第13話 水車より先に、口を止めろ
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ヨハンは、机の上に川を作った。
正確には、川に見立てた紐だ。
そこへ短い木片を置き、片方を指で押さえ、もう片方を動かした。
「こっちが朝です」
「うん」
「これを開けると、こっちが下がります。ただ、昨日は一昨日と違って、ここを先に開けたので」
「待ってくれ。今、何日目のどこにいる?」
「最初から説明しましょうか」
「戻らなくていい」
隣に座る村長が、膝の上で両手を握った。
俺は先に、報告を持ってきた二人へ水を勧めた。
二日間の調査は終わった。
その結果を聞いているのだが、ヨハンの頭の中では分かれているものが、口から出ると全部つながる。
勢いよく流れている。
水車へ欲しいのは、この勢いではない。
「まず、分かったことを一つ聞こう」
「畑へ水を引いている間、水車の方が遅くなります」
「二日とも?」
「はい。ただ、畑の水を止めれば全部よくなる、とは言えません」
ヨハンが紐の横に、別の木片を置いた。
「その前から、同じところで音がしてます。こっちは別です」
彼が持ってきた板には、水の高さを写した線があった。
横には、短い文字と印。
挽いた麦の量は、小屋の主人が普段使う升で揃えて書いてある。
「この丸は?」
「見ていないところです。上へ行っていたので」
「こっちは?」
「戻ってから聞いた話です。自分で見たのとは分けました」
俺は板を見直した。
報告は長い。
しかし、穴を埋めるために話を作ってはいない。
「分かりやすい記録だ。助かる」
「……説明は?」
「これから一緒に整理しよう」
村長が、静かに水を飲んだ。
◇
水路の上流では、畑へ水を分ける板が傷んでいた。
ヨハンの図だけでは分からなかったが、村長の説明が加わって、ようやく様子が見えてきた。
畑へ送るはずの水が、板の隙間から使っていない方の溝へ逃げる。
だから畑へ十分な水を入れるまで、前より時間がかかる。
その間、水車へ回る水は少ないままだ。
「板を替えようという話は、出ていたのか?」
「応急に塞いでおりました。水は来るものですから、手の空いたときにと……」
村長が言った。
畑には、時間をかければ水が届く。
水車も、遅くはなったが動く。
それぞれが、自分の持ち場で何とかしていた。
その結果、みんなが少しずつ余分な時間を使っていたわけだ。
「俺、前から――」
ヨハンが口を開き、途中で止まった。
村長を見て、板を見て、言い直す。
「……あの隙間を直せば、畑へ引く時間は短くできると思います」
「できる、と分かったわけではない?」
「直して比べないと。溝の途中も見ましたが、全部掘り返したわけじゃないので」
俺はうなずいた。
まずは、確かに傷んでいるところを直す。
水車を丸ごと造り替える判断は、その後でいい。
ハンスにはすでに使いを出していた。
今の仕事を終えてからなら、数日後に見に来られるという返事が届いている。
見てもらう場所と、頼みたい内容を改めて伝えることにした。
「水を使う時間の方は?」
「畑の者と、小屋の主人で話しました。急ぎの畑がある日は、前の晩までに知らせることに」
「麦を持ち込む人にも伝わるかな」
「そこは、私どもで」
村長が答えた。
ヨハンの記録を指す、その手はもう落ち着いていた。
頼んだ調査を終えたから、その分の日当も支払う。
修繕を手伝う仕事は、改めて本人の都合を聞いて頼んだ。
受け取った金を見て、ヨハンはしばらく黙っていた。
「額は合っているか?」
「はい」
「なら、しまっていい」
「……はい」
今度の返事は、少し大きかった。
◇
ベルタが館へ来たのは、その翌日だった。
「話を聞いてきたよ」
そう言って、紙を机に置く。
「頼みたいって奴はいる。ただ、毎回荷があるとは限らないね。聞かれたから景気よく返事をしただけの奴もいる」
「料金を伝えた後は?」
「減った」
「そうか」
「嬉しくなさそうだね」
「始める前に分かってよかったと思っている」
ベルタが笑った。
荷を出す場所。
運んでほしい先。
頻度。
料金を払っても頼むかどうか。
そこまで聞いてきてくれていた。
町へ売る布などに加え、水車小屋まで麦を運んでほしいという話もあった。
ただし、挽き終わるまで荷車を待たせるなら、ほかの荷と一緒には運べない。
「水車小屋の方で、持ち込み日を相談している」
「それなら、まず主人と話したいね。預けて次の便で受け取るやり方ができるか。袋を置く場所も要る」
俺が答えを用意する前に、ベルタは次に確かめる相手を決めた。
「やってみる気はある、ということでいいかな」
「三か月だろ。最初に回る場所を絞って、決めた額まで。そこは変わらないね?」
「ああ」
費用に本人の働いた分を含めること。
利益が残った場合の分け方。
損が出たときと、やめるときの扱い。
