卓の話ですね」
「そう。決まらなかったときに誰のせいでもなくなる、って私が言ったの。……あの人は、決まらないところまで先に書いたのよ」
「どこが違いますか」
「違わないわ。だから困っているんでしょう」
峠の宿からはそのあと何も入っていない。あの荷運びは月に四度あの脇を通る。二度目の言づけからの日数を割れば五度は通っている勘定になる。
言づけが来たのはその二度きりだった。
マーロウが門をくぐったのはそれから五日あとだった。
供は一人だけだった。白髪は前に会ったときより短く刈ってある。外套の雪を土間で落としてから、卓へ着く前に部屋の中を一度見回した。棚の綴りの背に目を止めて、そこで止まった。
「異議は綴じられましたか」
「綴じました。二通目です」
「番号は」
「振ってあります。控えをご覧に入れます」
ミレナが綴りを開いて番号の頁を見せた。マーロウは指を伸ばしもせず、番号だけを読んだ。
「握り潰されてはおらんようだ」
「潰しません」
「前の一通は署名がありませんでした。あれは私の紙ではない。名の無い紙を綴じられたところで、こちらは何も背負いません」
男は自分の綴りを卓へ出した。
「今度のは私の名です。名の入った紙は、こちらの棚でも番号が付く。……それを確かめに来ました」
「口頭で述べたいと書いてありました」
「述べます。その前に見せていただきたいものがある」
峠の紙の控えを出した。三行の紙と、宿から回ってきた言づけの写しである。マーロウは三行を先に読んだ。その窪みの周りへ人を近づけないこと。掘りかけの土をならさないこと。次に通る者が同じ場所を見て日付を控えること。
「これを立てたのはあなただ」
「私です」
「立ててから、何が起きましたか」
「土は動いていません」
「そう報せが来たのは二度きりでしょう」
「二度です」
「そのあとあの者は何度通りましたか」
「五度は通っています」
「五度とも黙って通ったわけだ」
男は写しを揃えて戻した。
「見る者は、返りが無ければ見なくなります。無駄なことをさせていると思った日から、その道は素通りになる。……あなたの罫に、返りを書く欄はありますか」
「あります。見たと控えた、と返しています」
「その先の欄は」
「ありません」
「そこが空だと申し上げている」
マーロウは外套の前を開けもしなかった。
「うちが止めます」
乾いた声だった。
「名簿があります。在り処は十九とも分かっている。査察の権も返しておりません。止めよという紙なら、三日あれば出せる。領へも市庁へも、うちの名で出ます」
「出ますね」
「出ます。あなたの名で出た紙は、あなた一人が倒れれば止まる。うちの名で出た紙は、私が明日死んでも次の長が出します。……そういう形のことを、あなたはずっと言ってきたはずだ」
その一行はこちらが何度も人に言ってきた形だった。この人は集めたいのではない。止まる形を欲しがっている。欲しがり方だけが違っている。
「一つ伺います」
紙を裏返して経路の欄を見せた。
「峠の窪みの言づけは、いまどうやってそちらへ届きますか」
「届きません」
「届きませんね」
「ですから届く形にしろと申し上げている」
男は指の背で卓を一度叩いた。
「宿から統轄部へ回す罫を一本引けばよい。見て報せる者の名を、こちらの名簿へ書き写していただきたい。それだけです」
「その者たちの名は、触れてよい者の綴りにも入れていません」
「入れて何が困ります」
「困るのはこちらの都合です」
「都合では土は止まりません」
返す言葉を持たなかった。ガルドが土間のほうで低く息を吐いた。
マーロウは自分の綴りを開いて指を頁の下へ滑らせた。
「私はあの九十四枚を数えました。差し替えで届いた分まで入れてあります。受け持つ者の名の欄が白い頁は四枚だ。継ぎ目が三枚と王都の一枚です」
「四枚です」
「王都の一枚は、あなたが名を貰いに行って貰えなかった頁でしょう」
「貰えませんでした」
「私なら書けます」
アシュレイの手が卓の上で止まった。
「異議を出した側が、同じ台帳へ名を入れられますか」
「異議は誰が止めるかを書いていない紙への異議です。載ることへの異議ではありません」
「あの頁の五つ目に、当部署の名を入れることはできる。誰も引き受けなかった一枚です。うちなら引き受ける」
「その名が入ったあと、名簿はどうなりますか」
「戻ります。在り処を数えるのは、うちの仕事ですから」
「戻りますね」
「戻ります」
嘘をつかない人だった。取り引きの形にもしなかった。ただ、書ける者はここにいると置いただけだった。
マーロウは椅子の背から体を離した。
「私は在り処を数えて、そこへ人をやらなかったことがあります」
「前に伺いました」
「では繰り返しません」
声はそこで一度切れた。
「数えた紙の上では、何も起きていないように見えるのです。あの窪みも、いまのところ何も起きていない」
アシュレイは異議の本紙を手元へ寄せた。二行目を指で押さえる。
「反論は書きません」
「取り下げませんよ」
「取り下げていただかなくて結構です。……この一行を、いちばん最初の議題にします」
「議題」
「卓が開いたときの一つ目です。全員が当事者であるなら誰も止めない。それを十九に読ませて、そこから決めます」
マーロウの眉が動いた。
「いつ開きます」
「決めていません」
「誰が呼びます」
「そこも決まっていません」
「座るのは」
答えなかった。
男は椅子を引いて立ち上がった。外套を供から受け取り袖を通してから振り返る。
「議題にしたところで、その卓は開きません。……開いたら報せてください。開かないうちは、こちらの紙のほうが生きています」
二通目の番号を控えて、マーロウは日のあるうちに発った。
戸が閉まってからガルドが帽子を手の中で回した。
「あの人、間違ってねえぞ」
「間違っていません」
「おれは止まるほうがいい。誰が止めようと、止まりゃいいんだ」
「一度は止まります」
「一度か」
「次の年も止めてもらえるかは、あちらの都合で決まります。こちらから頼む筋がありません」
「じゃあ、うちの都合で止まる形はどこにあるんだ」
ガルドは答えを待たずに外套を掛け直した。待たれても出せなかった。
その晩ミレナへ手配を頼んだ。
「異議の本紙を十九ぶん刷ってください。番号はこちらのものを入れます」
ミレナの手が止まった。
「十九へ、ですか」
「三部に配ると決めてあります。監査院と統轄部と現場です。十九の街は現場です」
「こちらに不利な紙です」
「不利です」
アシュレイは控えを版下の脇へ置いた。
「片方だけ配れば、綴りのほうが嘘になります」
ノラは何も言わずに罫の頁を閉じた。閉じてから番号の欄へ二通目の日付だけを入れた。
版は翌日に組み上がった。刷り上がりを重ねると、はじめの十九通よりずっと薄い束になる。
――全員が当事者であるなら、誰も止めない。
この一行を十九の街に読ませる日は、こちらで決められる。読んだ者が同じ場所へ集まる日のほうは、あの男の言うとおり、こちらの手では決まらなかった。




