第128話 掻き取られた半分
その街の継ぎ目から拓本が届いたのは報せから十日あまり後だった。派遣した者が地下へもう一度降り、土の外へ顔を出した符号の上に薄い紙を当てて墨で写し取ってきたものだった。ノラは油紙の包みを解いてしばらく黙っていた。
一枚の紙の上に、見慣れない符号が丸ごと一つ残っていた。
「……全部ある」
ノラは指の先で紙の面をなぞった。
「これまで拾ってきたのは、みんな半分だけ掻き取られた符号だったの。削られた跡の側に何が書いてあったのか、こっちには読みようがなかった。でもこれは丸ごと残っているわ。初めて全体が見られる」
アシュレイは卓の反対側から拓本を覗き込んだ。
一つの符号は思っていたより大きかった。二つのまとまりが並んで一組になっている。左のまとまりと右のまとまり。あいだに細い区切りの線が一本引かれていた。
「二つに分かれています」
「ええ。左と右で書いてあることが違うのよ。……並べてみましょう」
ノラは古い符号の写しを隣へ広げた。南の排水溝跡で削られていたもの。名簿のいちばん古い頁で削られていたもの。それらを無傷の一枚と上下に揃えて置いた。
三枚を並べると削られ方がひとりでに揃った。
アシュレイは灯を寄せて墨の濃淡を見比べた。無傷の符号は左右そろって残っている。削られた符号はどれも右のまとまりだけが掻き取られていた。左のまとまりは残っている。区切りの線から右へ、決まって同じ側だけが消されていた。掻いた刃の向きまで三枚で揃っている。
アシュレイはしばらく三枚を見比べた。
「左に残っているのが、この設備がどこにあるかを示す部分です」
アシュレイは無傷の一枚の左を指した。
「据えられた土地。深さ。街のどの区画の下か。……在り処です。これは削られた符号にも残っています。誰も消していません」
指を区切りの線から右へ移した。
「消えているのは右です。こちらは、どの核とどの核が地面の下で繋がっているかの順番を書いた部分でした。どの継ぎ目からどの継ぎ目へ管が伸びているか。繋がりの順です」
ノラが顔を上げた。
「在り処は残して、繋がりだけ消したのね」
「そう見えます」
ノラは新しい帳面を開いて二本の列を引いた。片方に在り処、片方に繋ぎ順と書いた。拾ってきた符号を一つずつ両方の列へ振り分けていく。
在り処の列は埋まっていった。繋ぎ順の列は、無傷の一枚を除いてどれも空欄のまま残った。
「きれいに片方だけ空くわ」
ノラは眼鏡を押し上げた。
「欠けたんじゃないのよ。長い年月で朽ちて欠けたものなら、在り処のほうだって同じくらい虫食いになるはずでしょう。……在り処は一つも欠けていない。繋ぎ順だけ狙って抜かれているの」
アシュレイは二本の列を上から下まで眺めた。
どこにあるかは几帳面に残されていた。どう繋がっているかだけが、決まって同じ手つきで消されていた。誰かが在り処は数えたかった。繋がりは残したくなかった。地図でいえば、街の印は全部そのままにして、街と街を結ぶ道の線だけを一本残らず削り取ったようなものだった。
「片方の半分だけ、初めから抜いてある地図です」
アシュレイは低く言った。
繋ぎ順だけがこうも系統立てて消されているなら、それは統轄部の名簿がどうなっているかを確かめねばならなかった。名簿はいまも王都の統轄部の手にある。アシュレイは対照表を写しに取ってローデリクへ回した。透明化の補則の下で、名簿の原本と現地の符号を正式に突き合わせる照会をかけるためだった。
照会には統轄部の側の立ち会いが要った。
数日の後、名簿の最も古い綴りを前に、統轄部の長のマーロウが立った。前に一度、集約の案を退けられた男だった。
マーロウは対照表と名簿の頁を順に見比べた。老いた指が、削られた符号のならぶ頁を一枚ずつめくっていった。頁の隅には受領の印も更新の日付もない。ただ在り処の欄だけが几帳面に埋まっている。その几帳面さを、彼は長く見慣れた手つきで確かめていた。
