第144話 いちばん受けている街
分かれ道の杭には、片面にだけ里数が彫ってあった。北へ折れれば帰り道になる。
ガルドは彫りを親指でなぞってから、折れないほうの道を顎で示した。
「戻ると思ってたぞ」
「別立ての一枚の五つ目が白いままです」
「白いのは三枚じゃなかったのか」
「継ぎ目が三枚です。あれは継ぎ目ではありませんので、数のうちに入っていません」
ガルドは鼻から息を抜いた。
「数えてねえだけで白いんだな」
「白いです」
街道はそこから五日だった。轍の雪は荷馬車に潰されて灰色になり、三日目からは宿が混み始めた。王都へ近づくほど道は広くなる。広い道の脇には掘り返した土がいくらでもあった。井戸の据え替え。石の敷き直し。誰かが必ず見ている場所では、新しい土は珍しくもなんともない。
門番はこちらの符牒を見て、帳面へ日付だけ書いて通した。
魔導庁の裏手から地下へ降りる段は、記憶より乾いていた。壁の継ぎ目に石灰が新しく詰めてある。
盤の間には三面あった。手前の二面は明るい。いちばん奥の一面だけ枠の木が黒く、針の軸のところだけが磨り減って白い。
当直長は白髪まじりの男で、帳面を閉じずに立ち上がった。
「監査官殿。十日ごとの控えは監査院へ回しております」
「拝見しました。抜けはありません」
「では、何を」
荷を解いて、一枚を盤の脇の卓へ置いた。
「台帳の最後の一枚です。九十四枚のいちばん後ろにあります」
当直長は紙の縁を持って灯へ寄せた。
「ほかの頁は継ぎ目一つで一枚ですが、この一枚だけは継ぎ目ではありません。ここの核の頁です」
男の目は四つ目の欄で止まった。
「受けている、とありますな」
「あります」
「どなたがお書きに」
「私です」
当直長は頁を卓へ戻して、奥の一面を顎で示した。
「あの一面の帯なら、うちも毎日写しております。頭が動いたのは一度きりです。刻も残っております」
「こちらの控えと合いました。合いましたので、そう書きました」
「合ったことは存じております。監査院へ回した紙はうちが写したものです」
その通りだった。この局は仕事をしている。針を絶やしたことも、控えを落としたこともない。
「五つ目の欄が白いままです」
アシュレイは最後の欄を指した。
「受け持つ者の名が入っていません。そこへ入る名を伺いに来ました」
当直長は壁の板へ目をやった。当直の割りが墨で書いてある。
「番は絶やしておりません。昼夜で四つに割って、月に十二人が回ります」
「存じています」
「では、十二人ぶん書きますか」
「一人で結構です」
「一人ですと、その者が家におる晩に何かが起きたとき、その紙は嘘になりますな」
「触る人の名ではありません」
アシュレイは頁を裏返して、写しの請求先の欄を見せた。
「この一枚について外から訊かれたときに、答える人の名です。番は交代して構いません。答える人のほうが交代しない形にしたいのです」
当直長の手が止まった。それから帳面を小脇に挟み直した。
「……私では足りません。上へ通します」
ガルドは隅で帽子を持ったまま待っていた。出るときになって一度だけ振り返る。
「番が十二人か」
「十二人です」
「野の継ぎ目は一人だぞ。炭焼きが月に六度通るだけだ」
「そうですね」
「十二人いる場所のほうが、名前が書けねえんだな」
保守局の長はその日のうちに会ってくれた。棚の並びは前に来たときと変わっていない。棚の札だけが新しく刷り直してある。
「この頁は受け取ります。棚へ入れます。裏の請求先の欄へ、うちの局の名を入れていただいて結構です」
「五つ目は」
「入れられません」
男は湯を勧めて、自分の湯呑みには手をつけなかった。
「監査官殿。一つお願いがございます。四つ目の言葉を、繋がっている、へ直していただけませんか」
「同じことでしょうか」
「違います。繋がっているなら図の話です。地面の下がどうなっているかというだけで、うちは何もしておりません」
男は指を一本立てた。
「受けているなら、うちが何かを引き受けていることになります。……あの晩に王都で灯が一つも落ちなかったのは、うちの古い一面が受け止めたからだ、と読まれます」
「読まれますね」
「読まれた次の年に、どこかで灯が一つ落ちたとします。そのときうちは、受け損ねたことになります」
紙を焼けとは言わなかった。棚には入れると言った。言い換えてくれと言っただけだった。
「直せません」
「理由を伺えますか」
「繋がっているは図から出る言葉です。図はまだ半分しか継げていません」
アシュレイは頁を自分のほうへ引き寄せた。
「受けているは、あの晩の帯から出る言葉です。こちらが持っているのは帯のほうです。持っていないほうの言葉へ直せば、書いていないところまで書いたことになります」
男はしばらく卓の木目を見ていた。
「よく分かりました。……ですが名は入れられません」
「番の名でなくて構いません」
「番の話ではないのです」
男は湯呑みをようやく持ち上げた。
「この欄へうちの誰かの名が入りますと、この局は地面の下の一本の受け手になります。うちが受け持っているのは王都の設備です。あの一本は王都の設備ではございません」
「王都の核は王都の設備です」
「核は設備です。核が受けているものは、設備ではありません」
