第9話 「クソ野郎ども」と元気に叫ぶ妻
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クラウディアに、オズワルドのことを話したのは、その夜だった。
役所で借りた部屋。
机を挟んで、向かい合った。
戦場で《換算》を使ったこと。
敵が消えたこと。
同時に、こちらからも六人が消えたこと。
名を、一人ずつ伝えた。
妻は途中で口を挟まなかった。
「人の力を借りるものだと、思っていた。だが、そうじゃなかった」
膝の上で、手を開いた。
握っていることに、今気づいた。
「選ばれた人を、俺が指定したわけじゃない。戻す方法も、まだ見つかっていない。今は、人を使う項目そのものを止めてある」
クラウディアは、しばらく机を見ていた。
「オズワルドは、お父上にも、あなたにも、よくお仕えしていましたわね」
「ああ」
「……そうですか」
慰めの言葉は、なかった。
それを言ってもらうために話したのではない。
「このことを伏せたまま、守りを任せたくなかった」
「また敵が来ても、その力は使わないおつもりですの?」
「人を使うことは、しない。そのために、兵も、食料も、任せられる人も必要なんだ」
妻が顔を上げた。
「でしたら、私が守る間のことを決めましょう」
声は、静かだった。
「どこまで兵を動かしてよいか。退くときは、誰が町の人を逃がすか。あなたへ使いを出して、間に合わない場合もございます」
「そうだな」
昨日は地形の上で話した。
今夜は紙に残した。
できないことも、決めた。
国境の向こうへ追わない。
敵の別働隊が見えたら、橋だけに兵を集めない。
夜が更ける頃には、机の上に一枚の紙ができていた。
妻が、署名の横に指を置いた。
「約束いたしますわ」
◇
翌朝。
その約束を確かめるには、早すぎる使いが来た。
「橋の向こうに、敵兵! 二十人ほどです! 弓を持った者も!」
巡察の荷物を確かめていた手が止まった。
まだ大軍ではない。
それでも、見張りの人数より多かった。
「デニスは?」
「橋のこちら側で、兵をまとめております。対岸の道に、後続はまだ見えません」
使いが息を整える間に、クラウディアが近づいてきた。
「敵は、渡り始めていますの?」
「盾を持った者が、橋へ。こちらの様子を探っているようです」
「まあ……困りましたわね」
彼女は口元を隠した。
隠すのが、少し遅かった。
クラウディアは、連れてきた二人の護衛へ目を向けた。
「鎧の支度を。剣帯も一緒に」
「はっ」
返事が速い。
妻はもう、袖の留め具を外していた。
……あっ。
やっぱり。
橋へ誰を送るか、ではない。
自分が何を着て行くか、という段階に入っている。
「クラウディア。君が行くんだな」
妻の手が止まった。
こちらを見ると、心配そうに眉を寄せた。
「ええ。昨日、守りをお任せいただきましたもの。現場でしか判断できないこともございますし、兵の皆様を危険へ向かわせて、私だけ安全な所にいるわけには」
もっともだった。
「デニスも、一人で守りと援軍の取りまとめをするのは大変でしょう。私なら地形も拝見しておりますし、鎧もございます。何より、あなたはまだお怪我が――」
「俺は町に残る」
「それがよろしいですわ」
そこだけ、ひときわ力強かった。
説明の間に、護衛が箱を運んできた。
供の女は既に、髪をまとめる紐を持っている。
理由を聞いているうちに、出陣の準備が進んでいた。
稟議を説明しながら、納品先まで指定する取引先を思い出した。
「……心配で、居ても立ってもいられないと」
「おわかりいただけますのね」
昨日は川を見ていた目が、今日は鎧の箱を見ている。
何を待ちきれないのかは、だいたいわかった。
とはいえ、任せた仕事をしようとしているのも事実だ。
俺は昨日の紙を広げた。
「わかった。動かす人数だけ、先に確認しよう」
町の兵を全員出すことはしない。守りを残し、動かせる者だけを橋へ送る。
妻は配置を確かめ、今度は説明を最後まで聞いてから、うなずいた。
◇
鎧の箱が開くところを、初めて見た。
胸と背を覆う鋼。
肩、腕、膝。指の関節まで守る籠手。
供の者が、順に留め具を締めていく。
編んだ蜂蜜色の髪が背へ流れ、やがて兜の下へ収まった。
飾りで着るものではなかった。
磨かれた表面にも、使い込んだ細かな傷がある。
クラウディアは肩を回し、膝を曲げた。
腰の剣を少し抜いて戻す。
どれも、慣れた手つきだった。
「その、動けるのか?」
「はい?」
妻が、不思議そうにこちらを見た。
「重そうだから」
「慣れますわ」
俺は馬の鞍にも、まだ慣れていない。
町の出口に、援軍がそろった。
クラウディアも馬には乗らず、兵と歩調を合わせて行くという。橋までは近いが、息を切らして着いては仕方がない。
出発前、妻がこちらへ向き直った。
