第7話 見せる麦には金が出る
面会の前に、俺は机から書類を半分下ろした。
「お見せにならないので?」
「最初から並んでいたら、何を責められるのか考えるだろう。まず、普段どう仕事をしていたか聞きたい」
商会の控え。借り賃の受取。ハンスへの支払記録。
必要な順に、手元の綴りへ挟む。
リタには、麦の動いた日を確認してもらった。
マルセルには、誰が支払いを認める仕組みだったかを。
聞くことを三つ、紙に書いた。
誰が決めたか。何を知っていたか。本当の数を誰に伝えたか。
「説明の途中で、数字が違ってもすぐには直さなくていい。先に最後まで聞こう」
「はい」
リタが、膝の上で手をそろえた。
彼女まで緊張させては仕方がない。
「君たちが調べてくれたから、ここまで聞ける。助かっている」
二人の表情が少し緩んだ。
さて。こちらの準備はできた。
◇
エーベルトは、五十歳ほどの男だった。
灰色の髪をなでつけ、皺のない上着を着ている。
レオンの記憶にある通りだ。
父の隣で書類をめくり、説明をする人。
ただ、今日は座っても背を椅子につけなかった。
俺の横にいるマルセルとリタを、順に見る。
「麦の保管調整費の件でございますね」
「うん。その前に、仕事の分担を教えてほしい。父が病に倒れてから、君の負担も大きかっただろう」
男は、用意していたらしい言葉を一度飲み込んだ。
「……お察しいただき、恐れ入ります」
「俺からは、帳面に印があるところしか見えない。実際には、それ以外もしていたんじゃないか?」
エーベルトの口元が、わずかに緩んだ。
「商会との折衝などは、私がお引き受けしておりました。先代からの付き合いもございますので」
「支払いを待ってもらう話も?」
「ええ。相手によっては、若い者をやっても話が通りません」
「誰に、どの順で払うかも考えなければならないな」
「そこが難しいのでございます」
背中が、椅子についた。
俺は口を挟まず、続きを待った。
商人の機嫌。足りない金。事情を知らずに催促する職人。
話すほど、声がよく通るようになった。
「帳面だけでは、わからない苦労だな」
「まさしく。数字だけ合わせればよいというものではございません」
「では、大工の工賃を待たせて、麦の保管調整費を先に払ったのも、君が事情を比べて決めたんだな」
「はい。備蓄の維持を優先する必要が――」
そこで、止まった。
俺はうなずき、二枚の紙を並べた。
「判断した人に聞けてよかった。何を優先したか、教えてくれ」
エーベルトの背中が、椅子から離れた。
◇
「備蓄を維持するために、必要な支出でございました」
今度は、少し慎重な声だった。
「麦は、置いておくだけでも傷みます。入れ替えや保管場所の調整が必要でして」
「そうだな。今回、傷んだ麦は何袋あった?」
「今回に限った話ではなく、一般に」
「ああ、すまない。では、今回の話を頼む」
俺は商会の控えを出した。
「二百袋を三日間借りて、全部返したと聞いている。違うところはあるか?」
「……ございません」
「古い麦を渡して、新しい麦を受け取ったわけではない?」
「はい」
「その間、炊いて配ることは?」
「別途買い取れば、可能でございます」
前の世界でも、似たような話はあった。
確認の日にだけ借りた金を口座へ入れ、手元資金に見せる。よその商品を並べ、自分の在庫だと報告する。
その日だけなら、金も商品も、確かにある。
だから、数を眺めるだけでは足りない。
「買い取りの記録は、見つからなかった。ほかに支払った綴りがあるなら、教えてほしい」
「いえ。その分は……」
俺は急かさずに待った。
沈黙が続くと、埋めたくなる。
営業をしていると、自分の方が余計な一言を足したくなることもある。
今日は、待つ方だった。
