13 厄介令嬢は聖女の死を認めない
ルミナの腕を掴む己の力が、強すぎることなど理解していた。だが、手を離す気にも、力を緩める気にもならなかった。少しでも力を緩めた途端に、ルミナは、自死を選ぶだろう。
……いや。
ロゼルフィーユは、確信していた。
ルミナが、ロゼルフィーユを振り払うことなど、できないはずがない。だから今の時間は、ルミナにとって、"死に赴く前の最後の会話"に過ぎないのだと。
「もう、ロゼルフィーユさん、ちょっと痛いです」
ロゼルフィーユは答えない。ただ、ルミナの目をじっと見た。月明かりが、二人の女を照らす。波が、しぶきをあげて、ロゼルフィーユのドレスを濡らしていった。
「………あの、何か言ってくださいって…」
先に沈黙に耐えかねたのは、やはりルミナの方だった。ロゼルフィーユの目から少し視線を逸らして、空いている方の手で、気まずそうに頬をかく。やはり、少し沈黙が降りた。波の音だけが響き、潮風が二人の間を撫ぜていく。
「――――お前、死ぬ気ね」
「…………あ、わかります?」
にへらと、ルミナが笑った。
ロゼルフィーユは、頭にかっと、血が上るような感覚を覚えたが、それを飲み込んだ。どうして、とでも言いたげな顔をしていたのだろうか。少なくとも、ルミナはロゼルフィーユの表情をそう解釈したらしい。
ロゼルフィーユの手を、ルミナはそっと振り解こうとした。だが、思ったよりもロゼルフィーユの力が強かったのか、諦めたように抵抗を見せなくなった。それは、いざとなればどうとでもできるという、強者にのみ許された余裕でもあった。
「知ってます?ロゼルフィーユさん。魔王って、イケメンなんですよ。セディリオ殿下より、もう少し、クールで、威厳があって…あ、ちょうど、ロゼルフィーユさんを男の人にしたら、そんな感じかも」
「……お前は何を言っているの?」
「あ、嘘です。これ、冗談なんですけど……えへ、…だめか、笑えないか。わたしがロゼルフィーユさんを笑わせるなんて、難しいですね」
ルミナはようやく顔を上げて、ロゼルフィーユを見た。
桃色の瞳と、ロゼルフィーユのエメラルドの瞳の視線が交錯した。そのはずなのに、ルミナの目は、どこか、凪いでいるようにも見えた。
「魔王は、実際は、何メートルもあるぐらいのバケモノでした。でもわたしより、弱かったですよ」
魔王という存在への恐れなどないように、ルミナは言った。抑揚のない声だった。セディリオの語り口だと、ルミナと魔王は、死闘を繰り広げたかのように聞こえたが、実際は、そうでもなかったのだろうなと、ロゼルフィーユは思った。
魔王にすら、あっさり勝ててしまったのだろう。もし、魔王相手に、ちゃんと苦戦できていたのなら、ルミナがここまで破滅的思考に陥る事もなかったのだろうから。
魔王にすら、あっさり勝てた。
その事実が、ルミナを、絶望させた。
「……………止めますか?」
「お前が本当に決めたことなら、私に止める力は無いわ」
「……もう、できるできないじゃなくて、気持ちの話をしてるのに、わたしは」
ルミナは口を尖らせた。
噛み合っていた視線を、少し伏せる。
「……だって、存在しちゃいけないですよ、こんな化け物の血。生きているだけで、争いの火種になる。魔王がいなくなって、やっと平和になったのに……わたしが、次の争いの火種になる」
「自意識過剰ね」
「だって、事実ですもん」
けろりとルミナは言って、掴まれている腕を見た。ロゼルフィーユは、今度は、あっさりと手を離した。それをほんの少し、ルミナはじっと見ていた。ロゼルフィーユの真意を、測りかねているようだった。
「お前はそれでいいの」
「まあ、もう疲れたのも事実です。元から、器ではなかったんですよね。わたし、救世よりも昼寝の方が好きなんです」
「そう。まあ、それは知っていてよ」
でしょうねと、ルミナは笑った。
「いい人も悪い人も沢山いたけど。わたしのことが嫌いなくせに、わたしにそんなに詳しいのは、ロゼルフィーユさんがはじめてです。王国からまさか、わたしの居場所を探し当てるとは思いませんでした」
「それはお前、これを生家に置いていたでしょう」
ロゼルフィーユは、ルミナの手を無理やり取って上を向かせると、そこに貝殻を置いた。ルミナが、懐かしそうに目を細めた。「詰めが甘かったなぁ」とぽつりと呟く。
