第12話 直せるとは言っていません
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「直すのか、造り直すのか。それを見てくる」
出発前、俺はマルセルにそう伝えた。
彼は書類から顔を上げ、少し考えてから言った。
「決めてくる、ではなく?」
「見てくる」
「その違いは、ぜひお守りください」
信用されていない。
いや、前回は道で会った運び屋に出資する話を持ち帰った。
その前は、見張り小屋を消した。
実績を振り返ると、彼の警戒には十分な根拠があった。
今回の行き先は、町の北東にある村だ。
館に届いていた相談の一つに、水車小屋の建て直しがあった。
麦を挽くのに時間がかかる。
待ちが長く、近隣の村からも不満が出ている。
古い水車を大きなものに替えてほしい。
書かれているのは、そういう話だった。
「留守中の通常の支払いは、昨日決めた範囲で進めてくれ。判断を待つものは、急ぐ順に並べてもらえればいい」
「承知しました」
「写しを取る仕事は?」
「館の者に、まず一枚試してもらっています。私が確かめてから、少しずつ任せようかと」
よかった。
マルセルの手を空ける方も、動き始めている。
「それと、領主様」
「何だ?」
「建て直す場合の費用は、まだ確保しておりません」
念押しされた。
「分かっている」
「念のためです」
「今日は大きな約束をしに行くわけじゃない」
「そのお言葉、記録しておいてもよろしいですか」
口約束では足りなくなっていた。
◇
村に着いたのは、昼より少し前だった。
道の脇には低い石垣が続き、その向こうに畑が広がっている。家々の間を通ると、干した布が風に膨らみ、どこかから煮炊きの匂いがした。
トマと護衛の兵を連れて馬を下りる。
ちょうど桶を運んでいた男に、声をかけた。
「水車小屋のことで来たんだが、誰に話を聞けばいいかな」
「ああ、やっと役人さんが来たのか。村長なら――」
「こちらはレオン・フェルデン様だ」
トマが告げた。
男の口が開いた。
桶が傾いた。
「水、水」
「りょ、領主様!?」
「まず桶をまっすぐに」
男は桶を足元へ置き、慌てて頭を下げた。
「領主様みずからお越しとは! すぐに村長を! おい! 領主様だ!」
声が家々へ飛んでいく。
戸が開いた。
窓から顔が出た。
なぜか箒を持って走り出す者までいた。
「掃除は今でなくていい。仕事を止めないでくれ」
俺が言うと、箒の男はぴたりと止まった。
それから、掃くべきか戻るべきか分からなくなったらしく、箒を抱えて立ち尽くした。
難しい。
仕事を止めるなと言うために、仕事を止めてしまった。
「だから言ったろ。今日は何かあるって」
「お前、毎朝言ってるじゃないか」
「あれが新しい領主様か。初めて見た」
「俺もだ。もっとこう……」
聞こえている。
もっと、何だ。
続きを待ったが、隣の女に肘で突かれた男は黙った。
「トマ」
「はい」
「もう少し気軽に話してもらうには、どうすればいいと思う?」
「まず村長のご挨拶を済ませていただければ」
見ると、家の間を小走りに来る年配の男がいた。
上着の前を留めながら、息を切らしている。
俺は彼が転ばずに辿り着くのを待った。
◇
水車小屋は、村の外れにあった。
水路の脇に建つ、古い木造の小屋だ。
外の水車は回っている。中からは、石が麦を挽く低い音が響いていた。
軒下には袋が並び、その横に腰を下ろした男が二人いる。
「お待ちですか?」
「朝からです」
一人が答えた後、村長の顔を見て背筋を伸ばした。
「いえ! その、いつもというわけでは!」
「今日は朝から待っているんだな?」
「……はい」
「それを聞ければいい」
立派な言い方に直してもらうために来たのではない。
小屋の主人は、粉のついた前掛けで手を拭きながら出てきた。
「遠いところを、申し訳ございません」
「こちらこそ仕事中にすまない。使っているところを見せてもらえるか」
「もちろんでございます。狭い所ですが」
中は外より暗く、粉っぽかった。
目が慣れるにつれて、動く木の部品と、その奥の石が見えてくる。
主人が仕組みを説明してくれた。
なるほど。
なるほど、とは思った。
直し方までは、まったく分からなかった。
俺は銀行員である。
工場へ行って設備の説明を受けたことはあるが、帰る頃には工作機械を組み立てられるようになっていた、という経験はない。
「古くなったので、以前ほど挽けないのです」
主人が言う。
「いつ頃から?」
「去年も待ちはございましたが、今年は特に」
「一日中、同じ調子?」
「いえ、朝はまだ……昼になると、どうにも」
俺は外の水路を見た。
「持ち込まれる麦の量は、去年より増えている?」
「日によります。隣村から来る日などは、こうして溜まります」
袋を指す。
「誰がいつ来るかは、先に分かるのかな」
「いえ。皆、手の空いたときに」
後ろから、待っていた男の声がした。
