第11話 心理的安全性
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領主館に戻って、最初に出迎えてくれたのは書類だった。
もちろん、門には人もいた。
帰還を喜んでくれる顔もあったし、無事を確かめて胸を撫で下ろす者もいた。
それらを経て執務室に入ったところで、机がなかった。
いや、あった。
書類の下に。
「こちらがお留守の間に届いたものです」
案内してくれた使用人が、右の山を示した。
「こちらが、ご判断をお待ちしているものです」
左の山。
「中央は?」
「以前から、ご判断をお待ちしているものです」
若いレオン君。
君とは一度、引き継ぎの時間を設けたかった。
椅子に腰を下ろしかけ、尻の痛みに動きを止める。
二日間の騎乗である。
体は二十一歳でも、中身は三十五歳の銀行員だ。馬に揺られた経験より、上司と顧客の間で揺れた経験の方が圧倒的に長い。
「座られないので?」
トマが聞いた。
「まず立って全体を把握しようと思ってな」
「敷物を持ってまいります」
「頼む」
話が早くて助かる。
帰路で見た道と、ベルタの荷車を思い出しながら、書類を一枚ずつ分けていく。
麦。
橋。
屋根の修繕。
未払い。
未払い。
なぜか客室の飾り布。
俺は最後の一枚を脇に置いた。
今、優先するのは窓の見栄えではない。
窓の外で暮らしている人の方だ。
◇
数日後。
呼び寄せたマルセルが領主館に到着した。
川の町では、リタが倉庫の記録を引き続き確かめ、通常の支払いは引き継いだ者が決められた範囲で扱う。判断の要る案件だけをまとめて送らせることにした。
橋の守りはクラウディアとデニスに任せている。
妻からの短い書状には、兵の様子と、見張りの交代について丁寧に書かれていた。
末尾には一行。
『こちらは平穏ですので、ご安心くださいませ』
安心した。
その下に、筆を強く置いたような点があった。
退屈しているのだろうか。
いや、深読みはよそう。平穏を喜んでいるに決まっている。
「領主様。お呼びになった運び屋が」
マルセルが言った。
「通してくれ」
現れたベルタは、入口で一度立ち止まった。
庭仕事でもできそうな丈夫な服に、よく使い込まれた靴。袖は今日は下ろしている。部屋の敷物を見て、それから自分の足元を見た。
「泥は落としてきたんだけどね」
「ありがとう。座ってくれ」
「荷の受け取りじゃないんだろうね。あたしの荷車は裏だよ」
「今日は君の話を聞きたい」
「道で聞いただろ」
「あれから、もう少し考えた」
机に、簡単な道の図を広げた。
領主の町と川の町。
その間の街道。
少し外れた集落。
「村ごとの小さな荷を集めて、決まった日に運ぶ仕事はできないかと思っている」
ベルタは図を見た。
俺を見た。
もう一度、図を見た。
「……悪いところから言っていいかい」
「ぜひ」
彼女の眉が動いた。
「ぜひ?」
「君を呼んだ理由だ」
腕を組んだベルタが、街道脇の村を指した。
「ここ、荷車じゃ入れないよ」
「道が細い?」
「最後の坂。雨が降れば馬が嫌がる。無理に上げたら帰りに滑る」
次の村。
「ここは、荷を出すって言ってから長い。婆さんが豆を量り始めて、隣がついでに袋を持ってきて、さらに隣が鶏を捕まえ始める」
「鶏」
「まだ捕まってない鶏を、積む予定に入れられるんだよ」
俺は図に書き込んだ。
集荷時刻。
積み荷の確定。
「それと、荷が集まらない日にも回るのかい? 帰りが空なら、馬だけきっちり飯を食うよ」
「なるほど」
「なるほど、じゃないよ。こっちは餌代を払うんだから」
いい。
とてもいい。
机の上の線が、道になっていく。
その道の上に、馬と人と、まだ捕まっていない鶏が現れる。
「じゃあ、全部の家を回らないとしたら?」
「家を?」
「荷を持ってくる場所を決めることはできるかな」
「村の中で、ってことかい」
ベルタが考え込んだ。
「……あの坂を上がる手前なら、小屋がある。畑の道具を置いてるやつだ。持ち主が貸すなら、そこへ集めてもらう手はあるね」
「誰に聞けばいい?」
「持ち主と、あそこで荷を出したがってる連中。ただ、鍵を預かる奴は要るよ。袋が一つなくなっただけで揉める」
今度は俺ではなく、ベルタが図を引き寄せた。
「村ごとじゃなくて、ここへ二つの村から持ってくればいい。それなら荷車で寄るのは一か所で済む」