「検分に、必要だったのでございます」
マルセルのペンが動いた。
「検分には三百二十袋と報告している。この中に、借りた二百袋を入れた?」
「倉庫にあったものですので」
「うん。倉庫にはあった。領地が食べられる麦は?」
「……百二十袋でございます」
リタが顔を上げた。
俺は紙に、その数を書いた。
「では、維持したのは備蓄か。それとも、検分の日に見える袋の数か」
エーベルトが唇を結んだ。
「不足が知れれば、商人たちが不安を抱きます。支払いを待ってもらえなくなる恐れも」
「それは困るな」
「領地の信用を守るためでございます」
「だから、外には出せなかったんだな。本当の数は、内々に誰へ伝えた?」
父には、病状が悪かったから。
俺には、葬儀の後だったから。
男は順に説明した。
俺は最後まで聞いてから、もう一度尋ねた。
「では、誰に?」
答えは、出なかった。
配慮をいただいていたらしい。
おかげで俺は、ない麦を食べる計画を立てるところだった。
「領主様、私は、そこまで細かな実務をすべて把握していたわけでは」
「そうか。君の判断と、担当者に任せた部分を分けよう」
俺は、最初に取ったメモへ指を置いた。
「支払いの順番は君が決めた。商会との折衝も君がした。ここまでは、先ほどの説明通りでいいな?」
「……はい」
「では、把握していなかったのは、どの部分だ?」
エーベルトは、口を開いた。
閉じた。
机の下で、リタの椅子が小さく鳴った。
「思い違いがあるなら、今、直してくれ。記録も訂正する」
俺は声を少し落とした。
「確認する資料は残っている。説明が変わるたびに、誰が嘘をついたかまで調べることにはしたくない」
男の視線が、手元の綴りへ落ちた。
俺はまだ出していない紙をめくらず、待った。
「もともとの麦を、いつ、何に使ったか。そこから聞かせてくれないか」
◇
しばらく、外を通る荷車の音だけがした。
先に口を開いたのは、エーベルトだった。
「冬の終わりに、村へ出しました」
「どの村へ」
「北側の三つです。前年の実りが悪く、種にする分まで食べ始めたと報告がありまして」
「二百袋?」
「はい」
「父の命令で?」
「お許しは、いただいております」
俺はマルセルを見た。
「出庫の記録は?」
「通常の払い出し綴りには、ありませんでした」
エーベルトは、すぐには答えなかった。
代わりに、自分の鞄へ手を伸ばした。
マルセルが椅子を引く音がした。
取り出されたのは、薄い綴りだった。
布で包んで、大事そうに持ってきていた。
「……こちらに」
別にあった。
帳簿が合わないときに出てくる、別の帳簿。
できれば、出会いたくない知り合いである。
リタが受け取り、慎重に紙をめくった。
村の名。袋数。荷を受け取った者の印。
日付は、確かに冬の終わりだ。
「どうして、これを先に出さなかった」
「収穫後には、戻せる見込みでしたので」
「村への貸し付けだったのか?」
「いえ、救済でございます」
「では、何で戻す予定だった?」
「秋の税で……」
秋。
俺は窓を見た。
外には、今腹を空かせている人がいる。
秋に入る予定の麦は、今日の鍋には入らない。
「その二百袋を使ったことを、帳簿に反映しなかった?」
「一時的な不足として、私の方で管理を」
「それで、検分の日には借りて並べたんだな」
エーベルトが、うつむいた。
善い目的で出した麦かもしれない。
だが、その話と、減った分を隠した話は別だ。
検分の百二十袋から、最初の調査までに三十七袋減り、八十三袋。そこから炊き出しへ五袋出して、実際に数えた七十八袋になる。
数のつじつまは見えてきた。あとは、使い道が本当かどうかだ。
「検分の後に減った、三十七袋は?」
「検分の後の、兵への支給と、役所で働く者への現物払いなどでございます」
