第10話 数字の向こうへ
「留守を頼む。できれば、何事もなく」
クラウディアは、微笑んだ。
「……ええ。もちろんですわ」
その間は、もういい。
橋から、敵の姿は見えないと報告が来た。
交代の見張りも入り、負傷した二人の容体も悪くない。
俺はトマと、もう一人の護衛を連れて、川の町を出ることにした。
まずは、領主館へ。
普通に進めば、途中で一泊して明日のうちに着くという。
川の守りはデニス。
町の事務はマルセル。
その間の判断を、クラウディアに任せる。
巡察へ出るときには、行き先と宿泊予定も知らせる。急ぎの使いが、領内を探し回ることになっては困るからだ。
「お食事は、きちんとお取りくださいませ」
「君も、ちゃんと休んでくれ」
「はい」
今度の返事には、間がなかった。
手綱を受け取り、馬へ乗る。
クラウディアがそっと近づき、外套の襟を直した。
「朝は、冷えますから」
指先が離れる。
顔が近かったせいで、礼を言うのが少し遅れた。
妻は先に一歩下がり、何事もなかったように手を振った。
俺も手を振り返した。
町の門を抜ける。
背後から、叫び声はしなかった。
今日は、俺が出かける側だった。
◇
道は、思っていたより長かった。
地図の上では、指一本でなぞれる。
実際には、丘を上り、曲がり、低い所を避けて、また上る。
遠くに畑が見えた。
その先には森。
森の向こうに、煙が細く立っている。
「あれも、領内の村か?」
「はい。ですが、この道からは半日ほど回ります」
「見えているのに?」
「間に沢がございますので」
地図には、細い線で描かれていた沢だった。
線の細さと、渡りやすさには関係がないらしい。
昼前、道沿いの水場で休憩を取った。
馬を休ませ、俺も鞍から降りる。
動かない石へ腰を下ろしただけで、少しほっとした。
トマたちが馬に水を飲ませている間に、《換算》を開いた。
人は、対象外。
木材も、対象外。
そこを確かめ、いつもは閉じる。
今日は、そのまま表示を端まで見た。
発動。
対象。
履歴。
さらに横に、小さな項目があった。
《国力》
「……こんなものが、あったのか」
触れると、画面が切り替わった。
《フェルデン領》
《国力評価:1,264》
《前日比:+18》
増えていた。
収穫の時期ではない。
昨日は戦があり、矢も使い、怪我人も出ている。
それなのに、増えるのか。
数字の下に《内訳》とある。
押してみた。
《財政:+9》
《人:+12》
《物資:-3》
足せば18。
そこは、わかった。
問題は、何を足しているかだ。
◇
まず、財政を開いた。
《支出管理の改善》
《不適切支出の停止見込み》
《備蓄記録の是正》
ああ。
エーベルトを外し、支払いと帳面の扱いを変えたからか。
その下には、別の表示があった。
《手元資金:不足》
《未払債務:あり》
知っている。
できれば、その辺りも一緒に改善してほしかった。
財布の穴をふさいだだけで、財布の中身まで増えてはくれないらしい。
数字の脇に、小さな説明があった。
領内の資源、生産、維持、動員の状態を、共通の尺度へ換算した評価値。
金貨の数ではない。
今ある物だけでもない。
同じ麦が同じだけあっても、腐らせずに保管し、必要な場所へ運べるなら、評価が変わるということだろうか。
便利そうではある。
ただ、どこまで先を見込み、何を重く評価しているのかはわからない。
財政が9増えたからといって、銀貨を9枚使ってよいわけではなかった。
次に、《人》へ触れた。
領内人口の増減は、前日比で零。
負傷による活動の低下には、小さな減点がついていた。
それでも、全体ではプラス12。
どうしてだ。
画面を下へ送る。
最近の変動を表示する項目があった。
《直近三日間》
その下に、見覚えのある名が並んでいた。
《クラウディア・フェルデン》
《領内帰還/防衛への従事》
これは、わかる。
実際、昨日は彼女が橋を守ってくれた。
その次の行を読んだ。
《信頼条件:充足》
《人換算の候補へ追加》
指が止まった。
もう一つ、名があった。
《ハンス》
《信頼条件:充足》
《人換算の候補へ追加》
その横には、昨日の日付。
画面を、閉じた。
くそ。
見るんじゃなかった。
朝、襟を直してくれた指。
小屋の扉を、何度も開け閉めしていた手。
俺に任せてもよいと、思ってくれたのだろう。
少なくとも、以前よりは。
この力は、それを増加として記録していた。
消費できる候補が増えた、と。
もう一度開いた。
設定だけを見た。
《人:使用停止》
変わっていない。
息を吐いて、閉じた。
あの六人の名が、浮かんだ。
兜の向こうからこちらを振り返ったオズワルド。
レオンの記憶に残る、エマの半分の菓子。
家族に会ったとき、返せなかった言葉も。
忘れないようにしよう、とは思わなかった。
たぶん、忘れることはないのだろう。
◇
「領主様。水をどうぞ」
トマが、水筒を差し出していた。