「それは考えていなかった」
俺が言うと、ベルタが少しだけ口元を緩めた。
「歩いて来る道ならあるんだよ。荷車は通れないけどね」
「じゃあ、運ぶ側と持ち込む側では、使える道が違うわけだ」
思わず身を乗り出した。
「面白いな。どのくらいの荷なら、そこまで持ってこられる?」
「そりゃ物による。麦袋を一人で抱えさせる気なら無理だよ。でも、織った布や、まとめた薬草なんかなら――」
ベルタの指が動く。
それに合わせて、俺は質問を重ねた。
◇
「出発する日は動かせないね」
しばらくして、ベルタが言った。
「誰かが遅れるたびに待ってたら、次の村で日が暮れる。間に合わなかった荷は次だ」
「その条件は、最初に知らせておこう」
「文句は出るよ」
「だから、始めてから知らせるのはまずい」
ベルタがうなずいた。
「最初は雨で傷みにくい物だけにしたい。生き物も嫌だ。卵と石を一緒に寄越されても困る」
「積める物と積めない物を書いておこう。大きさも必要かな」
「いる。『小さい荷です』って言って、樽を出してくる奴がいるからね」
小さいの基準は、世界が変わっても統一されないらしい。
「ただ、町に着いた後がね」
ベルタが言った。
「村の連中が売りたい物を持ってきても、買い手を探して歩くなら、その間あたしの荷車が空かない」
「届け先が決まっている荷から始める?」
「それがいい。売る相手まで探すのは、運ぶ仕事とは別だよ」
そこは、はっきり線を引いた。
運び屋を始めたつもりが、いつの間にか販売代行まで引き受けていた。
そういう話は、前世でも珍しくなかった。
「町で一晩置く場所があれば、翌朝の荷と積み替えられるんだけどね」
「マルセル。町の倉庫で使える場所は?」
「領主家の倉庫に、小部屋が一つございます。ただ、扉の修繕が必要です」
「いくら?」
「職人に確認した見積もりでは、銀貨八枚。棚まで作り直すなら十二枚です」
ベルタが首を振った。
「棚はいらないよ。袋を床に直置きしないように、下へ板を敷ければ」
「それなら?」
「板材を転用できれば、八枚の範囲で収まるかと」
俺はうなずいた。
「その部屋を貸す条件も決めよう。無料で使える間だけ成り立つ仕事にはしたくない」
「……領主様が言い出したのに、家賃を取るのかい」
「それも払って続くか、確かめたいんだ。ただ、最初から一部屋分を借り切る必要はある?」
「場所を区切れるなら、半分で足りるね」
マルセルが、貸し出せる範囲と費用を書き直す。
いきなり大きな倉庫を建てる必要はなかった。
新しい荷車も、今すぐ増やさなくていい。
ベルタがすでに持っている荷車で、既存の仕事を邪魔しない日を使う。
最初に回る場所も絞る。
できない理由を一つずつ聞いていくと、時々、その横にできる道が見つかる。
これだ。
俺は、こういう時間が好きだった。
「領主様」
マルセルに呼ばれた。
「何だ?」
「……少し、お顔が近いです」
いつの間にか机の向こうへ乗り出していた。
「すまない」
「いや。そんなに嬉しそうにされると、こっちも断りづらいんだけどね」
ベルタが椅子を少し引いた。
それはまずい。
「断っていい。難しいところを黙られる方が困る」
「じゃあ言うけど、始める金がないよ」
俺は座り直した。
「そこに、領主家から出資したい」
◇
ベルタの表情が変わった。
「……あたしを、領主様の運び屋にするってことかい」
「君の仕事だ。客を選ぶのも、荷を断るのも君が決める。兵の荷を無償で運べと言うつもりもない」
「領主様の荷でも?」
「運んでもらえば、運賃を払う」
「後回しにしない?」
「支払日を決めよう」
横から、マルセルの視線を感じた。
分かっている。
俺たちは今、その信用を取り戻している途中だ。
「資金を出す以上、記録は見せてほしい。使い道も決める。だが、俺が毎朝荷台の積み方を指示する話じゃない」
それはベルタの方が詳しい。
俺が口を出した結果、馬が坂から滑ったらどうする。
責任を取って一緒に滑っても、誰も喜ばない。
「利益が出たときの分け方と、途中でやめる場合の扱いは、別にきちんと話そう。今日、勢いで署名してくれとは言わない」
「損が出たら?」
「決めた範囲で真面目に試した結果の損まで、君個人の借金にするつもりはない。その代わり、追加の金が際限なく出るとも約束できない」
ベルタは腕を組み直した。
警戒は残っている。
それでいい。
