第138話 まだ張られたままの一本
イルダンへ戻ったのは初雪の三日あとだった。
原本棚の下の段を一つ空けて綴りを四冊並べた。継ぎ上がった図のうちイルダンぶんの写し。触れてよい者の綴り。名簿にある街の暫定管理表。それに統轄部の名簿の写しが一冊。
写しのいちばん古い頁には罫の紙が貼り足してある。知らない、とだけ書いた字と日付と署名が入っていた。
ミレナが受領の印を押してから版の番号を書き込んだ。
「段の札は何と書きましょう」
「一本ぶんで一段です。札は地面の下の一本で結構です」
「台帳の名のほうは」
「札の隅へ小さく添えてください。引くときに要ります」
ミレナは筆を持ち替えて隅へ字を入れた。旧基盤系統。確認分。
「街へ配る紙は昨日刷り上がりました」
束の上の一枚をめくって見せた。
「その街の頁の写しと、地面の下の一本と書いた一枚です。番号は両方へ同じものを刷ってあります」
「読み合わせの手当ては」
「峠の二つは字の読める人が少ないので、読み上げる人を先に決めました。宿の主人です。夏の告知のときも読んでもらいました」
「読み違えたときの直し方も一行入れてください」
「入れてあります。直した版は番号の末尾を変えます」
ノラは五つ目の欄だけを抜き出した頁を重ねていた。白い欄が並んでいる。
「十一枚のままよ」
束の縁を指で弾いた。
「街の頁は名が埋まったわ。埋まらないのは街の外の継ぎ目よ。近い順に並べてもいちばん近いので半日。遠いのは二日だわ」
「街の手では届きませんね」
「届かないわ。触れてよい者はまず自分の街の核を見るもの。冬に二日かけて野へ出ろとは言えないわよ」
ガルドが戸を開けて入ってきた。帽子の縁に雪が残っている。
「野の五つは見てきた。継ぎ具を外した跡はそのままだ。触った者はいねえ」
「何日かかりましたか」
「十一日だ。雪が乗りゃ倍だな」
帽子を卓の脇へ置いた。
「毎月は回れん。俺が寝込みゃその月はゼロだ。……型は紙で配れるが、道のほうは歩かねえと分からんぞ」
アシュレイは白い欄の頁を一枚引き寄せた。
「見に行く手を増やすのは冬のあいだは無理です。気づく手のほうを先に増やします」
「気づく手ってのは」
「その脇を通る人です」
セルマが綴りを開いて数字を追った。
「峠の荷運びは月に四度あの脇を通るわ。野の三つは街道からよく見えるところよ」
頁を戻して顔を上げた。
「ただし見張りをやらせるなら断られるわよ。荷を止めて何かあったと届けに走るのは、あの人たちには丸一日の損だもの」
「見張りではありません。土が掘り返してあったら次に着いた宿で言づけてほしいだけです」
「言づけなら受けるわね。宿から先は」
「宿の主人がその街の触れてよい者へ回します。回した日付を宿で控えてもらいます」
「そこまでなら組めるわ」
ノラの筆が止まった。
「触れてよい者の綴りへは入れないわよ」
「入れません」
「そうよね。入れたら、そのうち自分は触ってよい側だと思うもの」
ノラは新しい罫を引いた。欄の名は見て報せる者にした。触らない。近づかない。掘り返した跡と新しい土だけを見る。書いたのはそれだけだった。
「これで十一枚のうち六枚に名が入るわ」
「未確認の扱いは変えません」
アシュレイは頁を戻した。
「見て報せる者は止め手ではありません。ですが誰も通らない継ぎ目と、月に四度人が通る継ぎ目は違います。そこは欄を分けて書いてください」
「分けるわ。残りの五枚は白いままよ」
「白いままで載せます」
ノラは暫定管理表を開いて名の欄を追った。
「ドランは十日ごとの測りが四度続いているわ。ヨナスの署名と二人目の署名が四度とも入っているの」
「二人目は同じ人ですか」
「三度目から替わっているわ。カダルと同じね。近くで見ていた人を順に立てているのよ」
「一人が続けて立つより、そのほうが残ります」
王都からの便りは五日遅れで届いた。エルリックの束とゲイルの日誌の写しが一緒に入っている。十日に一度の帯の記録が日付順に貼ってあった。
ミレナが読み上げた。
「揺れた晩は一度きりです。ほかの晩は帯が平らだと書いてあります」
「その一度はいつですか」
ミレナが日付を言うと、ノラが管理表をめくった。指が止まった。
