第136話 理由の無い名簿に理由を
王都へ入ったのは野を引き払ってから九日後だった。
オルセンは街へ残してきた。リオネルの手勢が宿の周りに立っている。連れてくれば老人は罪人として王都の門をくぐることになる。今そうする理由が無かった。
監査院の一室に卓が据えてある。その上に統轄部の名簿の最も古い綴りと、継ぎ上がった図の写しと、部署の設立を記した紙が並べてあった。紙は一枚きりだった。
ローデリクが照会の結果から先に述べた。
「裁可した上の綴りは目録に番号だけ残っています。棚にはありません」
「移した記録は」
「ありません。焼いた記録もありません。三度探させて三度とも同じ答えでした」
アシュレイは設立の紙を手前へ引いた。
日付があり部署の名があり、目的の欄がある。欄に入っているのは四文字だけだった。
所在把握。
どこにあるかを押さえる。それきりだった。なぜ押さえるのかも押さえてどうするのかも書いていない。書く場所そのものが紙に無い。
戸が開いてマーロウが入ってきた。老人は椅子を引く前に口を開いた。
「先に申し上げます。その図を台帳へ載せるのは反対です。名簿は元のとおり在り処だけを数えて伏せておくのが筋です」
「伏せる筋は、どこに書いてありますか」
「書いてなくとも筋は筋です」
アシュレイは設立の紙を卓の中央へ滑らせた。
「目的の欄は四文字です。所在把握。……封じよとも伏せよとも書いてありません。あなたが守ってこられた筋は、この紙のどこにも書かれていません」
マーロウは紙を見下ろしたまま座った。
ノラが名簿の最も古い頁を開いた。
「罫が二本しか引いてないのよ」
頁の面を指で横になぞった。
「在り処の欄と番号の欄。二本でちょうど頁が埋まるように割ってあるわ。余白が一分もないの」
三枚めくって同じところを見せた。
「あとから足したくても足せない作りよ。……理由の欄が無いんじゃないの。書けない形に割ってあるのよ」
ローデリクが横から頁を覗き込んだ。
「書き忘れではない、と」
「忘れた欄は隅に小さく書き込まれるものよ。人は書きたくなるもの。……この帳面は書きたくなっても書けないの」
アシュレイは頁の罫を上から下まで目でたどった。
「理由の欄が無い帳面は、理由を訊かれない仕組みです。数える者が何代替わっても、誰も自分の代で決めた覚えがない。決めた者がいなくなっても決まりだけが残ります」
「決めた覚えが無くて何が悪い」
マーロウの声は低かった。
「前に一度お話ししました。素人が核へ手を伸ばして人が死にました。私はその場におりました。……危ないものを遠ざけておくのに、理由の欄が要りますか」
「要ります」
アシュレイは図の写しを引き寄せた。
「あなたが遠ざけたのは在り処です。繋ぎ順のほうは遠ざけた先で四十年継がれていました」
「四十年」
「紙が四種類ありました。字も四種類です。写して渡すたびに手が替わっています。私が会った時にはもう次の三人へ渡ったあとでした。名も告げずに渡す決まりで継がれています」
マーロウの指が名簿の縁で止まった。
「捕まえればよい」
「四十年、捕まりませんでした」
アシュレイは静かに続けた。
「伏せたから継がれなかったのではありません。伏せたから、明るくないところで継がれました。在り処の側を抱えて黙っていたぶん、順の側は確かめる術を持たないまま渡り続けました。……確かめようのない者ほど、いつか試します」
マーロウは答えなかった。
ハーケンがそこで初めて口を開いた。
「話を図のほうへ戻します」
監査官は継ぎ上がった写しへ顎を向けた。
「明るいところへ出すこと自体は止めません。訊きたいのは置き場です。三部に分けると聞きました。監査院と統轄部と現場。……その三部が食い違ったとき、どれを正とします」
「正は置きません」
「置かないのですか」
「食い違った日にその卓で継ぎ直します。継いだ卓には毎回立ち会いの名を書きますので、どこから分かれたかは辿れます。……どれか一部を正にすれば、その一部を持つ者がいちばん強くなります」
ハーケンは少しのあいだ黙ってから指を一本立てた。
「条件を二つ付けます。一つ。理由の欄に知らないと書くのは認めます。ですが半年ごとに、まだ知らないままかを確かめて書き直しなさい。……一度書いてそれきり動かない欄は、削られた欄と変わりません」
「二つ目は」
「その図を持って地面の下を繋ぎに行く者が出たとき、誰が止めるかを先に書いておきなさい。止め手の名の無い台帳は通しません」
「止め手は各地の触れてよい者です」