前回持ち帰ってもらった条件を、一つずつ確かめた。
運賃を受け取っていない荷も、記録から消さない。
予定にない支出が必要なら、その前に相談する。
ベルタは気になる箇所に指を置き、納得できるまで質問した。
それを終えて、ようやく署名する。
マルセルが立ち会い、支出の記録をつけた。
「では、頼む」
「荷を運ぶ方はね。領主様の期待まで積めるかは知らないよ」
「それは荷台に載せなくていい」
「重そうだから助かる」
彼女は紙を受け取り、席を立った。
戸口で振り返る。
「それと、運ぶ物を増やしたくなったら、先に言っとくれ」
「分かった」
「領主様にも言ってるんだからね」
俺はまだ、何も頼んでいない。
◇
数日後、俺は再び水車のある村を訪れた。
ハンスは約束した日に来て、取水口を調べていた。
水車小屋の主人も、以前に修理を頼んだことのある職人へ連絡を取り、別に中を点検してもらうことになったという。
「こっちの板と枠なら、直せます」
ハンスが言った。
「水車の中まで、全部分かるとは申しませんよ」
「そこは、分かる人に見てもらう。君の方で必要な物を教えてくれ」
材料と仕事の量を聞き、費用を確かめた。
共同で使う水路の修繕として領主家が出す分と、村で負担できる材料や人手を相談する。
誰の一日を使うかまで決めてから、仕事が始まった。
取水口では、水を止める手順を村の者と確認したハンスが、傷んだ板を外していた。
ヨハンは、その横から覗き込んでいる。
「それ、同じ幅で作るんじゃないんですか」
「古い方が歪んでる。こいつだけ測って作れば、また隙間ができる」
「ああ。じゃあ、枠のこっちを――」
「そこを押さえろ」
「はい。それで、反対側も」
「押さえたまま喋れるか?」
「できます」
「なら、動かすな」
ヨハンの口が閉じた。
しばらくして、また開いた。
「水車の方も、こういうずれが」
「ヨハン」
「はい」
「水車より先に、お前の口を止めろ。今、印をつけてる」
ぴたりと止まった。
俺はトマと少し離れた場所で、その様子を見ていた。
「相性は、悪くなさそうですね」
「そうだな」
ハンスは質問を嫌がっているわけではない。
手を止めてよいところでは、短く説明している。
ヨハンも、言われた持ち方を直す。
一度うまく押さえられると、次は指示される前に位置を変えた。
話を聞く限り、手伝いとしては悪くないらしい。
ただし、今のところ静かな時間は短かった。
◇
修繕後、改めて水を通した。
畑の担当者が先へ歩いていき、ハンスは取水口に残る。
ヨハンは下流の様子を見る。
俺は、邪魔にならない場所にいた。
大切な役割である。
領主が転んで水路を塞いだら、今までの苦労は何だったのかという話になる。
やがて、畑の方から男が戻ってきた。
「こっちは、前よりちゃんと来てる」
「溝へ逃げていた分は?」
「ほとんどなくなった。先まで見たよ」
畑へ水を入れ終えれば、切り替えられる。
ヨハンは前の記録と見比べながら、印を足した。
今日だけで何日先も大丈夫と決めることはできないが、まず直した箇所は働いている。
水車小屋の異音は、別の職人が緩みの出ていた箇所を見つけ、締め直していた。大きな部品の交換は、今すぐには要らないという。
主人はその手元を見て、今後確かめる場所を教わった。
新しい水車は、建たなかった。
それでも、次に様子を見に来た日には、小屋の前の景色が少し変わっていた。
◇
「それは今日の荷じゃないよ」
ベルタが、樽の前で腕を組んでいた。
水車小屋を経由する最初の試行便だ。
麦を預け、約束していた別の荷を受け取って、町へ向かう予定になっている。
そこへ、村の男が樽を転がしてきたらしい。
「ついでだろ」
「ついでは、荷台の広さを増やさない」
「小さい樽だぞ」
「誰と比べて小さいんだい!」
男が黙った。
ベルタは樽を指した。
「中は?」
「油」
「今日は液物は受けないと伝えたよ。漏れたら、隣の荷まで駄目になる」
「じゃあ、いつなら」
「運び方と値段を決めてからだ。今日は置いていきな」
男は俺を見た。
「領主様。せっかく来ているので、何とかなりませんか」
ベルタも俺を見た。
ここで俺が「一つくらい」と言えば、最初に決めた条件は終わる。
「彼女が運べると言った荷を、約束した相手へ届けてもらうのが先だ」
「ですが」
「今日、君の樽を積むために、誰の荷を下ろそうか」
男は荷台を見た。
布を包んだ荷。
口を縛った袋。
それぞれに、待っている人がいる。
「……次は、先に言う」
「そうしておくれ」
ベルタが答えた。
男が樽を転がして戻ると、彼女は俺へ顎を引いた。
「助かったよ」
「決めたとおりにしただけだ」
「その『だけ』を、偉い人が途中で変えるから困るんだよ」
前世の会議室が、一瞬だけ頭に浮かんだ。
耳の痛い話だった。
小屋の前では、主人が預かった麦の量と袋の印を確かめている。
