第55話 初雪の日に、仕事がない
朝、窓を開けると、庭の縁が白かった。
空から降ってくるものを、しばらく見ていた。
雨にしては遅い。
頬に触れると、すぐに消える。
雪だ。
俺は窓を閉じ、上着を手に取った。
道はどうなった。
今日の荷車は、どこを走る。
倉の屋根と、村へ出す便は。
寝起きの頭に、順番を待たずに仕事が入ってくる。
廊下へ出ると、すでにキャスパーがいた。
「おはようございます」
「おはよう。雪が」
「降っておりますね」
「今日の輸送は?」
「町へ来る便は、明るくなってから出すと連絡がありました。山の方は、昨日のうちに予定を変えてあります」
俺は、上着を持ったまま止まった。
「橋は?」
「朝の連絡は、届いております。異状なし。濡れた板に気をつけて、交代すると」
「倉の」
「屋根は、雨のあとに確かめてあります」
俺は、口を閉じた。
キャスパーが、穏やかに言った。
「朝食へ、どうぞ」
仕事の入口を、全部塞がれた。
◇
停戦のあとも、冬支度は続いた。
畑の作業が終わり、道を直し、薪を積んだ。
パウルの家では、残した牛を使って、約束していた畑の仕事を進められた。
種に回す麦も、食べる分と混ぜずに済んだという。
山側の村では、魔物に壊された囲いと飼料置き場の修繕を終えた。
家畜を失った家への手当ては、マルセルたちが暮らしの不足と合わせて見ている。
鉱山は、運び出せる量と、道の具合に合わせて仕事を絞った。
掘れた石が増えても、雪の中で運べなければ金にはならない。
ガルドの判断で、危うい日は止める。
その間も、働いた分の支払いは済ませた。
来春も来てくれと言う前に、今までの約束を守る必要がある。
ヴェーラー領への納品も、引き受けた分を順に終えた。
倉が空になるほど売ってはいない。
修繕と、次に作るための材料を残した。
王都へ送った停戦の報告には、ようやく返書が来た。
領土や王国の権利を譲らない内容であることを確かめ、橋の警戒を続けるようにとある。
追加の人材は、やはり来なかった。
だが、今はその一文だけで、机へ額をつけずに済む。
隣の机にはキャスパーがいて、マルセルがそこへ書類を渡している。
冬になった。
それでも、全部が止まったわけではなかった。
◇
朝食を済ませ、執務室へ顔を出す。
マルセルが、倉から届いた記録を見ていた。
俺も自分の椅子へ座ろうとすると、彼が顔を上げた。
「今日は、お休みになるのでは」
「急ぎのものが、あるかと思って」
「午前中に、領主様が決めなければ止まるものはありません」
言い切られた。
「午後は?」
「今日中でなくてよいものなら、あります」
「それなら、少し」
後ろで、扉が開いた。
「少しだけ、外へ参りましょう」
クラウディアだった。
鎧は着ていない。
厚手の外套を羽織り、首元を留めている。
髪も、戦いのときのようにはまとめていなかった。
俺の外套まで、腕に掛けている。
「今日は、町で市が立ちますのよ」
「知ってる。場所を使う話は聞いた」
「では、ご一緒に」
マルセルが、俺の椅子を机へ戻した。
座る前に、片付けられた。
「何かあれば、使いを出します」
キャスパーまで、同じことを言う。
皆で、話をつけてあったらしい。
俺は外套を受け取った。
「分かった。行ってくる」
執務室を出ると、妻が俺の腕へ手を添えた。
「やっと、お借りできましたわ」
領主の貸し出しにも、調整が必要だった。
◇
町の道は、もう大部分が濡れた土へ戻っていた。
屋根や、塀の陰にだけ雪が残っている。
トマは少し離れてついてきた。
護衛は必要だが、今日は用事を片付けるために歩くわけではない。
そう思っても、荷車が見えると、つい車輪を見てしまう。
屋根から水が落ちていると、雨樋が気になる。
「レオン様」
「うん」
「こちらを見ていただけますか」
俺は妻を見た。
「何か、ついている?」
「いいえ」
クラウディアは、腕を少し引いた。
「ときどき、私のことも」
俺は、言葉を探した。
仕事の話なら、だいたい返せる。
こういう短い言葉に、思いがけず詰まる。
「……ごめん。見ているつもりだった」
「つもりでは、足りませんわ」
妻は楽しそうだった。
今日は、こちらが見透かされる日らしい。
◇
