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第8話 妻が帰ってまいりました

「先代様に、命をつないでいただきました」


 村の長は、そう言って頭を下げた。


 俺は、目の前の畑を見た。

 麦は生えている。ただ、場所によって高さが違う。低い所には、水がたまった跡が残っていた。


 エーベルトとの面会の翌日。

 俺とトマは、救済の麦を受け取った村の一つに来ていた。


 残る二つには、マルセルが役所の者を向かわせている。

 俺が全部回ってから答えを出していては、その間にも腹が減る。


「受け取った麦は、家ごとに分けた?」

「はい。こちらに控えが。字を書けぬ者の分は、私ともう一人で確かめました」


 家の名と、渡した量。

 細かな字で、紙の端まで埋まっていた。


 帳簿から消えていた麦は、ここでは記録に残っていた。


「返せと言いに来られたのでしょうか」


 長の隣にいた男が、帽子を握った。


「いや。救済として出したものを、後から貸したことにはしない」


 二人の肩が下がった。


「ただ、今年はどれくらい取れそうか、聞かせてほしい」

「……普段通りなら、と申し上げたいところですが」


 長が畑へ目を向けた。


「向こうは、まだ根が浅いです。水の抜けも悪くて」


 俺には、見ただけではわからない。

 だから、説明してもらいながら歩いた。


 近くで草を抜いていた女が、手を止める。


「領主様が、畑まで?」

「若い方がそうなのかい。初めて見たよ」

「お父上は、こちらの道を通られたことがあったけどねえ」


 レオンの記憶を探しても、この畑は出てこなかった。

 若い彼が、領主の息子として各地に顔を出すのは大変だったのだろう。


 ……いや、これから俺がやるのか。


 前の世界では三十五歳。外回りには慣れている。

 ただし、営業車には座席と屋根と冷房があった。


「トマ。帰りは少し歩こう」

「畑の様子をご覧になるのですね」

「それもある」


 尻にも、事情があった。


     ◇


 翌朝までに、三つの村の受取と、荷を運んだ記録がそろった。


 二百袋は、村へ届いていた。

 残る三十七袋も、兵への支給や現物払いと照合できた。リタが気にしていた一袋は、翌日の受取にあった。


 麦を盗んだ証拠は、見つからなかった。


 しかし、備蓄が減ったことを隠し、借りた麦を領地のものとして報告した事実は残る。

 父が命じた救済と、その後の偽った報告を、俺は別々に記録させた。


 エーベルトは、出納と備蓄管理の役目から外した。

 未整理の仕事はマルセルの立ち会いで引き継がせ、検分をごまかすために使った費用については、本人の負担で返すよう命じる。金額と支払方法は、財産とほかの未払いを確認して決める。