「それも、この綴りに?」
「はい」
リタが、持参した帳面を隣へ置いた。
「こちらに、受け取った側の記録があります。日付と数を、一件ずつ合わせられます」
彼女は最初の紙を引き寄せ、指を止めた。
「この八袋は、受取が七袋になっています」
「一袋は翌日に」
「では、翌日の分も確かめます」
淡々としていた。
声を荒らげることも、納得したふりをすることもない。
エーベルトが俺を見た。
「領主様。この者には、まず全体の事情を」
「今、確かめてもらっている」
俺はリタへうなずいた。
「そのまま続けてくれ」
◇
麦を村に出したことも、三十七袋を正当に使ったことも、まだ男の説明にすぎない。
綴りがあるから、それで全部正しいとは限らない。
受け取った人に聞く。
運んだ人にも聞く。
日付と数を合わせる。
やることは、地味だった。
そして、地味な仕事を任せられる人間が、ここには少ない。
「リタ。この照合を、マルセルと進めてほしい。倉庫の仕事と両方は無理だろうから、その間の手当てを決めよう」
「私が、ですか」
「君が見つけた記録だ。どこがつながって、どこがつながらないか、よくわかっている」
「でも、まだ合っていないところが」
「そこを、合っていることにしないでくれ」
彼女は一度、エーベルトを見た。
それから、帳面へ目を戻した。
「はい」
マルセルが、倉庫の記帳を引き継げそうな者の名を挙げる。
後で、本人と相談することにした。
俺が全部の荷札を数える必要はない。
ただ、調べている人の邪魔をする声は、止める必要がある。
「照合が済むまで、エーベルトには支払いと備蓄報告の承認から外れてもらう。資料はここに預けてくれ。追加で話を聞く」
「領主様。長く、お父上にお仕えしてまいりました」
「だから、父が何を頼んだかも確かめる」
父が救済を命じたなら、その事実は残す。
誰かが実際に麦を運んだなら、その働きも残す。
その上で、誰が何を隠したのかを決める。
エーベルトは、膝の上で両手を握った。
「不足を、そのまま申し上げれば……」
「うん」
「私が、備蓄を管理できていないと」
ようやく、少し違う声が出た。
信用を守る。
不安を広げない。
領主を煩わせない。
どれも、聞こえはよかった。
その下には、自分の失敗を報告したくない気持ちもあったのだろう。
「不足を報告してくれれば、何を減らすか、どこから買うかを決められた」
机に、借り賃の受取を置く。
「隠れている間にも、金は出ていく。今回は、麦を多く見せるためにだ」
小屋を建てたハンスには、十八枚を待たせた。
こっちは、払っていた。
「次の報告は、足りないところから話してくれ」
◇
エーベルトが退出すると、マルセルが深く息を吐いた。
「ずいぶん、話してもらえたな」
「……はい」
「最初は警戒していたが、途中からは自分で説明してくれた。やはり、苦労を聞くところからだ」
マルセルとリタが顔を見合わせた。
二人とも、深くうなずいた。
「勉強になりました」
よかった。
少しは、経験を頼りにしてもらえただろうか。
扉の外のトマに、次の訪問先への使いを頼む。
戻ろうとしたところで、部屋から小声が聞こえた。
「褒められていたところ、全部、後で戻ってきましたね」
「自分で決めたと、おっしゃいましたからね……」
「怒鳴らないんですね」
「ええ。あの笑顔で、もう一度聞くんです」
早速、面会を振り返っているらしい。
俺が顔を出すと、二人はすっと帳面へ目を戻した。
「何かわからないところがあったか?」
「いえっ」
返事がそろった。
連携もよくなってきたらしい。
椅子を引いた音に、リタの小声が重なった。
今度は、一言だけ聞こえた。
「……怖ぁ……」
マルセルは、黙ってうなずいていた。