広場には、小さな店が並んでいた。
薪を積んだ荷車。
編んだ籠。
修繕した道具。
干した果物と、冬に使う布。
領が品物を集めて配る催しではない。
商人や町の者が相談して、雪が深くなる前に売り買いする日を作った。
決めた時間に場所を空け、火を使う店の位置を確かめる。
館が関わったのは、その辺りだった。
子供が、白い息を吐きながら走っていく。
通路では走るなと、店の男が声をかけた。
子供は少しだけ歩き、また走った。
国力の画面には出ない速さで、話が進んでいた。
「領主様だ」
誰かが気づく。
頭を下げかけた店の女へ、俺は手を上げた。
「今日は、買い物に来た。続けてくれ」
女は、隣のクラウディアを見る。
それから、俺たちが組んだ腕を見て、納得したように笑った。
「では、奥様。こちらの布など」
話の向きが変わった。
実に早い。
妻が手を伸ばすと、女は冬の裏地に使えると説明した。
俺には違いが分からない布を、二人で触って見比べている。
何か言おうと思って、やめた。
分からないものは、詳しい人へ任せる。
今日は、ここでも同じだった。
◇
ベルタは、荷車の脇で銅貨を数えていた。
「今日は、運ぶ方じゃないのか」
「運んだから、ここにいるんだよ」
荷台には、村から預かった籠が載っている。
その隣で、作った本人が客と話していた。
「帰りは、買った物を積む。全員が荷車を持ってるわけじゃないからね」
ベルタは、小さな紙を俺へ見せかけ、途中で引っ込めた。
「今は、仕事の話をしない方がよかったかい」
クラウディアが、にこりと笑った。
「次の報告のときに、お願いいたします」
「そりゃ、失礼した」
ベルタが声を立てて笑う。
俺は何も言えなかった。
彼女は、銅貨を別の袋へ入れた。
運んだ代金と、売り物を預かった金は混ぜない。
最初に計画を話したときから、すべてが想定どおりだったわけではない。
道が悪く、荷が集まらず、予定を変えた便もあった。
それでも、こうして自分で次の客を見つけている。
「いい顔をしてるね」
俺が言うと、ベルタは手を止めた。
「そっちも、今日はね」
隣で妻が、少し得意そうにした。
◇
広場の隅では、鍛冶場の者が小物を売っていた。
戸の留め金。
小さな釘。
持ち手を付け直した道具。
エルゼが、客へ使い方を説明している。
脇では若い者が、包む布を切っていた。
俺に気づいた彼女が、頭を下げた。
「今日は、何かお探しですか」
領主の注文を待つ言い方ではなかった。
店へ来た客に尋ねる声だった。
「そうだな。館で使うものは、もう相談しているし」
「ご自分で使うものでも」
俺は、並んだ品を見た。
正直に言うと、館に住んでいると、自分で小物を買う機会があまりない。
仕事に必要なものは、必要なものとして届く。
それが急に、少しもったいなく感じた。
机の上で紙を押さえるための、小さな鉄の重しがあった。
端を丸くし、底には布を張ってある。
「これは、誰が考えた?」
若い者が、そっと手を上げた。
「余った形のものを、使えないかと。紙が飛ぶと聞きまして」
俺は、一つ手に取った。
掌へ、心地よい重さが返ってくる。
「これをもらおう」
代金を出すと、若い者は慌てて首を振りかけた。
エルゼが、その腕を軽く叩く。
「お買い上げだよ。包んで」
彼は、急いで布を取った。
妻が、俺の手元を見た。
「また、お仕事の道具ですのね」
しまった。
反論の余地は、なかった。
◇
昼には、温かいものを買った。
根菜と豆に、少しの塩漬け肉を合わせた煮込み。
大きな鍋の前で、女が椀へ盛っている。
その隣では、丸い栗が火の上で弾けた。
クラウディアが、そちらへ顔を向けた。
「よい匂いですわね」
「そちらも買おうか」
俺が言うと、妻は嬉しそうにうなずいた。
領の支出ではなく、俺の財布から払う。
そのための金まで、マルセルへ相談していたら、今日が終わってしまう。
トマの分も買い、風を避けられる場所に座った。
妻が熱い椀を両手で持つ。
少し息を吹きかけてから、口へ運んだ。
「おいしい」
短い感想だった。
俺も食べた。
冷えた身体へ、温かさがゆっくり下りていく。
すぐそばでは、子供が栗の殻を剥けずに困っていた。
父親が受け取り、割って返す。
