第14話 ありがたいゼロ回答
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妻が水を飲むだけで、兵士の背筋が伸びた。
正確には、水を飲み終えたクラウディアが顔を上げた瞬間だ。
休憩中の男たちが、ほぼ同時に姿勢を正した。
一人は、まだ口に水を含んでいた。
飲み込む音まで聞こえそうだった。
「……休憩中なんだろう?」
「はい」
デニスが答える。
「随分、緊張しているな」
「奥様が、次のお相手をお探しかと思ったのでしょう」
お相手。
妻の口から出れば、茶会に招く友人の話にも聞こえる。
ここでは、盾を持たされる人間のことらしい。
クラウディアは兵たちへ微笑んだ。
「どうぞ、そのままで。まだ休んでいて構いませんわ」
兵たちは座った。
ゆっくりと。
誰かが先に動くのを確かめながら。
俺が貸し出し条件を説明しているときの客でも、ここまで慎重にはならない。
「何をしたんだ?」
「隊列が崩れたときの対処を、少し」
クラウディアは上品に答えた。
少し離れたところで、兵士が囁く。
「三人で押して、動かなかった」
「俺は足が浮いたぞ」
「笑ってたよな」
「笑ってた」
聞こえている。
何となく事情は分かった。
「怪我は?」
「させておりませんわ。盾の持ち方は、よく覚えていただけたかと」
クラウディアが振り向いた。
兵士たちの会話が消えた。
「何か、分からないところがございました?」
「ありません!」
揃った返事だった。
俺はデニスを見る。
彼は頷いた。
「戦では、あの方が前に立ってくださると分かっておりますので」
その声に、先ほどまでとは違うものが混じった。
恐ろしい。
しかし、頼りになる。
兵たちが妻を見る目には、両方あるらしい。
「盾が傷んだ者は、先に持ってこい。隠しておくな」
デニスが声をかけると、兵の一人がすぐに立った。
クラウディアも、その盾へ目を向けた。
「縁が緩んでいますわね。今日は別の物を使いなさい」
「はい!」
男は、盾を抱えて走っていった。
殴られて怖いだけなら、傷んだ盾を差し出すのはためらうだろう。
言えば対処してもらえる。その信用も、できつつあるのだと思いたい。
◇
その後は、橋の守りに必要な物を確かめた。
替えの矢。
盾や革紐の修理。
見張りへ届ける食料。
雨の日に濡らさず置いておく場所。
クラウディアの話は、戦いに関することになると具体的だった。
ここへ敵が来たら、誰をどこへ置く。
負傷者が出たときは、どちらへ下げる。
追うとしても、どこで止める。
俺は図と実際の地形を見比べながら聞いた。
「ほかに、欲しい物は?」
「もう少し、敵が前へ出てきてくだされば」
「物資の話をしている」
クラウディアが瞬きをした。
「失礼いたしました。では、修理用の革を」
「急にまともな要望へ戻ったな」
デニスが、必要な量を付け加えた。
俺は書き留める。
そこで妻が、少し考える顔になった。
「レオン様。人をお探しになるのでしたら、軍事の副官もお願いできますか」
「副官?」
「ええ。兵の交代や物の手配、離れた場所への命令を取りまとめてくださる方です」
デニスへ目を向ける。
「今は、彼が?」
「はい。橋の持ち場を率いながら、随分と助けていただいております。ただ、わたくしが兵を動かすと、こちらに戻って確かめることが増えまして」
デニスの手元には、今日の交代を書いた紙と、修理の必要な装備の書き付けがあった。
槍を握っている方が似合う手だ。
その指に、薄く墨がついている。
館ではマルセル。
橋ではデニス。
動ける人へ、さらに仕事が集まっている。
「君と同じくらい強い人、という話ではないんだな」
「わたくしが前へ出ている間、後ろを見ていただきたいのです」
「なるほど」
「安心して前へ出られますので」
「そこは少し慎重に考えてくれ」
クラウディアが微笑んだ。
要望自体は、もっともだ。
強い一人がいても、兵も食料も勝手には動かない。
「探すときの条件に入れておく。ただ、すぐに見つかるとは約束できない」
「ありがとうございます」
彼女は素直に頭を下げた。
「その方が来られるまでは、今の人数で回せるようにしよう。デニス、書き付けを手伝える者はいるか?」
「数字を読める者が一人おります。まず装備の数からなら」
「それで頼む。持ち場まで一緒に抜けないよう、仕事の時間も決めてくれ」
デニスが頷いた。
妻の副官。
館で仕事を進める内政官。
欲しい人の一覧が、また長くなった。
◇
館へは、翌朝出発して二日かけて戻った。
それから約束の日に、村長の紹介した人物がやってきた。
名はオットー。
四十代半ばの、少し肩の丸い男だった。
椅子へ座ると、膝の上に両手を置いた。
俺とマルセルを交互に見て、深く頭を下げる。
「倉庫の受け渡しを記録していると聞いた」
「はい。ただ、領主様のお仕事が務まるかは……」
声は小さい。
返事も速くない。
だからといって、駄目なわけではない。
「まず、今していることを教えてほしい」