誰の物か、いつ受け取るか。曖昧なまま置いていかないよう、ベルタの手伝いも横で聞いていた。
少し離れたところに、前に朝から待っていた男がいた。
今日は、挽き終えた粉を荷車へ載せている。
「もう帰れるのか?」
「はい。今日は先に来る日を話してありましたから」
水車が使える時間に、持ち込みが重なりすぎないようにする。
その相談が、今日はうまくいったらしい。
「畑の仕事に戻れます。前は、家に着いたら飯を食って寝るだけでしたが」
男はそう言って、荷を縛った。
ヨハンがその横に立っていた。
「どうだった?」
俺が聞くと、彼は小屋の方を見た。
「挽けた量は増えてます。でも、水だけ直したからなのか、中を直した分なのか、まだ分けられません」
「そうか。そこは、分からないまま書いておこう」
男が、ヨハンの肩を軽く叩いた。
「どっちでも、今日は早く帰れたよ。ありがとな」
ヨハンの口が開いた。
何か細かな説明をしかけたのだろう。
けれど、出てきたのは短い返事だった。
「……はい」
男が荷車を引き始める。
ヨハンは、その背中をしばらく見送っていた。
◇
夕方、館へ戻ってマルセルに結果を伝えた。
「建て直しよりは、随分少ない出費で済みましたね」
「ああ。待ち時間も減らせそうだ」
「それは何よりです」
彼は修繕の支払いと、調査の記録を並べた。
「ただし、建て直しを見送った分の金が、手元に増えたわけではございません」
「分かっている」
「次の出資に回せるという意味でもございません」
「……まだ何も言っていないが」
「お顔に」
顔で予算申請をしていたらしい。
俺は咳払いをして、村長から預かった別の話を伝えた。
「館で手伝えそうな人にも、心当たりがあるそうだ。共同倉庫の受け渡しや、当番の記録をつけている人らしい」
「お会いになりますか?」
「ああ。今の仕事をどうするかも含めて、話を聞きたい」
何でも一人で取り仕切れる人物、という話ではなかった。
むしろ村長からは、新しいことを決めるのは苦手な方だと聞いている。
それでも、受けた用件がどこへ行ったか分かる。
返事のないものを、そのまま忘れない。
今、館でそういう仕事をしてもらえたら、どれだけ助かるだろう。
「私も同席してよろしいでしょうか」
「もちろん。実際に一緒に働くことになるからな」
マルセルが、面会の日程を書き留めた。
◇
その後、俺は橋の守りを確かめるため、川の町へ向かった。
途中で一泊し、翌日に着く。
見張り小屋は、ちゃんとあった。
屋根も壁も、兵士もいる。
その当たり前の景色に、俺は少し安心した。
デニスから、見張りの交代と、対岸の様子を聞く。
大きな動きはない。ただし、警戒は続けているという。
「負傷した二人は?」
「軽い仕事から戻しております。訓練はまだ別に」
「分かった。無理はさせないでくれ」
彼が次の報告を開いたときだった。
少し離れた訓練場の方から、声が響いた。
「腰が引けてんぞ! クソほど重い盾を、飾りにする気かァ!」
俺は顔を上げた。
川の音。
木の打ち合う音。
それから、兵たちの大きな返事。
あぁ……妻は今日も元気そうだ……。
「隊列は、以前より崩れにくくなっております」
デニスが言った。
「そうか。それは何よりだ」
「後ろの者が、前の者に合わせて動けるようになりました」
「うん」
説明はよく分かる。
声の内容については、誰も説明しなかった。
しばらくして、訓練場からクラウディアが戻ってきた。
兜を脱いだ頬に汗が浮いている。
俺を見つけると足を止め、それから背筋を伸ばした。
「お帰りなさいませ、レオン様。お着きでしたのね」
「ああ。訓練を見てくれていたのか」
「皆様、とても熱心ですので。わたくしも、少し力が入ってしまいました」
少し。
この言葉には、相手によって大きな幅がある。
小さい樽と同じだ。
「君の声が聞こえたよ」
クラウディアの笑顔が止まった。
「……どのあたりからでしょう」
「盾が飾りになるあたり」
「まあ」
彼女は一度だけ、デニスを見た。
デニスは報告書を見ていた。
実に熱心だった。
「実戦で困らないよう、印象に残る言い方をと思いまして」
「よく届いていた」
「それは……何よりですわ」
俺は頷いた。
「留守を守ってくれて、ありがとう」
「いえ。わたくしの役目ですもの」
そう言って目を伏せた彼女の耳が、少し赤かった。
暑かったのかもしれない。
何しろ、あれだけ元気に声を出していたのだから。
クラウディアが訓練場へ振り返る。
まだ、俺の隣にいる。
「皆様。水を飲んで、お休みになってくださいませ」
遠くで兵たちが顔を上げた。
誰も動かなかった。
ひと呼吸の後。
「休憩だっつってんだろ!」
今度は、全員が動いた。
俺はデニスの報告書へ目を戻した。
指揮は、よく行き届いているらしい。
カクヨムでも連載中です。
領内地図・人物紹介などの補足も掲載しています。