「メレンよ。その晩にテオとハイムが十日ごとの測りをやっているわ」
「触ってはいませんね」
「触っていないわ。針を近づけて帯を写しただけよ。二人の署名が入っているもの」
しばらく誰も口を開かなかった。
上へ抜ける九本はどれも途中で切れている。束ねる先はもう無い。それでも街の一つで人が針を近づけた晩に、王都の核の帯の頭が動いた。
「受けている、で合っていました」
アシュレイは束を綴りのあいだへ挟んだ。
「上は切られていますが、横は繋がったままです」
「地面の下はまだ死んでねえってことだな」
ガルドの声は低かった。
リオネルが夕方に上がってきた。
「峠の手前の宿は三度当たりました。ヴァルターの足取りは戻りません」
「近づかない方針のままで結構です」
「宿へは何を頼んでありますか」
「泊まった者の名は訊かなくて構いません。継ぎ具に似た荷を担いだ者が通ったら日付だけを控えてもらっています」
「オルセンのほうは」
「昨日、峠の街へ発ちました」
老人は写しを一部だけ持っていった。出どころの欄に自分の字が入っている綴りだった。渡すときの一行も同じ紙へ写してある。
――上は在らぬと確かめた。この順で起こしてはならん。
リオネルの手勢は門の外までで引いた。罪に問う紙は出ていない。
「止めなくてよかったんですか」
「止める理由がありません」
アシュレイは戸口の外の雪を見た。
「あの人が持って歩いているのは確かめ終わった順です。四十年ぶんの写しのうち、上は在らぬと書いてあるのはあれだけです」
三日あとにメレンから継送が届いた。街の頁の写しを見に来た者が一人あったという。名は訊いていない。帳面には日付と、どの頁を見たかだけが書いてあった。
見たのは九本の終端の頁だった。
「順を継いだ人でしょうか」
ミレナが訊いた。
「分かりません」
「訊かなくてよいのですか」
「名を控える帳面には二度目が来ません」
アシュレイは継送の紙を綴りの端へ回した。
「終端の頁には、切られている、と書いてあります。あの人はそれを読んで帰りました。……四十年かかって届かなかった一行が、半日で読める場所に置いてあるということです」
掲示の前は思ったより人が立った。ミレナが二日目の様子を持って戻ってきた。
「訊かれるのは、いつ掘り返すのかではありませんでした」
「では何を」
「うちの下も通っているのか、です」
「通っています。頁をお見せしてください」
ローデリクからの書面は月末に届いた。補則の文が正式に通ったこと。名簿の様式に理由の欄を加えること。知らないと記した欄は半年ごとに確かめ直すこと。末尾に監査院の見分けの日が入っていた。
同じ封に一枚だけ別の紙があった。ハーケンの字だった。半年後に第一頁から見る。そのときあなたはどこにいるか。
「どう書くの」
ノラが覗き込んだ。
「決めていません、と書きます」
「それでいいの」
「よくはありません。ですが書けないものを書けば、その欄も嘘になります」
ノラは眼鏡を押し上げた。
「あなたの仕事の名前が変わったわね」
「変わっていません」
「変わったわよ。前は止める人だったわ。次は手を増やす人になったわね。今度のは、みんなで決められる形にして置いておく人よ」
「決めるのは私ではありませんので」
「そこよ」
筆の尻で棚の段を指した。
「決めない人が抱えていると、決める日はいつまでも来ないの。段へ置いたのは正しかったわ。置いた先で誰が開けるのかは、まだ誰も書いていないけれどね」
その晩、卓の上へ第一頁を出した。
九十四枚を端から繰った。生きている。切られている。確かめていない。四つ目の欄はその三つのどれかで埋まっていて、最後の一枚だけが受けている、と書いてあった。
地面の下の一本は、切られて、割られて、字を消されて、それでも今も張られたままだった。九十四枚は写しにすぎない。写しを作ったところで、下の一本が一寸でも動いたわけではない。
起こすのか。止め続けるのか。このまま管理し続けるのか。
決める者を集めるほうが先だった。
アシュレイは白い紙を引き寄せた。いちばん上へ書いたのは表題ではなく、街の名の一つ目だった。
冬が明けるまでに、あと十八ある。




