第143話 白いままの四枚
イルダンへ戻って四日目に、峠から二度目の言づけが入った。
窪みの土は動いていない。三行の紙は雪をかぶったまま立っていた。荷運びは前と同じ日に宿へ寄って、同じ形の言づけを置いていった。
ミレナが控えを読み上げてから顔を上げた。
「同じ場所を同じ人が見て、同じ紙が立っています」
「返しの紙は出せますか」
「出します。見たと書いてありましたので、見たと控えたと返します」
書けるのはそこまでだった。その先を書く欄がまだ無い。
セルマが束を抱えて入ってきたのは昼前だった。外套の雪を払わずに卓へ紙を広げる。春の手配の写しだった。
「気に入らない紙を持ってきたわ」
三枚目を指で押さえる。
「ザルテが春に水路を延ばすのよ。樋の材が三十本と石工の口が二つ。雪が緩んだらすぐ入れる約束で回っているわ」
「ザルテは」
ミレナが綴りを開いた。
「名簿の写しから名だけ書き移した八つのうちの一つです。返っているのは印だけです」
「宿は分かりますか」
「分かります。読み上げも入っています」
ノラは台帳の綴りを引き寄せて番号の並びを指でたどった。二枚抜いて卓へ置く。
「二枚あるのよ」
どちらも在り処と繋ぎ先だけが埋まっていた。いつ誰が確かめたかは白い。四つ目には確かめていないとある。五つ目の受け持つ者の名も白い。
「名の入っていない継ぎ目は四枚になったわね。カルネで一枚埋めたもの。……その四枚のうちの二枚が同じ街の下にあるの」
「ほかの街は一枚ずつですか」
「一枚ずつよ。二枚抱えているのはザルテだけだわ」
セルマが道の割りをめくった。
「十日で着く四つのうちの一つよ。歩けば十二日ね」
ノラは眼鏡を押し上げて二枚を並べ直した。
「カルネは分かっていて黙ったのよ。あの街は自分の帳面に何が積まれるかを数えられたわ」
「ザルテは数えていません」
「数えようがないでしょう。何も知らないんだから」
筆の尻で紙の縁を叩いた。
「怖がっていない街のほうが早く土に入るわよ」
「図面がこちらにありません」
アシュレイは二枚を綴りへ戻した。
「延ばす先も深さも分からないままでは、重ねる紙がありません」
ガルドは土間で荷を締め直していた。カルネから戻って四日で、外套はまだ乾ききっていない。
「十二日か」
「十二日です」
「行くんだろ」
「行きます」
ザルテへ着いたのは十二日目の夕方だった。
街道からの下りが長い。王都へ向かう者はこの下りへ入らず、分かれ道をまっすぐ行く。街道からは屋根が見えていて、街道を行く者は誰も入らない街だった。
街は平らな土地に広がっていて、田の間を用水が一本まっすぐ抜けている。門は無く、下りた道がそのまま通りになっていた。
宿の帳場に頁の写しは貼っていなかった。主人は引き出しから出してきた。
「読み上げました。六人おりました」
「何か訊かれましたか」
「いいえ。一人も」
主人は紙の折り目を伸ばした。
「下に何か通っていると申し上げましても、うちの井戸は出ますし灯りも点きますので」
「核はどこにありますか」
「東の倉の裏です。鍵は市庁の帳場の箱に入っております」
「最後に開けたのは」
「去年です。屋根の雨漏りを直しましたので」
「見ている方は」
「おりません」
ガルドが土間の隅で帽子を振った。
「カルネじゃ押し返されたな」
「押し返されました。ここは何も返ってきません」
「押し返す手がねえだけだ」
翌朝に市庁で水路の図面を借りた。書役は嫌がらなかった。春の普請の写しはもう三枚あって、そのうちの一枚をそのまま貸してくれた。
「費えは要りますか」
「要りません」
「では結構です」
断られなかった。訊かれもしなかった。
宿の卓へ図面を広げて台帳の頁を重ねる。用水は街の南から東へ回っていた。延ばすのは東の田までの二百歩ぶんで、途中に落とし枡を二つ据える。
ガルドが東の端を指で押さえた。
「枡は深いぞ。溝は三尺で足りるが枡は五尺は掘る」
「継ぎ目の線はここです」
頁の数字どおりに線を引くと、二つ目の枡の真ん中を通った。
昼前に用水の脇で針を出した。土は凍っていて踏んでも沈まない。
