第142話 認めると来るもの
継送の便で十日の道は歩くと十二日かかった。
カルネの門が見えたのは十二日目の朝だった。門前の坂は轍が凍っていて踏むたびに薄く割れる。ガルドは坂を上りきるまで足元ばかり見ていた。
「掘り返しは無えな」
「ありませんね」
「この道は人が通る。掘りゃ誰かが見るからな」
門をくぐってから一度だけ振り返った。
「見るやつがいる道は掘られねえ。……野には誰もいねえんだ」
宿は門から三本目の通りにあった。帳場の脇の柱にこちらの刷った頁が貼ってある。四隅を細い釘で留めてある。上から油紙もかぶせてあった。
帳場の板に彫ってある屋号の印は角が丸い。戻ってきた紙切れに押してあったものと同じ形だった。
「返っていた紙切れには、印だけが押してありました」
主人は手を拭いてから頷いた。
「押すだけの紙でしたので、押して返しました」
「読み上げてはくださったのですね」
「読みました。……返す紙に書くことではないように思いまして、こちらで控えました」
主人は帳場の下から一枚を出した。日付と人数が並んで書いてある。
「十一人です。着いた晩ではありません。三日置いてからにしました」
「なぜ三日ですか」
「荷が寄る晩のほうが人がいるからです。あの晩は誰も何も訊きませんでした」
主人はもう一枚を横へ並べた。日付が三つ書いてある。
「訊きに来たのは二日あとからです。三人が別々に来ました。三人とも同じことを訊きます」
「うちの下は通っているのか、ですか」
「そのとおりです」
「答えられましたか」
「答えられません。柱の紙には街の南の外れを通っていると書いてあります。ですが誰の家の下かは書いてありません」
ガルドが柱の頁を見上げた。
「市庁は取りに来たか」
「来ました。原本を持っていくと言われましたので、裏を見せました。写しの請求先が書いてありますので、そちらで取ってくれと申し上げました」
油紙をめくって裏を見せる。所在と請求先の欄は刷ったままの形で残っていた。
「その一行があると助かります。柱から剥がされずに済みますので」
炉番が顔を出したのは日が落ちてからだった。ガルドが言ったとおり、宿の土間に座っていると向こうから来た。
鍛冶場の匂いのする外套を脱がずに、卓の端へ腰を下ろす。
「読んだぞ。核の脇の柱にも貼った。二人目にも読ませた」
「印は宿から返っています」
「返した。……こっちから書かなかったのは、書くことが無かったからじゃねえ」
男は指の関節を鳴らした。
「書けば、おれの名で書くことになる。おれの名で書いたものは、そのうち市庁が払うことになるんだ」
「去年の手当のことですか」
「二人目だ。核へ降りるときは二人だと決まっただろう。片方は必ず仕事を抜ける。市庁が月に四日ぶん出してる」
「四日ですか」
「四日だ。年が明けたら六日にしてくれと言ってある。……そこへあの紙が来た」
男は柱のほうへ顎をしゃくった。
「うちの下も通ってると分かった。次に来る話は決まってる」
市庁の供給担当が宿へ来たのは、それから半刻もしないうちだった。外套に雪はついていない。近くで待っていたのだと分かる。
男は名乗ってから、この街の施設の戸の外で押し問答を聞いていたと言った。
「あのときは助かりました。査察団は確認命令を押さずに帰りました」
「押し返しただけです」
「押し返していただきました。……ですがあのあと、この街は数え直しをしております」
供給担当は指を三本立てた。
「二人目の手当が月に四日ぶん。綴じ替えのために事務が一人。冬の道へ人を出すたびに宿賃です。一つずつは小さい額です。小さいものは戻りません」
「戻りませんね」
「監査官殿。私が申し上げたいのは一つです」
男は一度だけ息を吸った。
「うちの下を通っていると台帳に書かれたら、次に来るのは費えの話です」
土間が静かになった。
「掘り返しの見張りを出せと言われます。二人目を増やせと言われます。写しを刷れと言われます。全部うちの持ち出しになります。……書いていない街には誰も来ません」
男は頭を下げた。
「間違っておりますか」
「間違っていません」
返せる言葉は他になかった。ガルドも黙っていた。この街は勘定を間違えていない。紙が一枚届いただけで、この先に何が積まれるかを正しく数えている。
「一つだけ申し上げます」