「一人で来るより、近所で荷車を借りてまとめた方が楽ですから」
それはそうだ。
一袋ずつ運べと言えば、今度は運ぶ手が足りなくなる。
ただ、まとめて来る日が重なれば、ここで待つ。
「大きく造り直せば、そのあたりも解消できるかと」
村長が言った。
そうかもしれない。
だが、別の理由が混ざっているかもしれない。
「建て直しを考える前に、今の水車がどのくらい――」
「大きくしたって、水が来なきゃ回らないだろ」
入口から、声がした。
◇
若い男が立っていた。
袖口をまくり、片手に木の道具を持っている。
髪には細かな木屑がつき、爪の周りは黒い。
村長の顔が変わった。
「ヨハン。お前は今、黙っていなさい」
「だから前から言ってるだろ。昼に遅くなるのは、古いせいだけじゃないって」
「お前な、こちらは――」
「領主様だろ。外で聞いた」
知っていて、この態度らしい。
トマが一歩、位置を変えた。
剣には触れない。ただ、俺の横へ立つ。
ヨハンはそれを見て、一瞬だけ口を閉じた。
「……申し訳ありません。でも、違うものは違うので」
村長が頭を抱えた。
「この者は、その、手先は器用なのですが」
「口の方はあまり器用ではなさそうだな」
俺が言うと、トマが横を向いた。
ヨハンは不服そうな顔をしたが、反論はしなかった。
「手に持っているのは?」
「ここの取っ手です。割れてたので、作り直して持ってきました」
「こういう修理をしているのか」
「頼まれたら。農具の柄とか、戸の留め具とか」
水車小屋の主人が、苦笑した。
「役には立つんですがね。何でも『そこが違う』から入るもので」
なるほど。
説明の入口で、毎回扉を蹴っているわけだ。
「ヨハン。さっきの、水が来ないという話を聞かせてくれ」
「来ないんじゃなくて、減るんです」
「すまない。減るんだな」
「はい」
言い直すと、彼は少し落ち着いた。
「外から見た方が早いです」
俺たちは小屋を出た。
ヨハンは、水路の脇に打たれた杭を示した。
側面に、浅い傷がいくつかついている。
「この傷は?」
「朝に見た水の高さです。昨日と、その前」
今の水面は、傷より低い。
「ずっと見ていたのか?」
「ここに来る用があるときだけです。朝はあそこまであったのに、帰りには下がってたので」
「雨の日も?」
「そこまでは。毎日いるわけじゃないんで」
言い切った後、ヨハンは村長を見た。
「でも、減ってるのは見れば分かるでしょう」
「見れば分かる、ではない。こっちにだって畑の用があるんだ」
村長の声が硬くなる。
俺は二人の間へ目を向けた。
「上で、畑に水を引いているのかな」
「はい。昔から順に使っております。畑を干上がらせるわけにはまいりません」
水車小屋の主人も口を挟んだ。
「それは私も承知しております。ただ、前はもう少し挽けたものですから」
誰かが水を盗んでいると決まったわけではない。
畑にも必要。
水車にも必要。
古くなった部分もあるかもしれない。
一つの相談に、いくつもの事情が入っている。
「ヨハン。君なら直せるか?」
彼は、すぐには答えなかった。
水路を見て、小屋を見て、それから俺を見た。
「直せるとは言ってません」
「うん」
「まだ、どこが悪いか全部見てないので」
村長が息を止めた。
俺は少し笑った。
いいな。
分からないうちに、できますと言わない。
少なくとも今、自分が見た範囲と、見ていない範囲は分けている。
「それなら、まず調べてもらえるか」
ヨハンの眉が上がった。
その後ろで、村長がトマに小声で尋ねた。
「……お怒りでは?」
「今のところは」
今のところは、とは何だ。
◇
「いつ、水がどのくらいあるのか。水車の動きはどうか。そのとき麦はどれだけ挽けたか」
俺は手元に書きながら、一つずつ確かめた。
「荷を持ってきた人にも、着いた頃合いを聞いておきたい。午前なのか、昼過ぎなのか、そのくらいでもいい」
小屋の主人がうなずく。
「挽いた袋の数なら、私が分かります」
「袋の大きさが違うことは?」
「ございます。同じ一袋でも量は違いますから」
「では、普段量っているやり方で残してもらえると助かる」
危ない。
袋の数だけ見て、明日は二倍働きました、などと言い出すところだった。
ヨハンが紙を覗いた。
「音も、書いていいですか」
「音?」
「ここ、時々変な音がするんです。ただ、水が減るのとは別かもしれない」
そこから先は、経験のある職人に見てもらう必要がある。
「それも残そう。勝手に外して確かめるのは待ってくれ。動いている間は近づかないこと」
「分かってます」
「君が分かっていても、手伝う人が知らないかもしれない。先に決めておこう」
ヨハンは少し考え、それからうなずいた。
村長には、水を使う順番と、最近変えたことがないかを確かめてもらう。
ヨハン一人で聞いて回れば、質問より先に喧嘩が始まりそうだった。
「私も一緒に行きます」
「助かる。水を取り上げる話ではないと、最初に伝えてほしい」
調べる期間は、まず二日。
