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第54話 その条件なら、こちらも話せる

 机の端が、少しがたついた。


 トマが脚の下へ薄い木片を挟むと、ようやく落ち着く。

 俺は礼を言い、その上へ書類を置いた。


 国境の話し合いをする机にしては、ずいぶん頼りない。

 しかし、交渉のために立派な家具を買う金はなかった。


「こちらの椅子で、よろしいのですか」


 トマが聞く。


「座って話せればいいよ」


 クラウディアが、自分の椅子を確かめた。

 静かに腰を下ろす。

 軋む音がして、トマの目がそちらへ動いた。


「何か?」

「いえ。脚を、見ておりました」


 俺も、脚を見た。

 椅子の方だ。


 橋のこちら側にある小屋には、双方が決めた人数だけ入る。

 外の兵も、約束した位置から動かさない。

 ブルーノとデニスには、面会の最中でも橋の守りを崩さないよう伝えてあった。


 やがて、相手が来た。


 領主の代理として送られたのは、バルツァーという男だった。

 年は俺の前世より上だろう。

 仕立てのよい上着と、太い指の指輪が目についた。


 先日の使いの男も、一緒に来ている。

 今日は、記録と補佐を務めるらしい。


 キャスパーが、持参された書状を確かめた。

 橋周辺の停戦と、駐留兵を下げる条件を決める権限がある。

 領主の印も、先の書状と一致していた。


 俺は、席を勧めた。


「レオン・フェルデンだ。今日は、来ていただいて感謝する」


 男は俺を見てから、隣の妻へ目を向けた。


「なるほど。奥方の剣でお守りいただいているというのは、確かなようですな」


 俺は微笑んだ。


「ええ。よく守ってくれている」

「では、金の話も、そちらへした方がよろしいか」


 隣で、妻の呼吸が変わった。


「……あ?」


 短かった。

 それで十分だった。


 俺は、机の下で妻の手へ触れた。


「金と領地の判断は、俺がする。妻の働きを、私を侮るために使うのはやめてもらおう」


 男の笑みが止まった。


「話を始めてよいかな」


 返事を待った。

 最初にここを曖昧にすれば、この先も同じ調子になる。


 男は、ゆっくり椅子へ座った。


     ◇


 バルツァーが出したのは、駐留にかかる費用を書いた帳簿だった。


 兵の食料。

 馬の餌。

 運搬。

 その一部をこちらが負担するなら、橋から兵を下げるという。


 俺は、開かれた頁へ目を落とした。


「この額は、すでに支払った分?」

「必要となる費用です」

「支払済みと、これからの分が混じっているんだね。いつまで置く想定かな」


 男の指が、紙を押さえた。


「それは、こちらの事情でしょう」

「こちらへ払えというなら、確かめる必要がある」


 俺は頁の下を指した。

 日ごとに増える費用と、荷を運び込んだ際の費用が、一緒に足されている。


「兵を下げれば、ここから先の食料と餌は減る。それまでの費用とは、分けて話そう」

「そのような細かな勘定をしに来たわけではありません」


 男の声が低くなった。


 細かいか。

 払う者には、大事な話だ。


「では、先に結論を伝える。こちらは駐留費を負担しない。領民の冬の食料も出さない」


 バルツァーが、椅子の背から身体を離した。


「こちらが兵を置き続ければ、そちらも同じだけ困るのでは?」

「困るよ。だから、双方が兵を置き続ける以外の条件を持ってきた」


 俺は、キャスパーへ目を向けた。

 彼が紙を差し出す。


 橋周辺での停戦。

 双方の増派部隊を、定めた線より後ろへ下げる。

 平時の見張りは残す。

 互いの村や荷車を襲わず、軍を橋へ通さない。


 相手だけが無防備になる条件ではない。

 こちらも、追いかけて攻め込まないと約束する。


 バルツァーは、最後まで読まずに顔を上げた。


「我らに、何も得ずに引けと?」

「軍を出さずに済む間も、領地は物を作れる。あなたの領でも、荷車と働き手を村へ戻せるだろう」

「そのようなことは承知している!」


 声が、壁に響いた。


 俺は黙った。

 相手の怒りへ、こちらの声を重ねる必要はない。


     ◇


「分からぬなら、これを見ろ!」


 帳簿が、飛んできた。


 厚くはない。

 だが、革の表紙には重さがある。


 俺は目を閉じなかった。

 机の上へ戻した左手に、角が当たる。

 帳簿は杯を弾き、床へ落ちた。


 熱い茶ではなかったのが、救いだった。