 一方、麦を受け取った村に、その費用を負わせることはしない。


「今後は、持ち主の違う麦を、同じ備蓄の欄に書かない。出した分は、その日のうちに引く」


 リタの作った書式を見ながら、役所の者に説明した。


「数えた人と、帳面を確かめる人も分けよう」

「足りなかった場合は?」

「足りない、と書いてくれ」


 当たり前のことを、わざわざ言う。


「その報告だけで責めはしない。理由を聞いて、どうするか決める」


 マルセルがうなずき、リタは紙の余白へ書き足した。


 これで、帳簿の麦は食べられる数になった。

 増えたわけではない。


 当面の買い足しに使える額と、運び賃を分けてマルセルに渡す。

 商会には、一度に買い込まず、短い間隔で届けてもらう条件を出した。秋の税収を丸ごと当てにした約束は、まだできない。


 次に見るべき場所が、増えた。

 畑。水路。倉庫へ通じる道。

 そこを知っている人にも、会いたい。


 だが、俺が町を離れている間の守りを、どうするか。


「川はデニスに任せたい。だが、館や町からも、判断を求める使いが来るだろう」

「私が離れれば、川の方で何かあったときに遅れます」


 デニスが答えた。


「誰か、代われる者は?」

「当面の見張りでしたら。兵をまとめて動かすとなると……」


 空いた椅子を見た。

 オズワルドなら、と言いかけて、やめた。


 いない人の仕事を、残った一人へ全部載せるわけにはいかない。


 そのとき、外で馬車の止まる音がした。


     ◇


「奥方様がお着きです!」


 トマの声で、役所の空気が動いた。


 外へ出ると、馬車の扉が開いていた。

 供の者が踏み台を置く。

 差し出された手へ白い手袋が重なり、妻が降りてきた。


 クラウディア・フェルデン。

 二十二歳。俺より一つ年上の妻だ。


 蜂蜜色の髪が、肩の後ろへゆるく流れていた。

 淡い青の旅装は首元まできちんと閉じているのに、豊かな胸元から細い腰へ落ちる線が、やけにはっきりわかる。


 記憶の中でも美人だった。

 実物は、少々困る。


「レオン様」


 青い目が、こちらを向いた。

 俺は、顔を見ることにした。

 こちらはこちらで、長く見ていると落ち着かない。


「あなたが戦場でお怪我をなさったと聞いて、気が気ではございませんでした」


 やわらかな声だった。


 彼女は俺の額を見た。

 次に、背後のデニスを見た。

 兵の槍を見た。

 川へ続く道を見た。


 ……ああ。


 嘘をつくときの目だ。


 いや、心配が一つもないとまでは言わない。

 ただ、いちばん聞きたいことを伏せている。


 融資の相談に来たのに、こちらが金利の話を始めるたび時計を見る経営者がいた。

 本当に困っていたのは金利ではなく、明日の支払いだった。


 この人の時計は、川の方角にあるらしい。


「急いで戻ってくれたんだな。ありがとう」

「当然のことですわ。夫婦ですもの」


 美しい微笑みだった。


「敵は、いったん退いた」

「……まあ。それは何よりですわ」


 少し、間があった。


「ただ、その後に偵察は来た」

「何騎ですの?」


 今度は速かった。


 後ろで、供の女が目を閉じた。


     ◇


 妻が持ち帰ったのは、傷薬や包帯に使う布、それから実家の返書だった。

 大きな援助は、向こうでも相談が必要だという。


「ひとまず、すぐに持ち出せる品を。護衛も二人、連れてまいりました」

「助かる。薬は、手当てをしてくれている人に渡そう」


 金も兵も山ほど出てくる、とはいかなかった。

 それでも、必要なものだった。


 役所へ入る前に、クラウディアが足を止めた。


「オズワルドは」


 短い問いだった。

 俺は首を横に振った。


「……そうですか」


 彼女は手袋の指先をそろえ、しばらく黙った。


「後ほど、お話を聞かせてくださいませ」

「ああ。きちんと話す」


 その返事を待ってから、妻は歩き出した。


 応接に使っている部屋で茶を勧める。

 トマが椅子を引くと、クラウディアは衣の裾を整えて腰掛けた。


 馬車から下ろした大きな箱は、外に置かれていた。

 持ち手も角も、鉄で補強してある。


「旅の荷は、あれで全部か?」

「ほとんどは」

「着替えを減らしたと聞いた」

「急ぐ旅でしたから」

「鎧は、重くなかったか?」


 妻の手が、茶器の手前で止まった。


「……万一に備えてですわ」

「そうか。君は戦にも詳しいんだな」

「多少は」


 控えめに、目を伏せる。


「俺は、デニスたちに教わっているところだ。君にも見てもらえると助かる」

「まあ。私でよろしければ」


 伏せた目が、戻ってきた。


 俺はデニスに、川と道の位置を紙に描いてもらった。

 妻は最初、行儀よく手を重ねていた。


 浅い流れの位置。

 川岸の傾き。

 敵の来た道。


 説明が進むにつれ、少しずつ上体が前へ出た。


「敵の騎兵は、こちらの岸へ?」

「先日は、ここまでは来ておりません」

「対岸の道は、馬が並べる幅ですの?」

「狭い所では、二頭ほどです」

「なら、先頭を止めれば後ろが詰まりますわね。脇へ逃げようにも、この辺りは――」


 指が、紙の上を滑った。


 デニスが答える。

 妻が聞く。

 また答える。


 茶は、まだ一口も減っていなかった。


「詳しいな」

「昔から、地形を見るのは好きですの」

「君なら、どこで迎える?」

