第134話 束ねる先の無い核
針は下がらなかった。
押し上げられた帯は戻りきらないうちに次の波でまた持ち上がる。半日のあいだ動かなかった線が、片端を噛ませただけでこれだけ動いていた。
若い男の一人が束の向こう側へ回った。残りの一端を切り口の面へ合わせるつもりだった。
「そこで止めてください」
アシュレイは声を張らなかった。
「渡し切る前に、針を見ていただけますか」
男は手を止めなかった。
「オルセンさん。あなたの具でかまいません」
老人の背が動いた。
しばらくしてから脇の荷へ手を伸ばし、布に包んだものを取り出した。木の枠が飴色になるほど使い込まれた測りの具だった。目盛りの刻みは今の拵えと違っている。
「師から受け取ったものだ」
オルセンは函の縁へそれを据えた。
針が振れた。老人は具の向きを変え、据え直し、また変えた。三度目でその手が止まった。
「……東だ」
「私の具も同じです」
アシュレイは自分の具を隣へ並べた。二つの針は同じほうを向いている。
「上へ抜ける線はこの野の北です。繋いだ先が生きているなら、荷は北へ流れます」
「北は切られておる。切れた先へ届かんのは当たり前だ」
「具が狂っているとお考えでしたら、置き換えてください」
アシュレイは自分の具を老人の側へ滑らせた。オルセンは黙って二つを取り替え、据え直した。針の向きは変わらなかった。
「では切り口の向こうの面へ当ててください」
老人は函の中へ降りた。若い男が灯を差し出す。具を向こう側の切り口へ押し当てて、長いあいだ針を見ていた。
針は動かなかった。
「手前の面には帯があります」
アシュレイは縁から言った。
「向こうの面にはありません。あいだは一尋です。……一尋の隔たりで、片側だけが死んでいます」
「切られておるからだ」
「切られているだけなら、切り口までは生きています。上に何か生きていれば、切られていても面まで帯は来ます。……来ていません」
答えはなかった。
「外した四つでも同じでした。手前は生きていて、向こうは死んでいます。今日で五つ目です」
もう一人の若い男が革紐を握ったまま前へ出た。
「先生の具は古い。当てる場所も違う」
「では、あなたが当ててください」
アシュレイは函の底を指した。
「順番も向きも、そちらで決めて結構です。私は見ています」
男は降りていって、自分で二度当てた。上がってくるまでに間があった。何も言わずに革紐を置いた。
リオネルが縄の外から低く聞いた。
「あの二人はどうしますか。掘り返しの届け出はもう上がっています。名前も書けます」
「書いてください。ですが今日は連れて行かないでください」
アシュレイは函の底へ目を戻した。
「残りの継ぎ具がどこにあるかを知っているのは、あの人たちだけです。……先に縄を張るのは人ではなく物のほうです」
オルセンは具を握ったまま函の底にしゃがんでいた。
「……四十年だ」
「その四十年を半日で捨ててくれとは申しません」
アシュレイは縁へ膝をついた。
「ですが片端だけ噛んでいるのがいちばん悪い形です。外してください。外して半日座って、針を見てください。決めるのはそのあとで結構です」
「お前さんが外すのではないのか」
「あなたの手のほうが確かです。……ただ、一人では外させません。二人で立ってください」
老人は長く動かなかった。やがて息を吐いて継ぎ具の革紐へ手をかけた。若い男が反対側へ回って端を支える。金具が短く鳴り、噛んでいた一端が切り口の面から離れた。
針が下がり始めた。
半日、誰も函へ降りなかった。リオネルの手勢は縄を張り直したきり四隅の杭のところに立っていた。帯は日暮れ前に元の高さへ戻り、そのまま動かなくなった。
アシュレイは紙を出して五行を書いた。
触る前に測った。帯を紙へ写した。渡された線を一本だけ外した。半日置いて観た。二人目の署名。
最後の欄で筆を止め、老人へ差し出した。
「外した者の名を書いてください」
オルセンは受け取らなかった。
「私は数えられる側の人間ではない」
「外したのはあなたです。書かなければ、外れた理由が誰かの腕の話になります」
老人は筆を取った。几帳面な字だった。図面の書き癖と同じだった。二人目の欄には若い男が自分の名を入れた。
ガルドは西の二つへ回っていて、この野には間に合わなかった。代わりに炭で書いた一枚が先に着いていた。
革が黒い。土が乾いていない。合わせ目に泥が入っていない。この三つが揃った線だけ外せ、と大きな字で三行だけ書いてある。外し方の絵はその下に一つあるきりだった。
同じ紙が十九の街へ回っていた。