「まず三か月。荷が集まるか、時間どおり回れるか、仕事として続けられるかを確かめたい」
俺は手元の紙を出した。
ベルタが受け取り、目を落とす。
そして止まった。
「……これ、今話したことじゃないか」
横からマルセルも覗き込んだ。
荷の受け付け。
集める場所。
出発日。
町での保管。
試行の期間。
必要な資金。
その下に、三年分の収支。
「今朝、いくつかの場合を考えて、枠だけ作っておいたんだ。空いていたところは、話を聞きながら埋めた」
ベルタが紙を持ち上げた。
村を一つずつ回る案には線が引かれている。
二つの村で集荷場所を共用する案は、余白に書き足した。
費用も、マルセルが説明した額に直してある。
「君のおかげで、最初の案よりずっとよくなった」
「……どこまで考えてから、あたしを呼んだんだい」
「分からないところを聞ける程度には」
「その『程度』が怖いんだよ」
マルセルが、静かにうなずいた。
準備を評価してもらえたらしい。
よし。
話は順調だ。
ベルタの指が、紙の下で止まった。
「ちょっと待ちな」
「何か抜けていた?」
「一年目」
そこには、こう書いてあった。
一年目 売上見込み:銀貨960枚
費用見込み:銀貨1,080枚
差引:−120枚
二年目 売上見込み:銀貨1,440枚
費用見込み:銀貨1,440枚
差引:0枚
三年目 売上見込み:銀貨1,920枚
費用見込み:銀貨1,680枚
差引:+240枚
「赤字じゃないか」
「そう見ている」
「こんなの見せて、やる気がなくなると思わないのかい?」
もっともな質問だった。
前世で、一緒に謝りに行った部下の顔を思い出す。
契約前には、便利になるところばかり説明していた。
費用のかかる条件と、できないことは、相手が使い始めてから問題になった。
『それを知っていたら、最初から頼まなかった』
言われた言葉は、よく覚えている。
部下は黙り込んだ。
俺も頭を下げた。
説明したかを確かめず、契約が取れたことを先に褒めた。
あれは俺の管理の失敗でもあった。
「始めてから知ったら、どう思う?」
ベルタは紙を見たまま、少し黙った。
「……先に言え、と思うね」
「だから、先に言っている」
俺は費用の欄を指した。
「ここには君の働いた分も、手伝いの賃金も入っている。馬の餌代だけ払って、君がただ働きすれば黒字です、とは言いたくない」
「そりゃ、困る」
「車輪が壊れたときの金も必要だ。荷が増えれば手も要る」
三年目の利益は、空から降ってくる金ではない。
決めた日に荷が届く。
約束どおりに扱ってもらえる。
それを何度も見てもらって、ようやく次の荷を頼む人が増える。
「この売上も、荷主が増えればという仮の数字だ。君が運べると言った回数と、町で聞いた運賃の幅から置いた。客の約束は、まだ取れていない」
「集まらなきゃ、もっと悪くなる」
「なる。だから最初から一年分を使わない」
ベルタが、もう一度図に目を落とした。
「ただ、この仕事に意味があることは、同意してくれるだろう?」
しばらくして、彼女は一つの村を指した。
「……ここの婆さんは、布を売りに来るたびに一日潰してる。運ぶ相手が決まれば、その間も織れるね」
「ああ」
「帰りに油や針を頼めるなら、町に来る用事も減る。もっとも、注文を間違えたらあたしが怒鳴られるけど」
「受け付けるときに品と数を確かめよう」
「針はまだいいよ。『いつもの油』が困るんだ」
「それは困るな」
いつもの。
使う本人以外には、まるで分からない魔法の言葉だ。
「最初に荷を出しそうな連中へ、あたしから聞いてみる。料金を聞いてやめる奴もいるだろうしね」
ベルタが言った。
「それで、最低限の荷が集まりそうなら試す。その順でいいかい」
「ぜひ、そうしてほしい」
今度の「ぜひ」には、ベルタも顔をしかめなかった。
◇
「今回、確保できるのは銀貨六十枚までです」
マルセルが、手元の別紙を示した。
「兵糧、給与、すでにお約束した支払いを除いております。次の分まで出せるとは申し上げられません」
「分かった。その範囲に収めよう」
部屋の扉の修繕。
荷を分ける札と、記録に使う物。
運賃を受け取るまでの餌代と賃金。
最初のうちは不足する分。
一つずつ、使い道を確かめた。
年間の計画は、この試行を見てから直す。
続ける資金が用意できない場合もある。そのときは、新しい荷を受ける前に止められるようにする。
