第139話 決める場が無い
白い紙の名は五つで止まっていた。
イルダン。カダル。カルネ。メレン。バルクス。そこから先が進まない。名簿の写しには十九そろって並んでいるが、並びは在り処の順で、卓へ呼ぶ順ではなかった。
どの街から書くかを決める理由がこちらの手元にない。
ミレナが湯を置いた。
「峠の二つは、どちらを先に書きますか」
「決めていません」
「では空けておきます」
空けたまま並べると紙に穴が二つできた。穴のある紙は誰にも見せられない。
継送が着いたのは昼を回ってからだった。
峠の宿の印が押してある。中の紙は二枚で、一枚は宿の主人の字、もう一枚はその街の触れてよい者の字だった。
ミレナが日付を読み上げた。
「言づけが宿へ入ったのが四日前です。宿から街へ回ったのが翌朝。街からこちらへ出したのが二日前です」
「早いですね」
「荷運びが宿を出る前に言づけています。次の宿まで持ち歩いていません」
ノラが二枚目を先に取った。
「罫のとおりに動いたわ」
束の縁で紙を叩いた。
「触ってないの。近づいてもいないわ。見たのは土だけよ。……こっちが書いたとおりのことしか書いてないもの」
セルマが遅れて入ってきて外套の雪を払った。
「その荷運びなら知っているわ。峠の油と塩を運んでいる人よ。月に四度あの脇を通るの」
卓の紙を覗いてから顔を上げた。
「損をしていないわね。宿で一言置いただけだもの。……これなら続くわよ」
書いてあることは短かった。
野の継ぎ目の一つだった。名の入った六枚のうちの一枚で、月に四度あの荷運びが脇を通る。街道から見て左の窪みで土が掘り返してあった。幅は人が一人しゃがめるほど。深さは膝より浅い。継ぎ具そのものは見えていない。新しい土が山になって残っていた。
雪の前に掘った跡ではない。雪の上に土が乗っている。
「三日以内ね」
ノラの指が日付をなぞった。
「言づけが四日前で、荷運びが通ったのはその朝よ。降ったのは五日前だわ」
「掘った者はまだ近くにいる可能性がありますね」
「あるわね。……で」
ノラが顔を上げた。
「これ、どうするの」
二枚目の末尾に、街の触れてよい者が一行だけ足していた。
――これは、どこへ上げればよいのでしょうか。
アシュレイはその一行を二度読んだ。
男は正しく動いている。触らなかった。近づかなかった。日付を控えて上へ回した。回した先で答えが返らないので、こちらへ書いてきた。
「その街の権限では届きません」
アシュレイは管理表を開いた。
「窪みは街の境の外です。街の触れてよい者が動けるのは、自分の街の核とその周りまでです」
「領の役人は」
ミレナが顔を上げた。
「野は領の地です。ですが領の役人が止められるのは、掘る許しを出した相手だけです。許しを取らずに掘っている者はそもそも帳面に載っていません」
「統轄部は」
「名簿を持っています」
アシュレイは少し置いた。
「ですが台帳の登載に異議を出した側です。異議の綴りが片づく前にあの部署へ止めてくださいと書けば、名簿はやはり自分たちの手にあると読まれます」
「監査院は」
「量る側です。当事者になりません」
アシュレイは指を止めた。
「……それに、あちらへ上げるのは筋が違います。ハーケン殿には、止め手は各地の触れてよい者ですと申し上げました。台帳が通ったのは、その一行があったからです」
ノラが手を止めた。
「通した条件が、いま欠けてるってことね」
「欠けています。……街の中では欠けていません。欠けているのは街の外です」
ノラが眼鏡を押し上げた。
「じゃあ、うちは」
「イルダンには、他所の街の外の野を封じる筋がありません」
卓が静かになった。
継送の紙は届いた。経路は動いた。罫は書いたとおりに機能した。
そして届いた先で止まっていた。
セルマが手袋をはめ直した。
「一つだけ言っておくわね」
戸口の手前で足を止めた。
「あの人たち、返事を待つのよ。言づけたことがどうなったかを、次に寄ったときに宿で訊くの。……何も起きていませんでした、が二度続いたら、三度目からは黙って通るわ」
「損はしないのに、ですか」