野を引き払って、二日戻った街の会所へ卓を移した。オルセンは縄の内側から出てそのままついてきた。若い二人は残りの継ぎ具を荷車へ積み直していた。
三日のあいだに報せが三つ重なった。
リーデンの紙はコルトの字だった。丘の南で新しい継ぎ具を見つけ、一本だけ外して半日置いたとある。二人目は去年の査察で立った官吏ではなく街の井戸番だと書き添えてあった。
ドランの紙はヨナスの字ではなかった。ヨナスは字を書かない。街の書記が聞き取って書き、末尾に拇印が押してある。夜のうちに音が変わったので降りて測った、とだけあった。
カルネの紙には余計な一行があった。二本目に手をかけたところで二人目に腕を掴まれた、と書いてある。
「この一行があるのがいいのよ」
ノラは三枚へ通し番号を振りながら言った。
「うまくいった話ばかり並ぶ綴りは誰も信じないの。踏み外した一行が入って初めて、腕ではなく型が止めたと読めるのよ」
ミレナが受領印の控えを開いた。
「一行の紙は十九ぜんぶに届いています。峠の二つは間に合わないと思っていましたが、先に配ってあったぶんで足りました」
セルマは荷の綴りを繰った。
「倉へ戻った継ぎ具は六十一本よ。動いた数は七十だから、渡されたのは九本ね。……数は合うわ」
ノラが系統図の写しへ最後の印を落とした。
「九本ぜんぶよ」
筆を置いて眼鏡を押し上げた。
「九本ぜんぶに手がついて、九本ぜんぶ止まったわ。……立っていたのは一箇所だけなのに」
「九枚とも同じ形で書いてあります」
アシュレイは綴りを閉じた。
「腕の話ではありません」
王都からの綴りが着いたのは三日してからだった。
エルリックは待機の帯の写しを日付順に貼り、その上へ細い字で書き込みを入れていた。揺れの頭がどれも外から押されて立ち上がっているとある。核が自分から動こうとするときの立ち上がりとは形が違う、と何度も書いてあった。
下に古い写しが一枚添えてあった。去年の秋のもので、頭の形がまるで違う。こちらは下から丸く盛り上がって、そのまま戻っている。二枚を並べれば測りを持たない者の目にも別のものだと分かった。
いちばん大きな揺れは、あの野で片端が噛んだ晩のものだった。刻限まで合っていた。帯が元へ戻ったのは翌日の昼過ぎで、継ぎ具を外して半日置いた時刻と重なっている。
末尾はゲイルの手だった。据え付けの継ぎ目へ手を当てると、揺れた晩の翌朝まで石が温かかったとある。押されて堪えた側の熱だ、と書き添えてあった。
その下にもう一行あった。長いことこの核を見てきたが、こんな触られ方をしたのは初めてだ、と。
アシュレイは二度読んでから綴りをオルセンへ渡した。
老人は最初の頁で長く止まった。
「……受けておるのか」
「受けています」
アシュレイは図の東の端へ指を置いた。
「あなたが繋ぐたびに、荷は北へ行かずに東へ寄りました。寄った先で受けていたのは目を覚ましかけた上の系統ではありません。ひとつきりの安全装置です」
「あれは、そういう向きに作られておらん」
「私もそう思います」
老人は綴りの縁を持ったまま動かなかった。
「九本で済んだから戻りました。全部が繋がっていたら、戻ったかどうかは分かりません」
オルセンはしばらく野の北を見ていた。九本の登りが向かっていた方角だった。
「四十年、私はあの先を探した」
声は低かった。
「街をいくつも通って、順のとおりに歩いて、終端を数えた。……その先に何も無いという読みは途中で何度も出た。出るたびに、まだ見ていないからだと言い聞かせた」
「見ていないから確かめる、とは思われませんでしたか」
「確かめようがなかった」
老人はこちらを見た。
「順は継いだ。だが順の写しの終わりに、一行だけ、順とは違う手で書き添えてあった」
目を閉じてそれを諳んじた。
――順は渡せ。起こすのは、上が在ると確かめた者だけにせよ。
「意味が四十年分からんかった。確かめる術が、こちら側には一つも残っておらんかったからだ」
「在り処が、あなた方の側にありませんでしたから」
アシュレイは静かに言った。
「順だけでは確かめられません。確かめようのないものを、あなたは渡され続けたんです」
「そのとおりだ」
老人は目を開けた。
「意味の分からんものを削るわけにはいかん」
膝の綴りを閉じた。
「順は私で四人目だ。……そして私は、もう三人に渡してある」
「三人」
「私が止まっても、順は止まらん」
アシュレイは筆を置いた。
「その三人は、どこに」
「一人は、お前さんがもう会っておる」
西の丘の下で帳面を閉じた痩せた男の顔が浮かんだ。
あの男は坂を下っていって、それきり誰も見ていない。