「繋ぎ順など、残さないのが決まりです」
マーロウは低く言った。
「どの核がどの核へ繋がっているか。そんなものを帳面に書き写して回してみろ。紙が一枚でも外へ出れば、誰でも地面の下を辿れるようになる。危険なものは在り処さえ押さえておけば足りる。繋がりまで残す道理はない」
「いつから、そう決まっているんですか」
アシュレイは静かに尋ねた。
マーロウは口を開きかけて止まった。
「……昔からだ。この部署が名簿を預かったときには、もうそうなっていた」
「誰がそう決めたんです」
「知らん」
マーロウは頁の端を押さえたまま、少しのあいだ黙った。
「決まりです。繋ぎ順は書かない。在り処だけを数える。……そう教わって、そのとおりにしてきました。私の前の者もそうしていた。理由まで聞いた覚えはありません。危険なものだからだと、それで足りていた」
アシュレイは名簿の頁と対照表を交互に見た。
部署の帳面には、いつ在り処を数えたかは残っていた。だがなぜ繋がりを消したのか、いつ誰がそう決めたのかを書いた欄はどこにもなかった。理由を書く場所が、初めから帳面に無かった。マーロウは決まりを几帳面に守り続けてきた。その決まりがどこから来たのかを、彼自身が知らなかった。
「あなたの部署は、在り処だけを数えて封じてきた部署なのかもしれません」
アシュレイは言った。
「集めるための名簿でも、直すための名簿でもない。繋がりの順を消して、どこにあるかだけを数え上げておく。……繋ぎ順が無ければ、誰もこの核とあの核を継げない。継げなければ、誰も起こせない。この名簿はもしかすると、危ないものを管理するための帳面ではなく、二度と繋がらないようにしておくための帳面だったのではありませんか」
マーロウは答えなかった。答えを持っていない顔だった。
その沈黙のほうが、どんな返答よりも重かった。理由を知る者は、この頁の連なりの中にはもういなかった。
王都からの帰りの道で、ノラは対照表を膝の上で開いたままだった。
「妙な話ね」
ノラは繋ぎ順の空欄の列を指でたどった。
「繋ぎ順は体制の側からこんなに念入りに消されているの。名簿にも無い。現地の符号からも掻き取られている。……なのに、あなたは前に言ったでしょう。誰かが古い手順で地方の核を試している、って。手順を通すには、どの核からどう繋ぐかを知っていないと通せないはずよ」
アシュレイは窓の外を流れる街道を見ていた。荷を積んだ馬車が一台、こちらとは逆の方へ坂を下っていく。街と街を結ぶ道は、地の上にはこうして残っている。消されたのは地の下の道だけだった。
「ええ。繋ぎ順を知っている者がいます」
「体制の側からは、これだけ丁寧に消してあるのに」
「消してある側にはありません。だとすれば」
アシュレイは対照表の空いた列へ目を落とした。
「繋ぎ順を持っている者は、体制の外にいます。名簿からも符号からも消された半分を、どこかで別に継いできた者が」
ノラが顔を上げた。
古い正しい手順を知り、どの核とどの核が地面の下で繋がっているかを辿れる者。地方の供給難を憂い、主の系統がまだ生きていると信じて核へ手を伸ばした者。
その名は、半年ほど前に一度、卓の上で消えていた。動かさないのは停滞だと言い残して去った元技師の名だった。
「オルセンです」
アシュレイはその名を、久しぶりに口にした。
ノラの指が空欄の列の上で止まった。
「……あの人が、消された半分を持っているっていうの」
「持っているのなら、辻褄が合います。誰も継げないはずの地図を、一人だけ継げる者がいる」
馬車が街道の先で小さくなっていった。消された道の行き着く先に、消されなかった一人がいる。アシュレイはその一人の名を、もう一度胸のうちで確かめた。