 隣で、椅子が鳴った。


「クラウディア」


 妻が立ち上がる前に、呼んだ。

 彼女の手へ、もう一度触れる。


「大丈夫だ」


 痛くないわけではない。

 普通に痛い。


 ただ、飛んでくる帳簿を見たのは、初めてではなかった。


 四季報。

 金融六法。

 机の上に置いてあれば資料なのに、飛んでくれば立派な鈍器になる本が、前世の職場にはあった。


 ああいうものに驚いている間にも、隣では若い部下が固まっていた。

 こちらまで慌てるわけにはいかなかった。


 理不尽への耐性だけは、入行時から増え続けている。

 別に、育てたくて育てた能力ではないが。


 俺は男を見た。


「今の行為について、先に謝罪してもらう」


 部屋が静かになった。


「これ以上、物を投げるなら面会は終える。戻る際の安全は、約束どおり守る。ただし、何が起きて席を立ったかは、双方の領主へ記録を残す」


 男は、俺の手を見た。

 次に、隣のクラウディアを見た。


 妻は座っていた。

 それが、かえって恐ろしかった。


 先日の使いの男が、頭を下げた。


「失礼がございました。ですが、本日の話を」

「あなたではなく、ご本人から」


 俺は待った。


 バルツァーが、唇を動かした。


「……乱暴をした。詫びる」


 俺は、一度うなずいた。


「では、続けよう」


 トマが帳簿を拾い、相手の前へ戻した。

 今度は、手が届きやすい場所から、少し離して置いた。


     ◇


 短い休憩を挟んだ。


 濡れた紙を替え、手を布で押さえる。

 クラウディアは、俺の手の甲を見ていた。


「あとで、冷やしてくださいませ」

「そうする」


 それ以上は言わなかった。

 だが、席へ戻った妻の微笑みを見て、相手の補佐役が少し姿勢を正した。


 俺は、白い紙を机へ置いた。


「こちらの案の、どこが受けられない?」


 バルツァーは、しばらく黙っていた。


「軍を引いたあと、そちらが橋から出てこないという保証がない」

「こちらも、そちらが別の道へ回ることを心配している。同じ条件を、互いに課そう」


 地図を出した。

 対象にする村と道を、双方で確かめる。

 見張りを残す場所と、増派した兵を下げる場所は分けた。


 地図の線だけで曖昧なところは、川の曲がりや古い道標を目印にする。

 片方だけが勝手に解釈できる線では、あとで揉める。


「引くのに、何日要る?」

「負傷者と荷がある。すぐには」

「今日中とは言っていない。無理のない日を決めたい」


 男は、補佐役と短く言葉を交わした。


「六日」

「分かった。こちらも、同じ日から、決めた人数を超えて橋へ兵を寄せない」


 キャスパーが書き留めた。


 ここで、話が初めて前へ動いた。


     ◇


 通商の話では、また止まった。


 相手は、軍を下げる代わりに荷の通行を広く認めろと言った。

 こちらは、無条件には開けられない。


「兵を商人に着替えさせれば、通れることになります」


 クラウディアが口を開いた。

 声は、いつもの上品なものだった。


「兵と武器を通さないことは、本文へ。荷の改めも、双方が受ける形にしてくださいませ」


 バルツァーは反論しかけたが、口を閉じた。


 俺は、話を続けた。


「通す品、日、荷車の数は、別に決める。交易を認めることと、こちらの倉から物を出すことは違う」

「売り手が応じれば、買えるのですな」

「決めた範囲の品なら。相手の領主が頼んだという理由で、商人へ売るよう命じたりはしない」


 買う金も、支払いの条件も、当事者が決める。

 兵の維持費を商人へ押しつける形に変えただけなら、意味がなかった。


 その代わり、平穏な間に商売ができる道は残す。

 検査の名目で、代金を払わず荷を奪うことも禁じる。


 通行にかかる金についても、相手から要求が出た。


「こちらへ渡る荷には、定めの額を払っていただく」

「その額は、荷を出す前に知らせてほしい。着いた日に増やされるなら、商人は行けない」

「冬の間に、事情が変わることもあるでしょう」

「変更を知らせてから受ける荷に適用する。すでに入った荷や、払った分へ、あとから足さない。それは、こちらも同じにする」


 男は補佐役へ目を向けた。

 補佐役は、今度はすぐにうなずいた。


 戦争がなくても、道の途中でいくら取られるか分からなければ、商売は止まる。

 利益の残らない便を、ベルタたちへ走れとは言えない。


 誰に払えば済み、何を渡されれば支払い済みと分かるか。

