第129話 割られた地図を勝手に継ぐな
イルダンへ戻ってからも卓の上の対照表はそのままだった。在り処の列は隙間なく埋まり繋ぎ順の列だけが白く残っている。ノラはその一枚を執務室の壁へ留めて朝から幾度も見上げていた。
「片方が空いているのって、こんなに落ち着かないものなのね」
ノラは眼鏡を押し上げた。
「在り処は全部ここにあるのよ。どの街のどの区画の下に何が埋まっているか。あとは繋ぎ順さえ埋まれば一枚の地図になるわ。……オルセンの写しを手に入れれば、それで空欄が消えるの」
アシュレイは対照表を見上げたまま返さなかった。
「埋まれば地面の下の一本がまるごと見える。今どこが生きていて、どこが切れているか。誰かが起こそうとしているなら、どこを塞げばいいかも分かる。急いだほうがいいと思うの」
もっともな話だった。繋ぎ順が揃えば系統の全体が一枚に立ち上がる。誰かがまた古い手順で核を試しているのなら、その全体図を先に持っている側が起きる前に手を打てる。
だがアシュレイはその一枚を自分の手で継ぎ上げる場面を思い浮かべて指を止めた。
在り処は名簿にある。繋ぎ順はオルセンの写しにある。束の寄る先は王都の核の呼応にある。それを一つの卓へ集めて自分が継ぎ合わせれば地図は完成する。完成した地図を持つのは自分一人になる。
地面の下の一本をまるごと起こせる順番を知っている、たった一つの頭。
少し前に降りたはずの場所だった。核に触れる唯一の手であることをやめて、触れてよい手を各地へ増やした。完璧な一つの手より踏み外す六つの手が六つの街を守った。それなのに今度は系統の全体図を握る唯一の頭になろうとしている。
「……ノラ。この地図は、私が継いではいけないのかもしれません」
ノラが顔を上げた。
「継げるのに継がないの」
「継げるからこそです。私が一人で継ぎ上げれば、この街もあの街も、まとめて起こせる順番が私の頭の中だけに残る。私がいなくなれば地図も消える。私が誤れば地図ごと誤る。……前に自分で説いた属人化を、今度は地図そのものでやり直すことになります」
その日の午後、王都からローデリクが着いた。名簿の原本を監査の透明化の下で扱う手続きのために、王都と行き来する回数が増えていた。彼は旅装のまま執務室へ入り封をした一通を卓へ置いた。
「ハーケン監査官からです。あなたが名簿と現地の符号を突き合わせていると聞いて、これを預かってきました」
ローデリクは封を渡してから付け足した。
「……お預かりするとき、あの方が一言だけ添えられました。止めに行くのではないと伝えてくれ、と」
アシュレイは封を切った。杓子定規な字が並んでいた。
――同型核に触れてよい者を決める仕組みは、あなたが一人で核へ触れる立場から降りるための制度だった。ならば問う。あなたは今、散らばった核を貫く一本の地図を、一人で継ぎ上げようとしていないか。
――核に触れる唯一の手を降りた者が、その全部を起こせる順番を握る唯一の頭になるのなら、降りた意味はない。地図を継ぐこと自体は止めない。だが誰がどの半分を持ち、継ぎ上がったものをどこへ置くかを先に決めよ。それを決めずに継いだ地図は資産ではなく、一個人の権力だ。
アシュレイは便りを二度読んで卓へ伏せた。ノラが横から覗き込んでいた。
「……アシュレイがさっき言ったことと、同じことを書いているわね」
「ええ。私が迷っていたところを、そのまま突かれました」
アシュレイは対照表の前へ立った。
「この地図は三つの部分に分かれています。在り処は統轄部の名簿にある。これは体制の側が持っている。繋ぎ順は現地の無傷の符号と、手に入るなら体制の外にある写し。束がどこへ寄るかは、王都の核の呼応が実測で示す。三つは今それぞれ別の手の中にあります」
ローデリクが旅装を解きながら聞いていた。