「わたし、昔、一度だけお母さんとここに来たことがあるんです。その時、これを拾って。ふふ。でも、男爵には誘拐同然で連れていかれちゃったし、その後は二度とあの家に帰れなかったから、まさか、また見られるなんて。これを届けにきてくれたんですか?」
ロゼルフィーユさんって律儀ですよね。
ルミナは、そう揶揄うように言ったが、ロゼルフィーユが言葉を返すことはなかった。ロゼルフィーユの長い銀髪が、風に煽られてたなびいた。
「確かに、それをお前に渡そうと思っていたわ。そして、お前が自分を葬りたいと思うのならば、それを止めはしない。でも、私は、お前に言いたいことが一つだけあった。だからお前を探していたの」
「ロゼルフィーユさんが、わたしに言いたいこと?…ふふ、なんだろうなあ…ずっと嫌いだったとか?」
ルミナの声は、強がってはいたが、少し震えていた。
「いいえ」
「あ、じゃあ、文句ですか?わたし、ロゼルフィーユさんにはいっぱいやらかしたからなあ……」
「違うわ」
「……じゃ、じゃあ、本当に何ですか?」
ルミナは、戸惑ったように視線を彷徨わせた。
こう見ると、本当に、平凡な女だとロゼルフィーユは思う。髪は最低限寝癖を直すことぐらいはしていたのか、少しはマシだが、それ以外はひどいものだ。海水で慣れていて、膝から下が変色している簡素な麻のワンピースは、どうせ「一枚で着れて楽だから」という理由で選ばれたものだろう。靴は、聖女らしい白い靴だ。これも多分、「靴買うのめんどくさい」という理由だ。
相変わらず、化粧のひとつもしていない。そのせいで、目元の下の色濃い隈が、こんな夜でもはっきりとわかった。――――「寝るのめんどくさい」とだけは、ならない女だったのに。
ロゼルフィーユは、海の水平線ではなく、王国の、陸地の方を見た。
砂浜は、一粒一粒が星の明かりを宿しているとでもいうように、きらきらと光っていて、一種の幻想さを感じさせた。ルミナも、ロゼルフィーユに倣って、戸惑いながらその視線を追った。
「お前が話したから言うけれど。私は、自分が好きなの。自分は特別だと思っていたわ。でも、驕り高ぶってはいけないと思っていた。だって、私がそんな風にしていたら、いけすかないでしょう」
ルミナは返事をしなかった。
あえて無視したというよりも、何と言っていいのかわからないようだった。ロゼルフィーユはそれを肯定と受け取った。全く、いつもの空気の読まなさはどこにやったのか。ルミナは、あの空気を読まない女の演技が、結構上手かったのに。
「…お前のせいよ」
ぎり、と奥歯を噛んだ。ルミナに向き直る。
「お前が、私が特別なのではないのだと示した。民を想う気持ちも、血が滲むような努力も、したことのないお前が、私の誇りを、矜持を、砕いて、この私に、絶望と屈辱を与えた!!」
やはりルミナは黙っている。
今度は、あえてそうしているように、静かだ。当然の罵倒だと、そう思っているように、ルミナは掌を握り込みながら、黙り込んでいた。
ロゼルフィーユは、息を整えた。こんなに感情的になることはなかったと言うのに。
息を吸って、吐いて。
ルミナは、そんなロゼルフィーユの全てを見つめている。わずかな指先の動きでも見逃さないというように、遺族に責められる罪人のように、黙っている。ロゼルフィーユは、強い苛立ちを感じた。その苛立ちが、ロゼルフィーユの口を動かさせた。
音になったそれは、彼女を責める言葉ではない。
「――――私では、民を救えなかった」
するりと言葉が飛び出すと、あとは、もう、困らなかった。ルミナに何を言うべきか、何を最も言いたかったのかは分かっている。
「貴方は、震える手を隠しきれない、ごく普通の感性を持った方です。それでも、そんな貴方が、そこ手で戦ってくれたおかげで、私の家族は、友人は、民は。――――そして、私は、生きています」
ルミナが、唇を震わせた。
全く英雄に相応しくない表情だと、ロゼルフィーユは思った。平凡な女。器に似つかわしくない力を持ってしまった呪われた女。――――それでも立ち上がって、世界を救った女。
ロゼルフィーユは、ルミナに手を伸ばした。
ルミナの体を、そっと引き寄せて、抱擁する。