アシュレイは卓に手を置いた。
「書かれても書かれなくても、下は通っています」
「通っていても、うちの帳面に無ければうちの費えにはなりません」
「なりません。……掘り返しが来たときも、うちの費えにはなりません」
供給担当の眉が動いた。
「ふた月ほど前に、峠の野で土が掘り返されました。街の境の外です。幅は人が一人しゃがめるほどで、深さは膝より浅い」
「見つけたのは」
「その街が立てた者です。触らず、近づかず、日付を控えて宿へ言づけました。書いたとおりに動いています」
「では止まったのですね」
「止まりませんでした」
供給担当が顔を上げた。
「その街は載っていたのですか」
「載っていました」
「載っていて止まらなかった」
「止まりませんでした」
嘘をつく場所ではなかった。
「報せは上がりました。上がった先に止める者がいませんでした。いま野に立っているのは、権限の無い者が書いた紙が一枚だけです」
「……ではやはり、書く意味がありません」
「紙は一枚立ちました。載っていない野には、立てる紙もありません」
アシュレイは指を一本ずつ折った。
「掘っている者は許しを取っていません。許しを取っていない者は領の帳面に載りません。載っていない者を、領の役人は止められません。そこに何かがあるという紙も無ければ、誰も何も持っていないことになります」
「では、書けば止まるのですか」
「いまは止まりません」
供給担当は少し笑った。腹を立てた笑い方ではなかった。
「無いものの費えを、先に払えとおっしゃる」
「払っていただかなくて結構です」
アシュレイは荷から一枚を出した。刷り上がりのうちで一番薄い紙である。
「今日お願いするのは一つだけです。費えは要りません」
紙には四行しか刷っていない。触らない。近づかない。掘り返した跡と新しい土だけを見る。宿へ一言置く。
「見て報せる者です。核へは降りません。触れてよい者の綴りにも入れません」
「誰にやらせるのですか」
「元から通る人にお願いします。道は変えません。半日も止めません。宿で一言置いて、そのまま行っていただきます」
「ただに見えるものは、たいてい誰かが黙って払っております」
「一つだけ払っていただきます」
アシュレイは炉番のほうを見た。
「言づけが入ったら、聞いたと控えてください。控える先は市庁でなくて結構です。……返らない言づけは、二度目から入らなくなります」
炉番が卓を叩いた。
「なら、おれが頼む」
外套の前を掻き合わせながら立ち上がる。
「野の継ぎ目の脇は炭焼きの道だ。冬でも月に六度は通る。あいつなら土の色を見りゃ分かる」
「頼めますか」
「頼める。……あいつは土しか見ねえぞ」
「土だけで結構です」
供給担当はしばらく紙の四行を読んでいた。それから顔を上げずに言った。
「市庁の帳面には載せません。手当も出しません」
「載せなくて結構です。載るのはこちらの台帳です」
「名前が載るのは、その炭焼きだけですね」
「その者だけです」
「……なら止めません」
男はそれだけ言って外套を直した。卓へ出るとは一言も言わなかった。こちらも訊かなかった。
その晩、宿の帳場を借りて頁を書き足した。カルネの野の継ぎ目は在り処と繋ぎ先だけが埋まっていて、受け持つ者の名の欄が白いまま載せてある。そこへ炭焼きの名を入れた。日付と、頼んだ者の名も添える。
名の入らない継ぎ目は五枚あった。今夜から四枚になる。
帰りの道は下りが多いぶん少し早かった。三日目の昼にガルドが足を止めた。
「一つ訊いていいか」
「どうぞ」
「あんた、卓に来いって一度も言ってねえな」
「言っていません」
「あの担当だって、悪い顔はしてなかったぞ。あんたが頭を下げりゃ、あの街は出てくる」
「出ると思います」
「じゃあなんで言わねえんだ」
「私が呼べば、私が呼んだ卓になります」
ガルドは口の端を歪めた。
「それで何が困る」
「私が行けない街には、卓が届きません。遠い五つは冬に十一日かかります。私の足が届く範囲が、そのまま卓の大きさになります」
「……いつもの話だな」
「いつもの話です」
ガルドは荷を担ぎ直して、少し歩いてから背中で言った。
「じゃあ、あんたが呼ばねえなら、誰が呼ぶんだ」
答えは出てこなかった。
その名を書く欄は、まだ台帳のどこにも刷られていない。