アシュレイは資格の綴りを卓へ置いた。
「図の頁ごとに、その継ぎ目を受け持つ者の名を写して添えます。名の無い継ぎ目は、未確認と同じ扱いで載せます」
「では通します」
ハーケンは椅子の背へ体を戻した。
「通しますが、半年後に見ます」
ローデリクが手元の紙へ書き取っていた。
「補則の文へ落とします。名簿の様式に理由の欄を加えること。知らないと記した欄は半年ごとに確かめ直すこと。……様式の話にしておけば、次の長が誰になっても欄は消せません」
「消せますか」
「様式を変えるには監査院の承認が要ります。承認の記録は残ります。……欄を消した者の名が、そこで残る形になります」
ノラは新しい紙を出して罫を引き始めた。細い欄が四つ並んだ。
「いつ。誰が。何を確かめたか。なぜその扱いにしたか」
筆先で四つ目を叩いた。
「それと、書けなかったときに書けなかったと書く欄よ」
「四つ目は要りますか」
ローデリクが訊いて、それから自分で筆を進めた。
「……要りますね。空けたままの欄は、次の照会でどこから手を付ければよいのか分かりません。書けなかったと記してあれば、次はそこから始められます」
できあがった罫割りを、ノラは名簿の最も古い頁の脇へ貼り足した。
「最初の一行はあなたに書いていただきます」
アシュレイは筆をマーロウの側へ置いた。
老人は長いこと筆を見ていた。
「何を書けと」
「なぜ在り処だけを数えたのか。ご存じの範囲で結構です」
「知らん」
「では、そう書いてください」
マーロウの手は動かなかった。
「……これを書けば、私の前の者たちは何をしていたことになる」
「決まりを守っていたことになります」
アシュレイは筆を引かなかった。
「何のための決まりだったかは、これから誰かが調べます。あなたが知らないと書いておかなければ、次の者はあなたが知っていたものとして読みます。……知っていた者が黙っていた帳面と、知らない者が守っていた帳面は、扱いが違います」
マーロウは筆を取った。
書いた字は在り処の欄と同じ几帳面な字だった。知らない、とだけある。日付を入れて脇へ自分の名を書いた。書き終えてからも老人はしばらく筆を置かなかった。
「名簿は返しません」
やがてそう言った。
「数えるのは統轄部です。理由の欄は作ります。半年ごとに書き直すのも承知しました。……ですが地面の下を繋ぎ直そうとする者がまた出れば、私は集めるほうへ戻ります」
「戻られる前に止めます」
「そう願いたい」
その一言に皮肉の響きは無かった。
マーロウが出ていったあと、ノラは古い頁へ罫割りの紙を貼り足す作業を続けた。日付の古い順に遡っていく。半刻ほどして手が止まった。
「アシュレイ」
声の調子が変わっていた。
最も古い頁のいちばん上の一行だった。数え始めの日付がある。その脇に細い欄がもう一つ引いてあった。この一行だけ罫が三本ある。
「この行だけ割り方が違うの。……命じた人の名を書く欄よ」
ノラは紙を灯へ近づけた。
「理由の欄は無かったのに、誰が数えろと言ったかを書く欄だけは在ったの。……在ったのよ」
欄は空ではなかった。掻き取られていた。
アシュレイは灯を引き寄せて紙の面を斜めから見た。掻いた刃の向きと終いの力の抜き方に見覚えがあった。南の排水溝跡の符号。名簿の古い頁の符号。継ぎ目の設備の右の半分。どれも同じ手つきだった。
「理由の欄は作りました」
アシュレイは削られた白いところを見ていた。
「ですが理由より先に消されているものがあります。誰が命じたかです。……欄が無かったのではありません。在った欄が、あとから削られています」
「順番が逆ね」
ノラは眼鏡を押し上げた。
「理由は初めから書かせなかった。名のほうは一度書かせて、それから削ったのよ。……削るには、まず書かれていないといけないわ」
アシュレイは頁の縁を押さえた。
書いた者がいる。読んだ者もいたはずだった。そのうえで、あとから来た手が名だけを掻き取っている。符号を削ったのと同じ削り方で。
「ここは空けておくわ」
ノラは新しい罫の紙をその欄へ重ねなかった。
「削られていると書いておくの。空欄でもないし、知らないでもないわ。……誰かが書いたものを、誰かが消したのよ」
名簿には理由の欄がついた。あとは継ぎ上がった図を台帳の正規の項目へ落とす番だった。
残ったのは一行ぶんの白さだけだった。名簿にも符号にも手が届いた者でなければ、この削り方はできない。当時その両方に手が届いた者が何人いたのかを、アシュレイはまだ知らない。