その間に分からなかったことも、そのまま報告してもらう。
日当と必要な物の費用を相談し、出発前にマルセルと決めた調査費の範囲で収めた。
ヨハンが、妙な顔をした。
「調べるだけで、金をもらっていいんですか?」
「仕事を頼んでいるからな」
「直るかは、まだ分からないんですよ」
「調べずに造り直す方が、ずっと高くつく」
彼は黙った。
手の中の取っ手を見下ろして、指で木屑を払った。
「……分かりました」
さっきまでより、小さな声だった。
俺は続けた。
「それと、一つ頼みがある」
「何です?」
「説明するときは、『そこが違う』より先に、どこを見たか教えてくれ」
ヨハンは村長を見た。
村長はヨハンを見た。
「……杭のところを見てください、から?」
「そう。それなら、同じ物を見ながら話せる」
彼は少し口を尖らせた。
「見てもらえなかったら?」
「そのときは、どうすれば見てもらえるか考えよう。俺にも相談していい」
正しいことを言えば、必ず伝わる。
そうなら営業の仕事は、もう少し簡単だったはずだ。
ヨハンは取っ手を主人へ渡し、水路の方へ戻っていった。
村長も、ため息をつきながらついていく。
「ここです。こっちから見た方が、傷が分かります」
聞こえてきた声に、俺は少しだけ頬を緩めた。
◇
帰る前に、水車小屋の主人が声をかけてきた。
「領主様。待つ者が重なる件ですが」
「ああ」
「村ごとに、持ってくる日を相談するのはいかがでしょう」
俺は、軒下の袋を見た。
「来られる日が限られる人もいるだろうから、まず困らない範囲で相談してみてはどうかな」
「はい。少なくとも、隣村の二組には話せます」
待っていた男も頷いた。
「どうせ待つなら、来る前に分かった方がいいです。家でやることはありますから」
水車が速く回るようになったわけではない。
それでも、待ち方は変えられるかもしれない。
ベルタの顔が浮かんだ。
決まった日に荷を運ぶなら、届けた先で何時間も止まるのは困る。
村から集める日と、水車小屋が受け入れる日。
運ぶ仕事だけを見ていても、決められないことがある。
今度ベルタと話すときに、聞いてみよう。
馬を繋いだ場所へ戻る途中、村長が頭を下げた。
「ヨハンのこと、申し訳ございませんでした」
「よく見ている青年だな」
「はい。昔から、壊れた道具を拾ってきては触っておりまして。ただ、人と話すとああで……」
「任せた仕事で、どう動くか見せてもらおうと思う」
器用だから、すぐに何でも任せられるわけではない。
今日のやり取りだけで、人柄のすべてが分かるわけでもない。
頼んだことをやるか。
困ったときに言えるか。
一緒に動く人の話も聞けるか。
これから、確かめていけばいい。
「それと、字や計算が得意な人がいれば教えてほしい。館で手伝ってもらえる人も探している」
「承知しました。心当たりを聞いてみます」
俺が馬へ手をかけると、最初に会った桶の男が近づいてきた。
「あの、領主様」
「何だろう」
「水車は、今日は建たないので?」
「……今日は?」
男は真面目な顔をしていた。
「橋のところでは、手をかざしたら小屋が建ったと聞きまして」
そこまで伝わっているのか。
「建ったが、今日は建てない」
「さようでございましたか。いや、見たことがないもので」
そりゃ、見たことはないよな。
俺もあの日までなかった。
そして、あんな消え方をするとは思っていなかった。
「今ある物を、どう使えるか確かめてからだ」
「なるほど。さすが領主様、先々までお考えで」
男は感心したように頭を下げた。
横でトマが、俺の顔を見た。
何も言わないでくれ。
今回は本当に、そういう意味でもあるんだから。
◇
村を離れたところで、トマが口を開いた。
「調べる者が見つかりましたね」
「ああ。職人にも相談しないとな。ハンスが、どこまで見られるか聞いてみよう」
「今度は水車ですか」
「本人の手が空くか、仕事の範囲かも含めてだ。何でも頼めばいいわけじゃない」
自分に言い聞かせるように付け加えた。
ハンスにも、すでに仕事がある。
器用な人を見つけたからといって、その人に全部集めれば、館のマルセルが増えるだけだ。
「それで、帳簿を任せる方は」
トマが聞いた。
「村長に探してもらうことになった」
「では、今日は?」
「水車を調べる若者が見つかった」
「仕事が増えましたね」
そうとも言う。
いや、正確には、見えていなかった仕事が見えただけだ。
そう説明しようとして、マルセルの顔が浮かんだ。
彼はきっと、こう言う。
見えた仕事にも、お金はかかります。
「……マルセルには、順番に説明しよう」
「調査費を使われた件からですか?」
「水車の建て直しを即決しなかった件からだ」
トマがうなずいた。
「話す順番は、大事なのですね」
「とても大事だ」
俺は胸を張った。
そこは、専門分野だった。
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