言い返せる筋はいくつかあった。どれを言っても、この局の帳面に新しい行が増えるだけだった。見張り。二人目。写しの刷り。カルネの供給担当が数えたものと、並びまで同じ行だ。街の大きさが違うだけで、恐れているものは一つも違わない。
宿へ戻る道で気づいたことが一つあった。
カルネでは三人が別々に宿へ来た。うちの下も通っているのか、と三人とも同じことを訊いた。
王都では誰も訊きに来ない。頁は宿の柱ではなく局の棚へ入る。棚の紙には誰も何も訊かない。
監査院ではローデリクが配布の綴りを先に開いた。
「受領は揃っています。統轄部の分もこちらの分もあります。配布としては瑕疵がありません」
「招集ではないと読まれましたか」
「表に出ていませんので、読みようがありません」
彼は綴りを閉じてから、別の一冊を出した。役所の機構の綴りだった。
「昨日から探しておりました。あの一枚を受け持てる部署があるかどうかです」
頁を三つ開いて並べる。
「魔導庁の保守局は王都の設備を運用します。あの一本は王都の設備ではない。統轄部は名簿を持っています。ですが台帳の登載に異議を出した側です」
「監査院は」
「量る側です」
ローデリクは自分の言葉に苦い顔をした。
「領の役所も見ました。街の外の野は領の地ですが、街の下は街です。十九の街をまたいだ一本は、どの領の役所の綴りにも収まりません」
「どこにも無い、ということですか」
「どこにも無い、ではありません」
彼は三つの頁の縁を指でなぞった。
「どこも重ならない、です。端が触れている部署が四つあります。四つとも、自分の側から見るとあれは外なのです」
ハーケンは監査院の裏の狭い部屋にいた。卓には量りの帳面が開いたままだった。
「王都へ来た用は聞きました。五つ目の欄を埋めに来たのでしょう」
「埋まりませんでした」
「埋まらないでしょうね」
ハーケンは頁を一枚めくった。
「では次の話をしましょう。あなたは上を探しています」
「探していました」
「私は上になりません」
指が一本立った。
「監査院が卓の頭に座れば、来年その卓を量る者がいなくなります。自分の作った場を自分で量る帳面は、その日から誰にも信じてもらえません」
「承知しています」
「承知していて、まだ探しているでしょう」
アシュレイは首を振った。
「今日で終わりました。保守局は設備の外だと言い、領は街の外だと言い、あなたは量る側だと言います。四つとも正しいのです」
「正しいですね」
「正しい者しかいない場所には、決める者がいません」
ハーケンは帳面を閉じた。
「見分けの日は動かしません。前に書いたものを一つだけ直しておきます」
「直しますか」
「あの欄が空だった場合に、私が何と書くかです。あなたの怠りとは書きません。制度の空白と書きます」
「同じではありませんか」
「違います」
湯呑みが卓の端へ寄せられた。
「怠りなら、あなたを替えれば済みます。空白なら、替えても埋まりません。……そして空白と書かれた欄は、埋める案を先から持っている者の手へ回ります」
その案を持っている部署は、この建物から二つ辻を越えた先にあった。
帰りは来た道をそのまま戻った。分かれ道で北へ折れ、イルダンの門をくぐったときには年が明けていた。
執務室の卓には返りの紙切れが二枚増えていた。ミレナが二枚を並べ直した。
「峠の向こうの二つです。宿の主人の印が押してあります。読み上げた日と、聞いた人の数も入っています」
「南は」
「まだです。届いて黙っている街は二つのままです」
ノラは異議の綴りと自分の罫の頁を開いていた。話を聞き終えても筆を置かなかった。
「四つとも断ったのね」
「断ってはいません。どこも、うちの外の話だと言っただけです」
「同じことよ」
筆の尻で頁の縁を叩く。
「で、あなたはまだ上を探すの」
「探しません」
「なら、上を作らなきゃいいのよ」
ノラは新しい紙を引き寄せて、真ん中へ丸を描いた。その脇へもう一つ。間を空けずに横へ並べていく。数え終わると紙の下の段に丸の列ができて、上の段が丸ごと空いた。
「十九よ」
「上座がありません」
「上座を作るから、誰が座るかで揉めるの。座らせる相手がいないなら、初めから描かなければいいでしょう」
アシュレイは列の端から端まで目で追った。
「決める者は」
「十九よ」
ノラは筆を上の余白へ持っていって、そこで止めた。
「一つ言っておくわ。この描き方はあなたが思っているほど楽じゃないの。上の無い卓は、決まらなかったときに誰のせいでもなくなるわ」
「そこは考えます」
筆先はまだ余白の上にあった。ノラはしばらく置いてから、何も描かずに筆を戻した。
「なぜ描かないのですか」
「描いたら、あなたがそこへ座る絵になるからよ」
その晩、王都からの便が着いた。ミレナが戻ってきた足音でだいたい分かった。
封蝋は統轄部のものだった。
「代筆ではありません」
ミレナは封の表を灯へ寄せた。
「長の名です。書記官の名は、その下に控えとして一つ入っているだけです」
異議の綴りの末尾には、署名の無い一通が綴じてある。その次の番号は、まだ振られていなかった。
「開けますか」
「開けます」
ノラが丸の列を描いた紙を裏返して、その上へ封を置いた。
「上を作らないと決めた日に来たのよ。……よく見ておきなさい」