子供は中身を半分だけ食べ、残りを父親へ差し出した。
俺は、しばらくその様子を見ていた。
足りない家へ食べ物を届ける仕事は、まだ続いている。
今日、ここへ買いに来られない人もいる。
それでも、こんな時間が町の中にある。
嬉しいと思ってよいのだと、温かい椀を持ちながら考えた。
◇
食べ終わった頃、広場の向こうで声が上がった。
荷車の車輪が、浅い泥にはまっていた。
濡れた土の上へ、雪が薄く残っている。
俺は立ち上がりかけた。
だが、先にベルタが動いた。
「押す前に、上の荷を二つ下ろしておくれ!」
店の者が箱をどける。
そばにいた男が板を持ってきた。
御者が馬を落ち着かせ、車輪の下へ板を入れる。
掛け声がそろった。
荷車が動く。
少し離れたところで、巡回中のアイナが人を止めていた。
子供たちが車輪へ寄らないようにし、荷が戻る道を空けている。
俺は、座り直した。
クラウディアが、何も言わずに栗を一つ渡してくれた。
剥いてあった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
俺がいなくても、車輪は泥から出た。
誰かにとっては、ただそれだけのことだ。
今日は、それだけのことが、随分と嬉しかった。
◇
帰りに、アイナがこちらへ来た。
「ご不便は、ありませんか」
「ないよ。助かったね、さっきは」
「ベルタさんが、先に動いてくださいましたので」
彼女はそう答えて、妻へ目を向けた。
それから、俺たちの腕を見て、急に姿勢を正す。
「では、私は、あちらを」
後ろの兵が、小さく笑った。
「隊長、こちらの警護は、もう十分だろ」
「そういう意味ではありません」
アイナは赤くなりながら、兵を連れて戻っていった。
ちゃんと周囲を見ているのに、こちらだけは見ない。
クラウディアが、楽しそうに笑った。
「あまり、困らせないでやってくれるかな」
「何もしておりませんわ」
妻はそう言って、俺の腕へもう少し身体を寄せた。
何もしていないという説明には、無理があった。
◇
広場を出る前に、布の店へ戻った。
妻が見ていたものとは別に、柔らかな襟巻きが掛かっていた。
色は落ち着いていて、彼女の外套にも合いそうだった。
「これを、見せてもらえるかな」
女が外してくれる。
クラウディアは、少し不思議そうに俺を見た。
「寒そうだったから」
「私に?」
「うん。気に入らなければ、別のものを選ぼう」
妻は布へ触れた。
さっきまで、店の者とよく話していたのに、今度は黙っている。
「これが、よいです」
小さな声だった。
代金を払い、首元へ掛ける。
鎧の留め具と違い、どのくらい締めればよいか迷った。
妻が俺の手を取って、少しだけ緩める。
「これで」
顔が近かった。
トマは、道路の向こうを熱心に警戒していた。
「よく似合う」
俺が言うと、クラウディアは目を伏せた。
魔物へ向かっていくときより、よほど扱いが難しい。
そのくせ、こんな一言で嬉しそうになる。
俺は、今度は自分から彼女の手を取った。
◇
館へ戻ると、執務室には灯りがともっていた。
キャスパーは記録をそろえ、マルセルは杯を持っている。
オットーが、翌日の便の紙を置いた。
「何か、あった?」
俺が聞くと、キャスパーは顔を上げた。
「荷の到着が遅れた件が一つ。受け取りを明日の朝へ変え、先方へも伝えてあります」
「ほかは?」
「予定どおりです」
俺は、空いている椅子を見た。
それから、クラウディアを見た。
「では、続きは明日だね」
マルセルが、杯を少し持ち上げた。
「はい。明日は、ございます」
仕事がなくなったわけではない。
今日は、俺がすぐに飛び込まなくても、皆が進めてくれた。
部屋へ戻り、買った重しを机へ置いた。
明日の書類は、まだ持ってこない。
妻が、襟巻きを丁寧に畳んでいた。
俺はその横へ座った。
「また、行こうか」
クラウディアが、こちらを見る。
「仕事を、片付けてから?」
全部を片付ける日は、たぶん来ない。
「休む日を、先に決めよう」
妻は、ゆっくり笑った。
「約束ですわよ」
窓の外では、また雪が降り始めていた。
俺は椅子を立ち、その窓だけを閉めた。
倉のことを確かめに、廊下へ出ることはしなかった。




