第135話 起こすのでなく地図にする
灯を足したのはミレナだった。長くなるとみて、油の壺をもう一つ卓の下へ置いていった。
会所の卓には九枚の止めた記録と、系統図の写しが広げたまま置いてある。オルセンは端の椅子から動かなかった。膝の上で両手を組んでいる。
「その三人の名を書いていただけますか」
アシュレイは紙を一枚裏返して老人の前へ置いた。
「二人は書けん」
「書けないというのは」
「知らんのだ」
老人は湯呑みへ伸ばしかけた手を戻した。
「順を渡すときは名を訊かん。渡す側も名乗らん。私は師の名を、あの人が死んで三年してから村の者に聞いた」
「決まりですか」
「決まりだ。名を知らねば一人捕まっても順は途切れん。そう教わった」
「ヴァルターさんの名を私が知っているのは」
「あの男が自分で名乗ったからだ。……順の決まりからいえば、あれは踏み外しておる」
リオネルが戸口から入って帽子を脱いだ。
「峠の手前の宿で足取りが切れています。帳面に名はありませんでした」
「探し続けてください。ただし見つけても近づかないでください」
「近づかずにですか」
「あの人は順の帳面を持っています。取り上げようとすれば燃やされます。……燃えれば確かめるための紙が一枚減ります」
セルマは綴りを三冊重ねて卓の空いたところへ置いた。
「金の出どころのほうは形が見えたわ」
一冊目を開いて指を止めた。
「継ぎ具を仕入れた組合の名義よ。半年で七十本を動かした名義ね。……同じ名義が二十年あまり前の綴りにも出てくるの」
「同じ組合がですか」
「同じ名義。中の人は替わっているでしょうね。動いている額が小さすぎるもの」
頁をめくって数字を追った。
「年に二度か三度。街ひとつあたり銅貨で数十枚よ。商いならとうに潰れているわ。潰れずに二十年続いているのは誰も儲けていないからよ」
「街の名は」
「順のとおりよ」
セルマは顔を上げなかった。
「登りの終端がある街ばかりだわ。……あなたの図と同じ並びよ」
オルセンが初めて口を挟んだ。
「街には中身を言わん」
老人は組んだ指を解いた。
「古い設備の見回りに要るとだけ言って回った。中身を言えば出した者まで咎めを受ける」
「言わずに出した人たちは、何のためだと思っていたんでしょうね」
「冬に灯がつくと思っておったろうな」
セルマは何も返さずに綴りを閉じた。
ノラはさっきから写しの束を灯の下へ引き寄せていた。三部に分けたうちのいちばん古い頁だけを並べ替えている。
「紙が四種類あるわ」
眼鏡を押し上げた。
「漉き目も厚みも違うの。字も四種類。……替わる場所が紙の替わる場所と同じよ」
「写して渡すたびに手が替わったということですか」
「そう読めるわ。継ぎ目が三つ。四人ぶんね」
いちばん古い一枚を灯へ近づけた。
「この紙は七十年より新しくないわ。漉き方が今のものと違うの」
「切られた頃ですね」
「重なるわね」
ノラは紙の端を指で押さえた。
「オルセンさんが諳んじたあの一行ね。欄の外にあるわ。順の字とは別の手よ」
「四十年分からなかった、という一行ですね」
「そう。……それがいつ書かれたかが分かったの」
ノラは紙を灯へさらに寄せた。
「インクの沈み方が順の字とほとんど同じなの。写しが乾ききらないうちに書き足しているわ。あとから思い出して書いた字じゃないのよ」
「写している、その場にもう一人いたということですね」
「そう読めるわ」
アシュレイは系統図を卓の中央へ寄せた。
十九の街の印を、地面の下の理屈だけで結んだ線が走っている。横に走る線はどれも通っていて、上へ抜ける九本の登りだけが途中で終わっている。
「その人は、上が切られるところを見ていたんだと思います」
指で終端をひとつずつたどった。
「見ていなければ、確かめてから起こせとは書きません。切られていないなら確かめる必要がありませんから」
「……確かめようがないことも、書いた者は知っておったはずだ」
「知っていたと思います」
アシュレイは老人を見た。
「上が在るかどうかを確かめるには、どこに何があるかの側が要ります。それは切った側が名簿にして抱えていました。順の側だけでは足りないんです。……確かめる術のほうを、先に割って取り上げてあったんです」
「割った側が書かせた一行じゃないでしょうけどね」
ノラの声は低かった。
「結果は同じね。起こすなと言われた者は疑うわ。確かめてから起こせと言われた者は、確かめようとして一生を使うのよ」
「その条件は今日満たされました」
アシュレイは記録の綴りへ手を置いた。
「野で二つの針が同じ東を向きました。切り口の向こうの面には帯が来ていませんでした。九つの継ぎ目で同じことが起きて、九枚とも同じ形で書かれています。王都の帯の頭は外から押されて立ち上がっています。……確かめようがなかったのではありません。今日で確かめ終わったんです」