「誰から何を預かったか、いつ渡したかを書きます。共同作業の日は、誰が出たかも」
「取りに来ない人がいたら?」
「家へ聞きに行きます」
「覚えておくのか?」
「忘れますので、残します」
そう言って、持参した帳面を開いた。
文字は少し大きい。
書き直した箇所もある。
だが、日付を追えば、誰の荷が残っているか分かる。
渡した物には印があり、受け取った相手も書かれていた。
「この、名前が二つあるところは?」
「本人ではなく、ご家族が来られたので。渡してよいか、先に確かめました」
「なるほど」
マルセルにも帳面を見てもらう。
計算は、いくつか試してもらった。
オットーは紙に書き、指で数を追ってから答えた。
一つ間違えた。
確かめ直して、自分で直した。
「申し訳ございません」
「確かめてもらえてよかった。急いで答える仕事ばかりではないからな」
俺は、頼みたいことを説明した。
館へ来た用件を聞く。
誰へ渡すか記録する。
返事のないものを確かめる。
支払いを勝手に約束したり、村同士の争いを一人で裁いたりする仕事ではない。
「それでしたら、教えていただければ……」
「最初はマルセルについて覚えてほしい。分からないものは、その場で聞いていい」
オットーは頷き、少し迷ってから口を開いた。
「あの。帰りが遅くなる日は、先に分かりますでしょうか」
「家の都合がある?」
「妻の父を、家で見ております。毎晩遅くなりますと、少し」
そこは、先に聞けてよかった。
働く時間と、通う日。
賃金。
今の村の仕事を誰へ引き継ぐか。
条件を確かめ、まずひと月、手伝ってもらうことにした。
すべてを見抜く目も、見事な弁舌も必要ない。
今、足りていない仕事を、決めた範囲でしてくれる人が必要だった。
マルセルが説明した出勤日を、オットーは書き留めた。
そして読み上げた。
「こちらで、合っておりますか」
「はい」
マルセルの返事は、いつもより少し柔らかかった。
◇
数日後。
俺が執務室へ入ると、マルセルが一枚の紙を見ていた。
「何かあったか?」
「屋根の修理について、職人から問い合わせが来ております」
館の倉庫の話だった。
「何を確認したいと?」
「使う材を変更してよいかと。理由と、費用がどう変わるかも、こちらに」
紙を差し出される。
誰が来たか。
何を聞きたいか。
いつまでに返事が必要か。
書いたのはオットーだった。
余白に、少し小さな字がある。
『変更はまだ承知していないと伝えた』
「聞き直しに行かなくてよいのですね」
マルセルが呟いた。
大きな改革が起きたわけではない。
ただ、一度受けた話を聞き直すために、人を探さずに済む。
その分だけ、彼の仕事が前へ進む。
「助かるな」
「はい」
俺たちが頷き合ったところへ、オットーが顔を出した。
「領主様。お届け物が」
「誰から?」
「王都からの使者だそうです。お待ちいただいております」
俺はマルセルを見た。
彼も、顔を上げた。
◇
封を開ける前に、使者へ休息と食事を用意してもらった。
返書には、王の名と印があった。
父への弔意。
新たに領地を継いだ俺への言葉。
侵攻を退け、橋を守ったことへの評価。
整った文字が、丁寧に並んでいる。
その先を読む。
読む。
もう一度、読む。
「……マルセル」
「はい」
「人の派遣については、この一文で全部か?」
「恐れながら、そのように」
王都および各地の職務に必要な者を割くことは難しく、現時点で派遣には応じられない。
意味を縮めれば、そういうことだった。
最後には、今後も国境の安寧に尽くすことを期待する、とある。
期待。
労い。
高い評価。
人員、なし。
ありがたいゼロ回答だった。
「評価していただけたこと自体は、喜ばしいかと」
「そうだな」
本心でもある。
負けたと思われるよりいい。
何をしているか分からない領主だと思われるより、ずっといい。
ただ、労いの言葉は帳簿を書いてくれない。
高い評価が夜の見張りに立つこともない。
前世でも、似た文面には覚えがあった。
厳しい環境下での取り組みを高く評価する。
引き続き、現有体制で一層の成果を期待する。
現有体制。
便利な言葉だ。足りない人間を、一文字も増やさずに済む。
「派遣が難しいことは、以前から言われておりましたが」
「ああ。これで正式な返事、ということだな」
俺は書状を机に置いた。
王都にも事情はあるのだろう。
こちらへ送れば、その分、どこかの仕事が止まる。
そこまでは分かる。
しかし、分かっただけで領地の人手が増えるわけではない。
◇
書状には、国境の動きを引き続き報告するよう記されていた。
俺は、橋から持ち帰った記録を開いた。
最初の侵攻。
その後の偵察。
クラウディアが退けた襲撃。
同じ敵を見ていても、橋の上と王都では見え方が違うはずだ。
向こうは、今回を一度の小競り合いと考えているのか。
ほかの領地にも似た動きがあるのか。
さらに大きな軍が来たとき、どこへ援けを求めればいいのか。
「一度、王都へ行きたい」
「王都へ、ですか」