「……ありがとう」
受け取って飲む。
ぬるい水だった。
喉を通る感覚が、妙にはっきりした。
「少し、長く休みますか」
「いや。もう大丈夫だ」
トマは、それ以上聞かなかった。
馬の方へ戻り、荷紐を確かめ始めた。
俺は地図を膝に置いた。
少し待ってから、《国力》の一覧へ戻る。
人の内訳は、開かなかった。
今度は、領内の状態を見た。
《食料供給の安定度:34》
《物流の安定度:27》
《生産設備の維持状態:41》
いずれも、100を上限とする指標らしい。
低いところには、注意を促す印がついていた。
食料は、わかる。
物流と設備も、よいとは思っていなかった。
ただ、27がどれほど悪いのか。
何を直せば30になるのか。
表示を見ただけでは、そこまではわからない。
林産資源の項目は、ほかより高かった。
紙の地図でも、西には広い森が描かれている。
木はある。
だが、切る人はいるのか。乾かす場所は。運ぶ道は。
売れた代金は、働いた人へ届いているのか。
画面は、答えなかった。
前の世界で、地元の優良企業だと紹介されていた会社を訪ねたことがある。
売上は伸び、表彰も受けていた。
ところが、取引先から話を聞くと支払いは遅れ、工場では帳簿に載らない残業が続いていた。
立派な数字の下で、誰かが負担を引き受けていた。
逆に、決算書だけなら厳しい会社でも、工場を見て、社長や従業員と話すと、続ける価値のある仕事が見つかることもあった。
数字は見る。
でも、それだけで決めない。
銀行員だった頃から、そうしてきた。
この画面が人間の帳簿より正確だとしても、そこは変わらない。
俺が知りたいのは、評価が低いという結論だけではない。
何に困っているのか。
何ならできるのか。
本人は、どうしたいのか。
そこは、会って聞かなければ。
◇
再び馬へ乗り、道を進んだ。
畑の脇で、男が二人、水の流れる溝をさらっていた。
片方がこちらに気づき、帽子を取った。
俺も会釈を返す。
「トマ。あの畑は、誰のものだ?」
「家の持ち地か、領主家から借りている土地か、どちらかだと思います。村へ聞けばわかりますが」
「どちらにしても、作業の段取りはその家が決める?」
「普段は、そうですね。水を使う順番などは、村で相談することもございます」
記憶の中にも、そうした話はあった。
ただ、館で聞いた単語と、目の前で泥をかく人とが、今ようやくつながった。
領内で働く人間を、俺が全員雇っているわけではない。
ハンスの工房は、ハンスの仕事場だ。
マルタの店も、俺の食堂ではない。
税を納める相手だからといって、毎朝の作業指示まで俺が出すのか。
そんなことをしたら、明日から領民八千人の仕事が俺の机で止まる。
融資先に問題があれば、銀行員としても口は出した。
支払いをどうするか。仕事を減らすか。返し方を変えるか。
それでも、工場の従業員を勝手に配置換えすることはなかった。
今の俺には、あの頃とは違う権限がある。
徴税も、防衛も、領内の揉め事の裁定も仕事のうちだ。
だからこそ、どこまでやっていいのか、考えなければならない。
「領主の仕事の範囲は、何かに書いてあるのか?」
「王から認められた権利の書付や、昔からの取り決めでしたら、館にあるはずです」
「なるほど」
「細かなことは、先代様がお決めになっていましたが」
そこが、一番知りたいところだった。
職務規程はある。
ただし、実際の運用は前任者の頭の中。
転生前にも、聞いたことのある引き継ぎだった。
まず、館で書付を読む。
その上で、今どうしているのかを聞く。
道を一本直すにも、領主が管理する街道と、村で手入れする道とでは話が違うという。
どちらも俺の土地だから、で済ませてよいものではなさそうだった。
そんなことを考えていると、道の先から声がした。
「引くなって! そこで引いたら、もっと沈む!」
◇
荷車が、傾いていた。
片方の車輪が、深い轍にはまっている。
道端の溝からしみ出した水で、その一帯だけ泥がやわらかい。
馬が首を振った。
若い男が、手綱を握り直す。
「いったん止める! 馬も休ませな!」
声の主は、三十歳ほどの女だった。
茶色の髪を短く束ね、袖を肘までまくっている。
腰の袋から木のくさびを出し、動いていない方の車輪へ当てた。
俺たちは少し手前で馬を降りた。
トマが安全を確かめ、もう一人の護衛に馬を預ける。
「手は足りているか?」
「足りてないよ! 押せる?」
女は俺の顔より先に、靴と手を見た。
「力仕事は、そこそこだが」
「じゃ、まず軽い荷を下ろす。そこの包み、乾いてる所へ。袋は泥に置かないで」
俺は指示された包みを運んだ。
トマも横で荷を下ろす。
女は車輪の前を掘り、荷台に積んであった短い板を差し込んだ。
積み荷を減らし、片寄った重さを直す。
「そこの兄ちゃん! 押すなら後ろ! そこに立つと轢くよ!」
「はい!」
慌てて移動した。