面頬は、まだ上げている。
「では、行ってまいります」
「無理はしないでくれ。君も、兵も、戻ってきてほしい」
「承知しておりますわ。あなたも、お怪我に障ることはなさらず」
丁寧に頭を下げた。
鋼の鎧を着ていても、仕草は貴婦人だった。
町の者が道を空ける。
クラウディアは、小さく手を振って応えた。
「立派な奥方様だねえ」
「これなら、領主様も安心だ」
俺も、そう思った。
列が道の曲がり角へ消えるまで見送った。
最後の槍の穂先が見えなくなる。
さて、こちらも仕事だ。
町の方へ振り返った、その瞬間だった。
「待ってろよ! クソどもォ!」
川へ続く道から、よく通る声が響いた。
俺は、片足を出したまま止まった。
隣のトマは、道の先を見ていた。
「……愛する妻に似た声で、クソと聞こえた気がするが」
「勇ましいお声でしたね」
「誰の声かは、言わないんだな」
鳥が数羽、街道脇の木から飛び立った。
◇
町が見えなくなったところで、クラウディアは大きく息を吸った。
我慢した。
ちゃんと、町の外までは我慢した。
少し大きな声が出たが、誰も振り返ってはいない。
護衛の一人が歩幅を乱しただけだ。
王立学校に通っていた頃は、もっと面倒だった。
賊のいる場所を探し、顔を隠し、名を変える。
寮へ戻る時間を気にしながら、路地や倉庫を巡る。
盗品と縛った賊を衛兵に渡すと、説明を求められる。
説明していると、門が閉まる。
だから、目につく所へ置いて帰るしかなかった。
王都の賊が目に見えて減り、学校でも治安の改善が話題になった頃には、夜に出かけても空振りが増えていた。
衛兵たちは、正体不明の複数の腕利きが動いていると思っていたらしい。
偽名を毎回変えたのが、よかったのだろう。
誰にも知られないまま、卒業した。
だが、今日は違う。
顔を隠す必要がない。
門限もない。
何より、夫に頼まれている。
頼りにしている、と言われた。
思い出したせいで、頬が温かくなった。
クラウディアは面頬を下ろした。
守る。
そのために戦う。
今日は、どちらもできる。
◇
橋では、盾を打つ音が続いていた。
デニスは領内側の橋詰めに兵を置き、狭い出口を押さえていた。
敵は盾を前へ出して近づき、槍を受けると少し引く。対岸の弓兵が、ときどき矢を放つ。
強く押してこない。
こちらの人数と、退く気があるかを確かめているのだろう。
前の戦のように、人が消えることも警戒しているのかもしれない。
「奥方様!」
デニスが声を上げた。
「一人、腕を打たれております。ほかは、まだ」
「下げろ。代わりは連れてきた」
デニスが、一瞬止まった。
クラウディアは橋を見ていた。
前にいるのは、盾を持った三人。その後ろから槍。
橋の中央に、交代する兵が控えている。
「弓から見える所へ出るな。右の槍は少し下がれ。味方の盾に引っ掛かる」
言いながら、前へ進んだ。
敵の盾が、一枚動く。
立派な鎧を見た男が、何か叫んだ。
「偉いのが来たぞ!」
クラウディアは剣を抜いた。
「よく見つけたな、クソ野郎! ご褒美に相手してやるよ!」
味方の槍が、二本ほど揺れた。
敵兵が踏み込んだ。
盾の縁から剣を突き出す。
クラウディアは味方の盾の陰で半歩ずれ、伸びた刃を外へ払った。
そのまま距離を詰める。
柄頭が敵の兜を打ち、男が後ろへよろめいた。
次の槍が来る。
剣で押し流し、肩から入った。
鎧と盾がぶつかる鈍い音。
先頭の男が、背後の兵を巻き込んで膝をついた。
「槍! 今だ、押せ!」
デニスの声が重なった。
「前へ!」
味方の穂先が、そろって伸びる。
敵は倒れた者を引きずり、橋の中央へ下がった。
クラウディアは追いすぎず、味方の盾が並ぶのを待った。
対岸から矢が飛んだ。
欄干に当たり、川へ落ちる。
「伏せろ!」
若い兵の首を、籠手で押さえた。
次の矢が、すぐ上を抜けた。
「顔を出すな! 見たいなら、私の後ろから見ろ!」
「は、はい!」
「いい返事だ!」
兵が盾を握り直した。
敵が再び近づく。
今度は、クラウディアに二本の槍が向けられた。
一本を味方の盾が受ける。
もう一本を、彼女の剣が弾く。
「女一人に、ずいぶんご丁寧じゃねえか!」
笑っていた。
隣で盾を構える兵には、その顔は見えなかった。
けれど、声でわかった。
この人は、怖がっていない。
自分たちが一歩でも退けば終わると思っていた場所で、まだ前へ出ようとしている。
「左、来るぞ!」
今度は兵の方から、声が出た。
クラウディアが応じ、デニスが列を寄せた。
盾が鳴った。
剣が閃いた。
敵の槍が一本、川へ落ちた。
橋の中央で、短い笛が鳴った。
◇
敵が退き始めた。
矢が二本、続けて飛ぶ。
その間に、負傷した者を肩へ担いで下がっていく。
クラウディアは、足を一歩出した。
相手の背中が見える。
橋の向こうまで追えば、もう少し――。