ベルタにも、そこまで伝えた。
マルセルが数字を書き終え、細く息を吐いた。
「……また金が出ていく」
羽根ペンを持ったまま、魂まで抜けそうな顔をしている。
「将来のための、意味のある事業だ」
俺が言うと、彼は顔を上げた。
「領主様。今を越すための金も必要です」
「そのとおりだ」
そこを言ってくれる人は、大事にしなければならない。
「だから、君が残すと言った金には手をつけない。この六十枚で確かめる。荷が集まらなければ、やり方を変えるか、やめる」
俺は道の図を指した。
「売りたい物があるのに運べない。買いたい物があるのに取りに行けない。それが少しでも減れば、村の仕事が増える。俺たちが麦を買うときも、頼める運び手が増える」
金を出せば必ず成功する、とは言えない。
だが、何も試さずに待っていても、道が勝手に荷物を運んでくれるわけではない。
「うまくいけば、税も入る。とはいえ、まず稼いでもらわないとな」
「その税が入る頃にも、私の髪が残っているとよいのですが」
マルセルが額に触れた。
ベルタが目を逸らした。
俺も、そこは数字で答えないことにした。
「報告は三か月ごとに来てほしい」
ベルタに向き直る。
「毎日の細かい売上を、長い文章にする必要はない。まず運んだ件数。受け取った金と、払った金。まだ受け取れていない分。それと、困ったこと」
「どこの誰が何を言ったかまで?」
「同じ理由で何件も断ったなら知りたい。次の仕事になるかもしれないから」
「なるほどね」
「ただし、金が尽きそうなときと、事故があったときは三か月待たないでくれ」
「怒られに来いって?」
「手を打てるうちに来てくれ、だ」
ベルタが、俺の顔を見た。
「足りなくなった後では、できることが減る。うまくいかなかった話ほど、早い方が助かる」
「……分かった」
彼女は紙を丁寧に畳んだ。
「まだ引き受けるって返事じゃないよ」
「ああ。荷主の話を聞いてからでいい」
「一つだけ聞いていいかい」
「何だ?」
「領主様って、いつもそんなに楽しそうに金を使うのかい」
横でマルセルが、深くうなずいた。
二人とも、俺への理解が少しずれている気がする。
◇
ベルタが帰った後、マルセルは書類をまとめ始めた。
倉庫の修繕。
貸し出す部屋の範囲。
出資の条件案。
支出予定の組み直し。
さらに、川の町から持ってきた帳簿。
その脇へ、執務机に積まれていた一束を寄せようとする。
「待ってくれ」
「はい」
「それも君が見るつもりか?」
「支払いに関係するものですので」
当然のように言う。
よく頑張ってくれている。
ここまで、彼がいなければ回らなかった。
だからこそ、このままではまずい。
「まず、今週中に判断が要るものを分けてくれ。それ以外は、全部いっぺんに抱えなくていい」
「ですが」
「書き写しや、同じ書類をまとめる作業まで君がやる必要はない。任せられる者を探そう。最初は横について教える時間も取る」
それで今日から楽になるわけではない。
人を育てるには、教える側の時間が要る。
それでも、やらなければ来月も同じだ。
「……信用できて、字が読めて、数字を扱える者ですか」
「最初から君と同じだけできなくていい」
「そういう者がいれば、私も助かります」
マルセルが言った。
その声が、今日いちばん切実だった。
館に戻れば人手がある、ということもない。
倉庫に置けば物が増える、ということもない。
帳簿を見つめれば金が湧く、ということもない。
ヒト、モノ、カネ。
てか、全部足りねえ。
窓の外へ目を向ける。
まだ行っていない村がある。
まだ話していない人がいる。
ベルタだって、道で荷車が止まっていなければ、顔も知らないままだった。
「次に回るときは、人の話ももっと聞こう」
「人の話、ですか」
「誰が何を得意にしているか。今、何に困っているか。手が空いている者はいないか」
仕事のない大工は、橋を直していた。
道で会った運び屋は、俺の地図にない道を知っていた。
机の上で不足を数えるだけでは、見つからない。
「その間の書類は、どういたしましょう」
マルセルが聞いた。
俺は机を見た。
右の山。
左の山。
中央の山。
「……出かける前に、減らそう」
「はい」
彼は、今日初めて心から笑った。
領地を巡るには、まず、この山を越えなければならないらしい。
カクヨムでも連載中です。
領内地図・人物紹介などの補足も掲載しています。