海水で冷えたその体は、やはりというべきか、鍛えられてもいない。ロゼルフィーユはレイピア程度なら握れるぐらいには鍛えているが、ルミナの体は、そうではない。本当に、華奢な少女のそれだった。
ルミナの後頭部に手を添えて、自分の肩にもたれさせる。
「……私に出来なかったことを成した、あなたに感謝を。聖女ルミナ。よく、戦ってくれましたね」
ルミナの肩が震えた。ロゼルフィーユは何も言わずに、目を閉じた。波の音が、あたりを揺らす。
……ざざん、ざざん。
時たま、ざざーん。
それに混ざるように、やがて、小さな嗚咽が、ルミナから漏れた。
「っ、ぅ、ぁ、あ………あぁ、あああ……」
最初は、しゃくりあげるように。波の音に隠れて、段々と、その嗚咽は大きくなる。
「ぅ、う、う、うあ、ああああ……!!」
ルミナが、ロゼルフィーユのドレスを、縋りつくように掴んだ。
「怖かった、……っ!!」
一度溢れ出た言葉は、もう止まらない。ルミナは、まるで血でも吐くように、泣きながら叫んだ。
「ずっと、ずっと怖くて、たまらなかった……!!魔王も、魔物も、わたしにかかる期待も、ぜんぶ、ぜんぶ、怖かった………!!」
やっと漏れた本音は、ただの女の子の悲鳴だった。聖女などという重みを、神に等しい魔法の力を与えられた少女の悲痛な叫び。
怖い。期待が怖い、魔法が怖い、自分が怖い、あなたが死ぬのが怖い、放棄が怖い、責任が怖い、――――自分の生存が怖い。
「……ええ、そうね…。……そうだと思うわ」
ロゼルフィーユは、生まれたその時から覚悟があった。少なくとも、覚悟を決めるだけの時間はあったのだ。だが、ルミナは違う。普通に生まれて、普通に育ち、守られる側として生きてきた。過ぎた力は、彼女に暖かい寝床と、名声を与えたが、同時に、何もかもを奪ったのだ。
それでも、たとえどんな理由であろうが、この女は、戦った。逃げ出すこともできた。それでも、震える手足で戦い抜いた。
そんな彼女が、怖いと泣いたとて、誰が責めるのだろうか。聖女が称号ではなく、そのあり方だとするのなら、ルミナは――――怖がりで、平凡で、臆病で、それでも何かの為に戦ったこの女の子は、紛れもなく、"聖女"だと、ロゼルフィーユは思った。
やがて、ルミナが、顔を上げた。
鼻水と涙でぐしゃぐしゃになった顔で、言った。
「……わたっ、わたし、…」
しゃくりあげながら漏らしたのは、笑ってしまうぐらい、ささやかなものだった。
「いいの?…生きてて、いいの………?」
「………………本当に、バカな女」
ロゼルフィーユは、もう一度、ルミナを抱きしめた。
「いいに決まっているじゃない。他の誰も許さないのなら、私が許すわ。お前を利用とする者がいるのなら、私が鉄槌を降してあげる。最強のお前を、このロゼルフィーユが、守ってあげる」
頑張った人間には、それなりの結末が訪れるべきだ。これが、ロゼルフィーユの持論だ。
では彼女本人はどうなのだと聞かれれば、ロゼルフィーユは「相応よ」と答える。グレイシア家に生まれ、友に恵まれ、誰かから、この命を守りたいと望まれて。自身の努力に対して、充分すぎるものを得ていると、ロゼルフィーユは思っている。
だから。絶対に。
こんなに頑張って戦ったルミナが、死ななければならないという結末など、あってはならない。
「ルミナ。お前の死など、この私は、認めないわ」
最後の言葉は、掠れた声で。それでも、絶対の自信と決意に満ちて。ロゼルフィーユは、言葉を紡ぐ。
それは、聖女に与えられた、優しく、高貴で、威厳に溢れていて――――そして何より、暖かさに満ちた、切実な願いだった。
「……うん……うん………っ」
ルミナは、何度も頷いた。
大いなる力を持った、器が足りない少女。
器は充分だけれど、力を持たなかった少女。
長い夜が、少しずつ明ける。
溶け合っていた水平線は、徐々にその輪郭をはっきりとさせる。罪人の罪を照らす月明かりは姿を消して、やがて、太陽の光が、二人を照らした。
ロゼルフィーユは、その眩しさに目を細める。
最後にもう一度だけ、目の前のちっぽけな聖女さまの、ミルクティー色の髪を撫でてやった。
あと二話だけ続きます。
もう少しだけお付き合いいただければ幸いです。