『俺から頼みたいのは、留守の守りだ』
足が止まった。
対岸では、弓兵がこちらを待っている。
橋の先の道は曲がり、その向こうは見えない。
クラウディアは、奥歯を噛んだ。
「追うな!」
声が、橋に響いた。
「盾を下げるな! 渡り切るまで見てろ!」
言ってから、もう一度、敵の背を見た。
惜しかった。
非常に惜しかった。
だが、頼まれたことがある。
クラウディアは剣を下げた。
「人数を確かめろ。怪我人は先に手当てだ」
デニスがうなずき、兵へ指示を出した。
「奥方様も、お怪我は」
「ない。鎧を少しこすっただけだ」
肩の鋼板を手で払う。
ふと、兵たちの視線に気づいた。
全員が、こちらを見ていた。
クラウディアは面頬を上げた。
軽く咳払いをする。
「……皆様、ご無事で何よりですわ」
川の音が、よく聞こえた。
◇
町では、手当てをする場所を先に空けた。
清潔な布と水。
人を運べる荷車。
もし橋から退くことになった場合、どの道を空けるか。
マルセルが人を割り振り、マルタが湯を用意した。
俺は報告の来る場所を役所に決めて、そこを動かなかった。
行って、何かを見たい気持ちはあった。
だが、現場の判断を任せた人間が、心配になって後ろからついていく。
それで仕事が増えるのは、任された側だ。
今の俺の役目は、戻ってきた人を受け入れることだった。
それでも、外で足音がするたび顔を上げた。
昼前、使いが戻った。
「敵、撤退! 橋は守っております!」
息を吐いた。
まだ、座らなかった。
「こちらの被害は?」
「死者はありません。手当ての必要な者が二人。歩いて戻れます」
そこで、ようやく椅子に手をついた。
◇
クラウディアが帰ったのは、見張りの交代と、対岸の様子の確認を済ませてからだった。
鎧の肩に、朝はなかった擦り傷がある。
靴には泥。
顔は、妙につやつやしていた。
「お言いつけどおり、お帰りいただきましたわ」
朝と同じ声だった。
町の外から聞こえたものとは、少し違った。
俺はまず、二人の負傷者が手当てを受けるのを確かめた。
一人は腕の打ち身。もう一人は頬の浅い傷だという。
それから、妻へ向き直る。
「君は?」
「怪我はございません」
「そうか。よかった」
クラウディアの指が、籠手の留め具に触れた。
なぜか、途中で止まった。
「橋も、兵も守ってくれた。ありがとう」
妻が口を開きかけた、そのときだった。
「領主様!」
戻った兵の一人が、駆け寄ってきた。
「奥方様は、すごいお方です! 敵が押してきたところを、『クソ野郎、てめえの――』」
「そのご報告は、私からいたしますわ」
声が、とてもきれいだった。
兵が口を閉じた。
妻が微笑んだ。
俺は二人を見比べた。
「……勇ましく、励ましてくれたらしいな」
「ええ。皆様、よく戦ってくださいました」
兵が、勢いよくうなずいた。
「はい! 奥方様が前におられたので、踏ん張れました!」
そこは、取り繕った声ではなかった。
クラウディアも、一度そちらを見た。
目元が少しやわらいだ。
言葉遣いについて聞くことは、たぶんできる。
順番に話を振れば、途中で自分から言ってしまう気もする。
だが、今確かめたいのは、そこではない。
「追わずに戻ったんだな」
「もちろんですわ。お約束しましたもの」
「助かる。これなら、安心して任せられる」
妻の唇が、少し開いた。
目が合った。
先にそらしたのは、向こうだった。
「……そのように、何度もおっしゃらなくても」
小さな声だった。
外での叫び声と、同じ喉から出たとは思えない。
クラウディアは急に背筋を伸ばした。
「では、次も私が」
「来ない方がいい」
「……ええ。もちろんですわ」
返事までの間は、もう覚えた。
◇
夕方、トマと巡察の荷物を見直した。
出発は、橋の状況をもう一度確かめてから。
まず領主館へ戻り、残していた仕事を整理する。その先で、村々を回る。
持っていくのは、書く道具と地図。
着替え。雨具。少しの薬。
「剣は、こちらへ」
「使わずに済むといいな」
「奥方様も、そうおっしゃっていました」
「本当に?」
「領主様の剣は、です」
それなら、たぶん本当だ。
窓の外で、クラウディアが兵たちと話していた。
鎧は脱ぎ、淡い青の服に戻っている。
兵が何か言う。
妻が微笑む。
なぜか兵の背筋が伸びる。
何を話しているのかまでは、聞こえなかった。
俺は地図を開いた。
広い領地に、小さな村が点々とある。
ここを任せて、見に行ける。
そのことが、今は何よりありがたかった。
「トマ」
「はい」
「留守の間、妻が退屈しないといいんだが」
「退屈していただく方が、よろしいのでは」
……それは、まったく、その通りだった。
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