「この曲がり角ですわね。退くふりをして追わせれば、横から腹を――」


 妻が、咳払いをした。


「進路を、押さえられますわ」


 今、腹と言ったな。


 俺は、うなずいた。


「なるほど。それで敵が逃げたら?」

「逃げ道の先へ回って、尻から――」


 もう一度、咳払いをした。


「お帰りいただきます」


 ずいぶん具体的な、お見送りだった。


     ◇


 午後、クラウディアにも川の防備を見てもらった。


 馬車を降りた妻は、道の端へ寄り、地面を靴先で軽く押した。

 川を眺める横顔は、絵になる。


 口を開くまでは。


「こちらへ追い込めば、馬の脚が取られますわね」


 景色の感想ではなかった。


 デニスが見張り小屋を案内する。

 休む者と立つ者の数を聞き、クラウディアは首を傾けた。


「敵が多ければ、ここはいつ引きますの?」

「川を渡らせないことを優先してきましたが、今の人数では、両側から来られると」

「では、合図を決めましょう。引き際に、いちいち使いを待っては遅れます」


 彼女が振り返った。


「レオン様。守るのは、この小屋ですか。それとも、この先の町ですか」

「町と、人だ。小屋を守るために逃げ遅れてほしくはない」

「でしたら、人数を見て退く判断を、ここにいる者へお許しくださいませ」


 デニスを見ると、うなずいた。


 退く先の場所と、町へ知らせる合図。

 クラウディアはデニスの説明を聞き、勝手に全部変えようとはしなかった。

 見えない窪地は、自分の足で確かめに行った。


 裾を少し持ち上げ、ぬかるみを避ける。

 動きに迷いがない。


 若いレオンの記憶には、食卓で微笑む妻がいた。

 彼女が何を得意としているか、こんなふうに聞いたことはなかったらしい。


「奥方様、だいぶ楽しそうですね」


 トマが、小声で言った。


「……そうだな」


 少なくとも、川を見ている目には嘘がない。


 小屋へ戻ると、例の椅子に座っていた兵が慌てて立った。


「お掛けになりますか!」

「結構ですわ。あなたはお休みなさい」


 妻は壁へ手を添えた。


「よい小屋ですこと」

「大工が考えて建ててくれた」

「この位置なら、以前の戦でも使えましたでしょうに」

「前の小屋は、なくなった」

「敵に焼かれて?」

「……俺が」

「まあ。敵に使わせぬために?」


 デニスが、川を見た。

 トマも、川を見た。


「その話は、別に時間を取ろう」


 妻が、感心したようにうなずいた。


 違う。

 今は、その顔をされるとつらい。


     ◇


 帰り道、俺はクラウディアへ声をかけた。


「俺は、これから領内を回りたい」

「領内を?」

「畑も仕事場も、知らない所ばかりだ。現地で困っていることを聞きたいし、仕事を任せられる人も探したい」


 彼女は少し、不思議そうな顔をした。


「ご自分で、いらっしゃるの?」

「ああ。今日みたいに、教えてもらわないとわからないことが多い」


 館と町へ来る報告は、マルセルがまとめる。

 川の見張りと日々の兵の配置は、デニスに続けてもらう。


 ただ、別々の場所で何か起きたとき、兵をどちらへ回すかを決める者が要る。

 一人で両方へ走ってもらう、という意味ではない。


「君に、その間の守りを任せたい。デニスと相談して、今日決めた範囲で兵を動かしてほしい」


 クラウディアが、足を止めた。


「私に、ですの?」

「引き受けてくれるか」

「……お嫌では、ありませんの?」


 嫌?


 考えた。

 心当たりは、一つあった。


「国境を越えて追いかけるのは、困る」

「それは、状況により」

「越えないでくれ」

「……はい」


 返事までに、また間があった。

 ここは、うやむやにしないでおこう。


「川でも、敵を追うために町への道を空けない。俺から頼みたいのは、留守の守りだ」

「承知しておりますわ」


 妻が、今度はまっすぐにうなずいた。


「君がここを守ってくれるなら、俺は安心して領内を回れる」


 風が吹いて、蜂蜜色の髪が揺れた。


 クラウディアは、動かなかった。


 少しして、手袋の指で耳元の髪を直す。

 直したはずの同じ所を、もう一度触る。


「……ずいぶん」

「うん?」

「お変わりになりましたのね」


 まずい。

 仕事を頼みすぎただろうか。


「もちろん、疲れているなら、今日は休んでくれ。戻ったばかりだし」

「疲れておりません」

「無理にとは」

「引き受けます」


 速かった。


「そうか。ありがとう。頼りにしている」


 妻は、こちらを見た。

 何か言いかけて、目をそらした。


 耳が、少し赤い。


 旅の後に川まで歩かせたのは、やはりよくなかったかもしれない。


「顔が赤いが」

「夕日のせいですわ」


 日は、まだ高かった。


 後ろで、トマが空を見上げた。

 俺は、見上げないことにした。

 相手が残したい言い分を、何でも崩せばいいわけではない。


 クラウディアは一度息を整え、いつもの優雅な微笑みを戻した。


「お任せくださいませ。敵が来ましたら、一人残らず――」

「追い払ってくれ」

「……承知しましたわ」


 守りを任せられる人が、来てくれた。


 来てくれたのだが。


 俺は今、留守番を頼んだんだよな?



カクヨムでも連載中です。

領内地図・人物紹介などの補足も掲載しています。

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