「あの、こちらは領主様で――」
トマが言った。
女が顔を上げた。
手綱の男も、こちらを見た。
「……え?」
「領主様?」
「その、今、包みを運んだ?」
俺だ。
全員の手が、止まった。
「今は押す方を続けてくれ!」
女が口を開き、閉じた。
それから車輪を見て、深く息を吸う。
「……では、私が合図をいたしますので」
「さっきのでいい。合図がわかれば動ける」
「じゃ、いくよ。せえの!」
押した。
車輪が板へ乗る。
一度滑り、もう一度押す。
馬が引き、泥から抜けた荷車が、固い道へ進んだ。
「止めて! よし、そこでいい!」
俺は手を離した。
息を吐き、腰を伸ばす。
女が、馬の脚と車輪を順に確かめた。
荷主らしい男は、濡れていない包みを見て胸をなで下ろしている。
誰も怪我をしなかった。
荷も、無事だった。
「助かった」
「それは、こっちの言うことで……ございます」
女が、困った顔で頭を下げた。
「知らなかったとはいえ、とんだ口を」
「俺が誰でも、轢かれる場所にいたのは同じだろう」
トマが、横を向いた。
肩が少し動いた。
「止めてくれて助かった。名前を聞いても?」
「ベルタです。荷運びをしております」
◇
荷を積み直す間、話を聞いた。
ベルタは、川の町へ向かう途中だった。
荷台には、干した豆や日用品の包みが載っている。
持ち主は一人ではなく、届け先も違うという。
「よく、全部覚えているな」
「間違えると、次の仕事が来ませんから」
「荷の置き方も、行き先で変えている?」
「先に下ろすものを奥へ入れたら、毎回全部出すことになりますよ」
言いながら、包みを一つずらした。
「こっちは割れ物。その豆の上には載せないで。揺れて落ちるから」
若い男が、うなずいて置き直す。
叱るために声を出しているのではない。
先に、事故が起きる場所を見ている。
「さっきの泥は、よくああなるのか?」
「雨の後は。溝をさらっても、上の斜面から土が来るんです。今日は乾いて見えたんですがね」
「別の道は?」
「荷車なら、半日余計にかかります」
地図で見たときには、ただの一本道だった。
「帰りも、荷は積むのか?」
「見つかれば」
「川の町に、運んでほしいものはない?」
「ありますよ。出る日に、積める形でそろっていればね」
ベルタは、荷紐を締めた。
「『明日には用意する』と言われて待ったら、その明日にもそろわない。馬は待ってる間も食べます。こっちの飯も、ただじゃない」
俺はうなずいた。
「それなら、空でも帰った方が損が少ないことがあるな」
「そういうことです」
彼女の口調から、ぎこちない敬語が減った。
「でも、村の人は言うんですよ。どうせ通るなら、これも持っていけって」
「道から近いのか?」
「人が背負って歩けば、ですよ。荷車は沢を回るんです」
トマが、俺を見た。
さっき、同じことを聞いたばかりだった。
物流の安定度、二十七。
そこには、泥の深さも、荷のそろわない一日も、一緒に押し込まれていたのかもしれない。
「この道を使う人に、話を聞きたい。君の都合が合うときに、時間をもらえるか」
「何のお話でしょう」
「荷をまとめて運べる余地があるか。ただし、遠回りと待ち時間まで含めて、君の仕事として成り立つかを聞きたい」
ベルタは、すぐには答えなかった。
荷紐を一度引き、緩んでいないことを確かめた。
「……お話だけなら」
「仕事として調べてもらうなら、その手間の分も相談する。今ここで、ただで村を回ってくれとは言わない」
彼女が初めて、まっすぐ俺を見た。
「領主様が、そんな細かいことまで?」
「細かいことを知らずに頼んで、損をさせたくない」
俺は、持っていた紙に彼女の名を書いた。
数日後、領都へ荷を運ぶ予定があるという。
そのときに、館へ寄ってもらう。
今日決めたのは、そこまでだった。
荷車が動き出す。
ベルタは少し進んでから、こちらを振り返った。
「領主様」
「何だ?」
「次は、押す前に名乗ってください」
それには、うなずいた。
◇
手を洗っても、爪の間に泥が残っていた。
俺は地図を開き、荷車の止まっていた辺りに印をつけた。
ベルタから聞いた、迂回する道も書き足す。
《国力》の数字は、役に立つだろう。
どこから調べるかを考える手掛かりになる。
だが、あの画面にベルタの声はなかった。
馬を休ませたことも、割れ物を置き直したことも。
俺が誰かを知って慌てながら、それでも最後まで荷を確かめた手つきも。
「領主様。出発いたしましょう」
「ああ」
地図をしまう。
立ち上がると、腰と尻が別々に痛んだ。
「馬へ、お乗りになりますか?」
「少し歩く」
「道をご覧になるのですね」
「今日は、本当にそれもある」
トマが笑った。
手綱を持ち、歩き始めた。
見るべきものは、思っていたよりずっと多かった。
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