「それを一つに集めるのでしょう」
「集めますが、一人の手には集めません」
以前カダルやイルダンでやったことを、アシュレイは地図そのものへ当てはめようとしていた。触れてよい者を一人に絞らず条件と型で分けたのと同じに、地図を継ぐ手も一人に絞らない。
「在り処の半分は統轄部が持ったまま、透明化の下で照合にだけ出す。繋ぎ順の半分は現地の符号をノラが拓本で集めて記録へ落とす。呼応の実測はエルリックとゲイルが王都で取る。三つを継ぎ合わせる卓には必ず二人以上が立ち会う。継ぎ上がった一枚は私の手元へは置きません。監査院と統轄部と現場が、それぞれ写しを持ちます」
ローデリクは眉を寄せた。
「統轄部が承知しますかね。あそこは繋ぎ順を消して回った側です」
旅嚢からもう一通を出して卓へ置いた。封はすでに切られている。
「今朝の返書です。統轄部から監査院あて。写しをもらってきました」
ノラが受け取って目を走らせ、それから声に出して読んだ。
「……『当該符号は当時の判断により抹消されたものであり、復元の必要を認めない。復元は抹消の判断そのものを否とする行為に当たる』」
紙を卓へ戻した。
「消したことが間違いだったと認めたくないのね。だから繋がせない。……危ないから繋ぐなとは一言も書いてないわ。危ないかどうかの話をそもそもしていないの」
「消すためでなく、明るみへ置くために繋ぎます。伏せておけば繋ぎ順は名簿の外で誰かが継ぎ続ける。現に一人、継いでいる者がいます。……闇で継がれるより、皆が見ている台帳の上で継いだほうが、まだ止められます」
ノラは新しい帳面を開いて継ぐ手順を書き始めた。
「地図を作る手順書ね。地図そのものより先に、地図の作り方のほうを台帳へ載せておくのよ。……そうすれば途中で誰かが一人で抜け駆けしても、手順から外れたってすぐ分かるわ」
番号を振って後から誰でも辿れる形にしていく。
「一。半分は別々の手が持つ。在り処は統轄部、繋ぎ順は現地の拓本、寄る先は王都の実測。二。継ぐ卓には必ず二人以上。片方は監査院の者を入れる。三。継ぎ上がった写しは三部。監査院と統轄部と現場へ一部ずつ」
ノラは筆を止めて顔を上げた。
「……手元に一部も残さないのが要よ。ここに置いたら結局おなじことになるもの」
方針は立った。地図は一人が握る秘密ではなく、複数の手が透明に継ぐ原本として作る。ハーケンの問いへのひとまずの返事にはなっていた。
ただ一つ埋まらないものが残っていた。繋ぎ順の半分だ。現地の無傷の符号は、これまでに見つかったものが一つきりだった。名簿からも符号からも消された繋がりの全体は、体制の外に別に継がれた写しの中にしかない。
「結局、あの人の写しがなければ地図は途中で途切れるのね」
ノラが帳面から顔を上げた。オルセンの名は、もう一度この卓へ戻ってきていた。
その夕方、セルマが商人ギルドの綴りを抱えて訪ねてきた。旅の商人や荷馬車の足取りを、彼女は損得の帳面から誰よりも正確に読む。
「妙な足取りを一つ見つけたわ」
セルマは荷の記録を卓へ広げた。ここ数月、供給難の地方都市を渡り歩いている一人の男がいるという。だがその順番が引っかかった、と彼女は言った。
「その人が街を訪ねる順番がね、市場の大きさとも道の近さとも合わないの。冬に困っている街から回るわけでもない。……なのに、あなたたちが継ぎ目の露出を確かめた街を、先に知っていたみたいに一つずつ辿っているのよ」
アシュレイは荷の記録へ目を落とした。男が街を訪ねた順は、地面の下の繋ぎ順に沿っていた。露出した継ぎ目のある街々を、地図から消された繋がりのとおりに正確に歩いている。
消された半分を、地の上でなぞって歩く者がいた。
その足取りの名は、すでに卓の上にあった。半年前に、動かさないのは停滞だと言い残して去った元技師の名だった。