帯は出た。細いが、揺れの間の空き方が規則正しく、メレンで写した帯と同じ形をしている。ガルドが自分の目で読み直してから頷いた。
三つ目の欄へ日付と二人の名を書く。四つ目には生きているとだけ入れた。
「確かめていないが一つ減ったわけだな」
「減りました」
「五つ目は白いままだぞ」
「白いままです」
親方が来たのは石工の下見と一緒だった。丸めた図面を小脇に挟んでいる。
「枡の話だと聞いたが」
「一尺と少しです」
アシュレイは土へ線を引いた。
「二つ目の枡の底が、継ぎ目の上一尺と少しのところへ来ます。針の出方からはそれ以上詰められません」
「掘り当てるかもしれねえってことか」
「当たるかどうかは掘るまで分かりません」
「厄介だな」
「枡を三尺ずらせますか」
親方は図面を広げて勾配を目で追った。
「三尺なら落ちは変わらねえ。石も同じ数で足りる。……だが理由が要る。ずらせば溝が曲がるからな」
「掘り当てたら止まります」
「止まる。誰が止めるんだ」
「あなたです」
親方の眉が動いた。
「掘り当てた者が手を止める以外に、いまは止め方がありません」
「止めたらどうなる」
「石工の口が二つ入っていますので、半日で二日ぶん遅れます」
親方は舌を鳴らしてから図面へ印を入れた。
「三尺ずらす。……あんたの言う下のものが怖いからじゃねえぞ。止まるのが怖えんだ」
「それで結構です」
用水を見て回る男は十日に一度歩くと言った。堰の板を上げ下げして水を分ける役で、雪の間も回っている。
アシュレイは四行の紙を出した。
「土だけ見ていただきます。触らず近づかず、掘り返した跡と新しい土だけです」
「土なら見てる」
男は紙を灯りへ寄せた。字は読めているようだった。
「見つけたら誰に言う」
「宿へ一言置いてください」
「宿の主人は誰へ回す」
答える前に少し置いた。
「この街には回す先がありません。宿から便でイルダンへ回していただきます」
「十日かかるぞ」
「かかります」
男は紙を畳んで懐へ入れた。
「まあいい。歩く道は変わらねえからな」
その晩、頁の五つ目に水番の名が入った。白いままの継ぎ目は三枚になる。
もう一枚のほうは翌日に歩いた。
繋ぎ先の線は用水から離れて街の中へ入っている。井戸のある通りの下を抜けて、家の並びの裏で東へ折れていた。
親方が並んで歩いた。
「こっちにも見る者を立てるのか」
「立てません」
「なんでだ」
「この通りでは効きません」
アシュレイは足元を指した。
「罫は掘り返した跡と新しい土を見ます。ここは春になれば誰かが掘っています」
「井戸のさらいがあるな。便所も掘るし、家を継ぎ足すやつもいる」
「新しい土が出ても、それが何の土か分かりません。効かない罫を書けば、書いたぶんだけ効いていると読まれます」
「じゃあ白のままか」
「白のまま載せます」
針を当てるには家の裏か蔵の下へ入る要がある。市庁の書役は首を振った。
「家の中のことは私では決められません」
「どなたが決められますか」
書役はしばらく考えていた。
「……市庁で相談いたします」
相談の先が誰なのかは訊かなかった。訊いても出てこないと分かる顔をしていた。
発つ前にもう一度普請の場を見に行った。親方は枡の杭を三尺ずらして打ち直していた。
杭の頭を踏んで固めてから、親方は手を止めた。
「春に掘って何か出たとするだろ。おれは手を止める。止めたあと、これは誰に訊けばいいんだ」
答えられなかった。
「あんた以外に」
言づけは宿へ入る。宿から便でイルダンへ回る。着いた先で紙が一枚立つ。立てるのは権限の無い一人で、その一人がそのときどこにいるかは誰にも分からない。
荷を締めながら別立ての一枚を思い出した。
九十四枚のいちばん最後に、継ぎ目でない一枚がある。王都の核の頁だ。四つ目の欄には受けている、と書いてある。上は切られていて、横から受けているのはあの一枚きりだった。
あの頁の五つ目の欄も白い。
継ぎ目ではないので、白い枚数を数えるときに誰も数えなかった。いちばん受けている街の頁に、受け持つ者の名が入っていない。
帰りの道はザルテの北で折れる。折れずにまっすぐ行けば王都だった。