「損はしないわ。意味がないと思うだけよ」
外套の襟を立てた。
「無駄なことをさせていると思われたら、そこで終わり。罫は残るけれど、誰も通らない罫になるの」
戸が閉まってから、しばらく誰も口を開かなかった。
領へ出す紙は書き出しで詰まった。
差出人の欄に何と書くかで止まる。イルダンの監査官として書けば、イルダンが他所の野へ手を出す形になる。台帳の名で書けば、台帳には差出人になる資格がない。九十四枚は紙であって人ではない。
「台帳の名では出せませんか」
ミレナの手が止まっている。
「出せません」
アシュレイは筆を置いた。
「台帳は、誰かが決めたことを書き留める紙です。……決める側の欄が、まだ空いています」
リオネルが来たのは夕方だった。
「掘り返しの件と伺いました。手勢は出せます」
「どこの手勢ですか」
「イルダンの見張り隊です」
彼は言ってから自分で口をつぐんだ。
「……峠の野は、うちの受け持ちではありませんね」
「出せば、翌月からイルダンが野を見張ることになります」
アシュレイは首を振った。
「一度出した手は、次に出さなかったときに責められます。冬に十一日かかる道へ毎月出し続けられる隊はありません」
「では放っておくのですか」
「放っておきません」
アシュレイは新しい紙を引いた。
「私が止めます」
書いたのは三行だった。
その窪みの周りへ人を近づけないこと。掘りかけの土をならさないこと。次に通る者が同じ場所を見て日付を控えること。
署名は自分の名で入れた。役職も添えた。
ミレナが読んでから筆を止めた。
「監査官のお立場で、野を封じる権はありますか」
「ありません」
「……ありませんね」
「ありませんので、そう書きます」
アシュレイは紙の下へもう二行足した。
――止める場が定まらないため、暫定で監査官が止めた。これは権限に基づく処置ではない。
「異議の欄の隣へ綴じてください。番号は別に振って結構です」
「別に振ります」
ミレナは版の番号を確かめてから紙の隅へ小さく書き入れた。
「同じ番号のものが、峠の宿にもう一枚要ります」
「刷ってください。読み上げる人は宿の主人で構いません」
ノラは自分の罫の頁を開いたまましばらく黙っていた。
それから筆を置いて卓の向こうから真っすぐこちらを見た。
「あなた、いま何をしたか分かってる?」
「越権です」
「それはあなたが書いたわ。私が言っているのは別のことよ」
ノラは三行の紙を指した。
「それ、あなたが倒れたら止まらないやつよ」
答えられなかった。
「触れてよい者は増やしたわ。二人目の決まりも作ったし、見て報せる者も立てたわね。……止め方も配ったわ。全部あなたがいなくても回るようにしたのよ」
筆の尻が紙の隅を叩いた。
「なのに止める判断だけが、まだあなたのところにあるじゃないの」
「そのとおりです」
「そのとおりですで済ませないでちょうだい」
ノラは頁を閉じた。
「これ、あの日の続きよ。決めない人が抱えていると、決める日は来ないって言ったでしょう。……いまのが抱えたほうよ」
夜になってから第一頁を出した。
九十四枚の頭の紙で、五つの欄の並びと、番号の刻みと、扱いの欄がある。扱いの欄は空で、空にした理由がその下に書いてある。
これまでこの欄は、まだ書けない欄だった。決める場がないので書けない、と自分で書いた。書けないことを書いたのだから間違ってはいない。
今日その欄は別のものに見えた。
書けない欄ではない。無いせいで、報せが届いた先で止まった欄だ。
継送の紙をもう一度読む。土が掘り返してあった。新しい土が山になっていた。次に通るのは月に四度の荷運びで、いちばん早くて七日後になる。
七日のあいだあの窪みに立つのは三行の紙だけだ。紙を立てたのは権限のない一人で、その一人はいまイルダンにいる。
名の紙は五つで止まったままだった。
どの街から書くかの理由が要ると昼には思っていた。理由なら今日できた。
止まった場所にいた者から順に書けばいい。
筆を取ると、六つ目に入れる名はもう決まっていた。あの宿のある峠の街だ。