 そこまで決めると、相手の補佐役が、小さく息を吐いた。


「これなら、関所へも伝えられます」


 現場へ持って帰れる文章に、ようやくなったらしい。


 バルツァーは、先ほどより長く紙を読んだ。


「主には、通商の道を確保したと報告する」

「その条件を守ってくれるなら、そう報告して構わない」


 向こうにも、持って帰るものが要る。

 橋を奪ったという報告にはできなくても、冬の出費を減らし、取引の余地を得たとは言える。


 俺は、相手の顔を潰すために来たのではない。

 こちらへ向けた兵を、戻してもらうために来た。


     ◇


 期限は、春まで。


 種まきの前に、継続するか、どこを直すかを話す。

 その面会を設ける日と、協定が切れる日を、別々に書いた。


 無事だったから、そのまま何となく続くだろう。

 そんな終わり方にはしない。


 川を越えた者や、荷を巡る争いが出たときの連絡先も決める。

 目の前の襲撃を防ぐことは妨げない。

 ただ、一件の揉め事を口実に、いきなり軍を動かさない。


「捕らえた者が出た場合は、身元を確かめて連絡を」


 相手の補佐役が言った。


 俺は、そこへ一行を加えてもらった。


「停戦のあと、境界を越えて起きた事件の話だね。以前に捕虜を解かれた者や、すでにこちらで暮らしている者を、まとめて引き渡す条件にはしない」


 こちらにも、守るべき生活がある。

 曖昧な文章へ、人を入れて渡すつもりはなかった。


 バルツァーは、書き直された箇所を読み、うなずいた。

 この面会で、過去のすべてを片付ける必要はない。


 両国の王の権利や、国境そのものは変えない。

 あくまで、ここを預かる者同士の停戦だ。

 写しは、それぞれの王都へ送る。


 最後に、全体を読み上げた。

 俺とバルツァーが署名し、印を押す。

 キャスパーと相手の補佐役が、二通を照らし合わせる。


 小屋の外から、川の音が聞こえた。


 俺は、ようやく肩を下ろした。


     ◇


 署名した日の夕方、対岸の天幕は、まだそこにあった。


 当然だ。

 紙へ印を押したからといって、荷車が勝手に動くわけではない。


 翌日、空の車が入った。

 その次の日には、荷を載せた車が戻っていった。


 ブルーノたちは、決めた場所から様子を見続けた。

 こちらも約束どおり、橋の外へ兵を進めず、見張りの人数を取り決めの範囲に保つ。


 六日目。

 対岸の大きな天幕が畳まれた。


 道を、兵が歩いていく。

 誰も、追わなかった。


「下がっております」


 デニスの声に、俺はうなずいた。

 その目で、最後尾が見えなくなるまで確かめた。


 終わった。


 国同士が仲良くなったわけではない。

 相手を信用し切ったわけでもない。


 それでも、今日は橋へ来るはずだった兵が、反対へ歩いている。

 その分だけ、こちらの兵は矢を放たずに済んだ。


 俺は、手の甲を擦った。

 腫れはもう引いている。


「痛みますの?」


 クラウディアが聞いた。


「いや。思い出しただけだ」

「次に投げたら、私が受け止めます」

「帳簿を?」


 妻は、微笑んだ。


 返事がなかった。


     ◇


 帰る前に、橋の兵へ停戦の内容を改めて伝えた。

 見張りも訓練も続く。

 だが、休みの順を、以前より決めやすくなる。


 兵の一人が、遠慮がちに手を上げた。


「では、冬のうちに、一度、家へ戻ることも」

「交代を組めれば。ブルーノと相談してくれ」


 男の顔が、明るくなった。


 俺は、その顔を見てから、小屋へ戻った。

 キャスパーが協定の控えを片付けている。


「よいお仕事でした」

「皆が、後ろを止めずにいてくれたからだよ」


 俺だけが上手に話しても、倉が空で、兵も疲れ切っていれば、同じ条件にはならなかった。

 運ぶ人、作る人、守る人。

 あの席へ持っていけたのは、紙だけではなかった。


 トマが、俺の上着を持ってきた。


「領主様」

「うん」

「お顔に当たらなくて、よかったです」

「ありがとう」

「奥様が、席を立たずに済みましたので」


 俺は返事に困った。


 誰の無事を喜んでいるのかは、聞かないでおいた。


 外へ出ると、風が冷たくなっていた。

 冬は、すぐそこだった。


 この時間を使って、皆で越える。

 俺は馬へ乗り、館へ向けて手綱を取った。

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