マルセルが椅子に座り直した。
「今回の襲撃を報告して、今後の守りについて話をしたい。書状で伝えた内容が、どう受け取られているかも確かめたいんだ」
「陛下への拝謁は、すぐにかなうとは限りませんが」
「担当する者に話ができるだけでもいい。先に面会を申し入れよう」
行って、門の前で帰されては困る。
相手に何を見せ、何を聞き、何を求めるかも整理しておく。
その上で、王都を直接見たかった。
どんな物が売られているか。
どこから荷が来るか。
人々が、何を仕事にしているか。
この領地の足りないものだけ見ていても、手に入れる方法までは分からない。
「それに、人も探したい」
「派遣を、直接お願いなさるので?」
「それも話はする。ただ、王の下で働く人に限らなくていい」
商会。
工房。
荷を扱う場所。
多くの人と物が動く場所には、それを取りまとめる仕事がある。
領地の内政を最初から全部知っている人でなくても、できることはあるはずだ。
「どのような方を?」
「頼んだ仕事を整理して、誰と何を決めれば進むか考えられる人だ。うまくいっていないときに、それを隠さず言える人がいい」
「計算や読み書きだけではなく?」
「ああ。計画を立てた後、一つずつ実行するところを任せたい」
俺は、ベルタの事業計画を脇へ寄せた。
始める判断はした。
だが、荷を集める場所の修繕も、村との相談も、その後の報告もある。
自分が決めたことを、全部自分で追いかける。
それでは、新しい仕事を始めるほど動けなくなる。
「オットーでは、難しいでしょうか」
「今の彼には、まだ頼まない。引き受けてもらった仕事を覚えているところだ。急に別の責任まで増やしたくない」
受け付けを頼んだ翌週に、領地の運営もよろしく。
そんな採用は、俺なら怒る。
「王都に、当てがおありなのですか」
「ない」
「……では、どうやって」
「まず、働いているところを見たい」
マルセルが、しばらく俺を見た。
「旅先でも、お仕事なのですね」
「そういう旅だからな」
観光のつもりで行くには、財布が薄すぎる。
それでも、まだ会ったことのない人に会えると思うと、少し楽しみだった。
◇
出発を決める前に、留守の間の仕事を並べた。
承認済みの支払いと会計はマルセル。
受け付けと記録はオットー。
館の者にも、写しや書類の整理を引き続き頼む。
新しい大きな約束は、俺への連絡が必要だ。
一方で、壊れた戸の修理や、決めてある範囲の日常の支払いまで、返事を待たせるつもりはない。
火災や急な被害への対応も、動ける範囲を先に決めた。
急ぎの使いを出す費用。
途中で泊まる場所。
王都で連絡を受け取る先。
帰るのが遅れる場合は、こちらから知らせる。
紙にして確かめると、口で「留守を頼む」と言うより、ずっと多くのことが出てきた。
「領主様へのお手紙は、全部すぐに送るのでしょうか」
同席したオットーが聞いた。
「いや。急ぎかどうか、まずマルセルに見てもらってくれ」
「では、届いた日と、見ていただいた日を残します」
「頼む」
そのくらいでいい。
最初から、彼一人に急ぎの判断まで求めなくていい。
橋へは、旅の目的と留守中の方針を先に知らせた。
軍事の判断はクラウディアに委ね、デニスと守りを固めてもらう。
館と橋の間の連絡も、途切れないようにする。
使いが戻ったのは、数日後だった。
クラウディアの返事は、簡潔だった。
防備は引き受けること。
兵の交代と備蓄を確かめたこと。
異変があれば知らせること。
最後に、丁寧な文字で付け加えられていた。
『よい方がいらっしゃいましたら、軍事の副官の件も、どうぞお忘れなく』
忘れていない。
忘れようがない。
内政官と副官。
人材募集の紙を、胸から提げて歩いた方が早いだろうか。
◇
「旅費ですが」
マルセルが、別の紙を出した。
護衛はトマを含めて少人数。
荷も必要なものに絞るが、面会に使う服まで省くわけにはいかない。
道中の食事と宿。
馬の餌。
滞在が延びたときの分。
項目を確かめていると、下の方に余白があった。
「ここは?」
「帰りの人数が、まだ決まっておりません」
「同じ……いや、増やしたいな」
「お一人でしょうか」
「内政を任せられる人が一人。できれば、軍事の副官も」
「では、お二人」
「見つかるとは限らないが」
「見つかった場合に、食事をお出ししないわけにはまいりませんので」
そのとおりだった。
マルセルが書き足す。
オットーも、自分の控えに同じことを書く。
まだ顔も知らない。
名前も知らない。
来てくれるかどうかも分からない。
それなのに、未来の部下の飯代が、もう予算に載っていた。
机の端には、王からの立派な返書がある。
人は来ない。
ならば、こちらから探しに行こう。
「マルセル。できれば、この予備費は使って帰りたいな」
「今回ばかりは、私もそう願っております」
珍しく、出費の希望が一致した。
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