「上は在らぬとな」
「在りません」
オルセンは長いこと動かなかった。
やがて膝の上の指がゆっくりと開いた。
「前の半分だけ守っておったわけだ」
声はかすれていた。
「順は渡した。四十年渡し続けた。……後ろの半分を、私は一度も守らなんだ」
ノラは新しい紙を出して四行だけ書いた。
地面の下の一本は、王都が夜通し灯を落とさなくなるより前の配り方だったこと。上の系統は災害でなく人の手で切られたこと。地図は在り処と順に割られ、数える側と継ぐ側が半分ずつ持ってきたこと。切られた先の荷を、今は王都の古い安全核ひとつが受けていること。
書き終えてから顔を上げた。
「これだけよ」
筆を置いて息を吐いた。
「七十年ぶんの分からないことが、四行に減ったわ」
「それで冬は越せるのか」
老人の目は乾いていた。
「越せた街があります」
アシュレイは別の綴りを引き寄せた。
「去年のカダルです。核は起こしていません。夜の灯を半分落として、湯屋を三日に一度にして、薪の割り当てを先に決めました。足りないぶんは隣の街から回しました。……全部を先に決めたので、途中で誰が我慢するかを揉めずに済みました」
「楽ではなかったろう」
「楽ではありません。それも書いてあります」
セルマが綴りの背を指で叩いた。
「峠の二つは運びが高くつくわ。核が動くより安く上がるとは言わないでおくわね。……ただ運びの段取りなら組めるの。核より遅いけれど、途中で崩れても街は落ちないわ」
「起こすのでも伏せ続けるのでもありません」
アシュレイは図の縁へ手を置いた。
「継いだ図を実測で裏づけて、確かめたところと確かめていないところを分けて書いて、そのまま台帳へ載せます。……どう扱うかは全体が見えてから決めます」
「決めるのは誰だ」
「私ではありません」
老人が眉を寄せた。
「お前さんが継いだ図だ」
「継いだのは私一人ではありません。在り処は統轄部が数えたものです。順はあなたが渡したものです。帯は王都で測ったものです。……私一人で決められる形にしないために、台帳へ載せるんです」
ノラは新しい綴りの表紙を開いて通し番号を振り始めた。
「順は証跡として綴じるわ」
「罪の綴りへは」
「入れないわよ」
筆を止めずに言った。
「入れたら、次に順を継いだ人は誰も出てこないもの。出てこなければ、また明るくないところで継がれるだけだわ」
名を書く欄で筆が止まった。
「二人ぶんは空けておくわ。空けたまま、知らないと書いておくの。……空欄と書き忘れた欄は違うのよ」
「私はその二人を止められん」
オルセンは卓の縁を見たまま言った。
「名も知らん。どこにおるかも知らん。順はもう私の手を離れておる」
「止めるのはあなたでなくて構いません」
アシュレイは九枚の記録を揃えて置いた。
「あの人たちが継ぎに行けるのは九本のうちのどれかです。どれにも今は人が立っています。……確かめずに繋げば、その日のうちに外されます」
「外す者は私の順を知らんだろう」
「知らなくて結構です。昨日今日に渡された線は革が黒くて土が乾いていません。順を知らない手でも見分けがつきます」
夜が更けてからミレナが配り先の一覧を持ってきた。
「次に配るものを決めておきたいのですが」
「一行のままで結構です」
アシュレイは一覧へ目を落とした。
「そこへ一行だけ足してください。外した継ぎ具は捨てずに番号をつけて残しておくこと。残っていれば、次に来た者が同じ場所へ同じ物を渡したかどうかが分かります」
ノラが写しを畳む手を止めた。
「これ今夜はどこへ置くの」
アシュレイはすぐに答えられなかった。
卓の上には在り処の名簿の写しと、順の写しと、王都の帯の記録が並んでいる。七十年のあいだ、どちらか半分しか無かったものが今は一つの卓に揃っている。
止めるために継いだ図だった。だがそこには繋ぐ場所と繋ぐ順番が書いてある。読み方を変えれば、この一枚は起こすためにも読める。
「決めていません」
「決めておいたほうがいいわ」
ノラは眼鏡を押し上げた。
「一人が持っていると、そのうちその人が正しいかどうかの話になるの。……図の話ではなくてね」
オルセンは立ち上がって戸口まで歩き、そこで振り返った。
「切ったのは誰だ」
老人の声は静かだった。
「割られた側の話ばかり聞いた。……割れと言った者の名は、まだ一度も出ておらん」
アシュレイは答えなかった。
王都から届いた返書には、部署の設立を記した紙が一枚あるきりだった。目的の欄は四文字。裁可した上の綴りは目録に載っていて、棚には無い。
図の上では九本の登りが途中で終わっている。刃の目までは分かった。刃を握れと言った手の名は、まだどの紙にも書かれていない。