そうだな。備蓄があんなに少なかったのは、怖い話だ。
見つけてくれた二人には、改めて感謝しなければ。
リタは、二冊の帳面を見比べ始めた。
俺も何か手伝おうと、紙へ手を伸ばす。
「あ、それは、今並べた順です」
手を戻した。
「こちらは?」
「そちらは、まだ合わせていない方です」
膝に置いた。
小屋でも、役所でも、俺の手には決まった置き場所があるらしい。
扉が開き、マルタが盆を持って入ってきた。
「食べてないだろ。冷める前におあがり」
パンと、豆の入った汁だった。
リタが慌てて帳面を寄せる。
マルセルは紙を一枚、袖で守った。
「ありがとうございます。ちょうど一段落――」
「ついてない顔だね」
即座に見抜かれた。
領地の問題より先に、俺たちの空腹が処理された。
椀を持つと、マルタが小声で聞いてきた。
「麦、見つかったのかい?」
「どこへ行ったかは、少しわかった。確かめているところだ」
「戻ってくる?」
「それは、まだわからない」
村の人が食べていたなら、戻ってはこない。
正しく使われていたとわかっても、倉庫の袋は増えない。
「じゃ、明日も今ある分で考えるよ」
「頼む」
マルタはうなずき、空いた皿を重ねた。
「あと、館の鍋は?」
「確認を――」
「麦を見せる金はあったのに?」
俺は椀を置いた。
「トマ! 鍋の件、優先してくれ!」
扉の外から、はい、と返事がした。
不正を見つけても、昼飯の催促は止まらない。
むしろ、説明できる言い訳が一つ減った。
◇
夕方、領主館を経由した使いが着いた。
麦のことではなかった。
王都へ出した陳情の返事でもない。
「奥方様より、お便りでございます」
差し出された封書を見た。
妻からだった。
そう。
レオンには、妻がいる。
二十一歳で領主。
既婚。
借金あり。
領内の備蓄に問題あり。
人生の主要な手続きを、俺のいないところで済ませすぎではないか。
封の紋章には、見覚えがあった。
レオンの記憶に、婚礼の日の姿が浮かぶ。
つやのある髪。
長い睫毛。
細い腰からなめらかにつながる体の線を、仕立てのよい礼服が引き立てていた。
とても美しい人だった。
隣に座っていた若いレオンは、どこを見ていいかわからず、ずっと杯の模様を眺めていた。
気持ちはわかる。
中身が三十五歳でも、正しい視線の置き場が急にわかるわけではない。
彼女は今、実家に戻っている。
父の死後、領地への援助を頼むために。
封を切った。
夫の身を案じる、丁寧な文章が並んでいた。
戦があったと聞き、大変心配している。
見舞いの品と供を連れて、急ぎ戻る。
ありがたい。
少なくとも、心配してくれる身内がいる。
最後の一文を読むまでは、そう思った。
『追伸。敵は、まだそちらにおりますでしょうか』
俺は、もう一度読んだ。
敵の所在。
安全を確かめるためには、当然必要な情報だ。
必要なのだが。
「使いの人は、まだいるか?」
「はい」
トマが扉を開ける。
入ってきた男へ、俺は手紙を示した。
「妻は、ほかに何か言っていた?」
「はい。ご返答を待たずに出立なさるとのことで」
「そうか」
「道が通れれば、明後日には」
「ずいぶん急ぐんだな」
「馬車の荷を減らしてでも、と。着替えの箱を一つ、お降ろしになりました」
そこまで急いでくれるとは。
「ただ、鎧の箱は必ず積めと」
俺は顔を上げた。
「鎧?」
「はい。奥方様の、板金鎧でございます」
もう一度、手紙へ目を落とした。
端正な字だった。
どこまでも、上品だった。
その下に、小さく一行、書き足してあった。
『どうか、ご無理はなさらず。私が参るまで』
……最後の部分は、何にかかっているんだ?
カクヨムでも連載中です。
領内地図・人物紹介などの補足も掲載しています。




