第56話 この先も、暮らしていく
橋には、今日も人がいた。
槍を持つ兵。
荷を確かめる者。
手をこすり合わせながら、交代を待つ若者。
川の向こうには、相手の見張りもいる。
こちらを見ているが、弓は構えていない。
停戦の紙へ印を押したあとも、確かめる仕事は続いていた。
通す荷と、通さない荷。
約束した人数と、時刻。
分からないことがあれば、決めた相手へ問い合わせる。
それができていることを、今日も確かめに来た。
「今朝は、変更の申し出が一件ありました」
ブルーノが、記録を見せた。
「向こうの荷車が遅れるそうです。こちらの交代と重なるため、日を改めてもらいました」
「揉めた?」
「少し。ただ、取り決めを見せると、明日にすると」
俺はうなずいた。
大きな感動のある報告ではない。
昨日決めたことが、今日も通じる。
そのくらいのことを、欲しかったのだと思う。
デニスが、小屋から顔を出した。
「中へどうぞ。風を避けられます」
屋根がある。
壁もある。
当たり前のことだが、ここでは少しだけ、特別な意味を持っていた。
◇
柱へ手を置いた。
削った跡が、わずかに残っている。
釘を打ち直したところもあった。
人が考え、人が直して使っている小屋だった。
能力で建てて、能力で消したものとは違う。
「雨は、入っていない?」
「横から強く降るときは、こちらを閉めます。大工が直してくれまして」
デニスが、板戸を指した。
俺が頼んだ形のままではない。
使う兵が困ったところを伝え、大工が手を加えていた。
「いいね」
俺が言うと、彼は少し笑った。
「休む椅子も、濡れずに済みます」
あの日、何もない場所に残された椅子を思い出した。
俺は、思わず視線を落とした。
「それは、大事だ」
小屋の中には、乾いた手袋を置く場所までできている。
次に使う者が取りやすいように、紐へ掛けてあった。
それを見て、何か教えようとは思わなかった。
俺が考えつかなかった便利さが、ここにはあった。
◇
クラウディアが兵の話を聞いている間に、俺は小屋の外へ出た。
トマには、すぐ戻ると伝えた。
橋から離れるわけではない。
少しだけ、川の見えるところへ立った。
冷たい風が、頬を通る。
ここで目を覚ました。
自分の身体ではない身体で、状況も分からず、目の前に出たものを選んだ。
勝った。
その言葉だけでは、どうしても足りない。
こちらを振り返った、老騎士の顔が浮かんだ。
この身体の記憶の中では、もっと昔の顔も残っている。
父のそばにいた姿。
幼いレオンを見下ろす目。
俺はその人と、これから何をするか、一度も話していない。
ほかにも、五人。
領地が持ち直したからといって、あの六人が帰ってくるわけではない。
倉に麦が残っても、金が入っても、その代わりにはならない。
俺は、しばらく川を見ていた。
忘れなくなれば、許される。
そんな都合のよい話にも、したくなかった。
ただ、今いる人を、同じように支払うつもりはない。
あのとき分からなかったものを、今も分からないふりで選ぶことはしない。
◇
《換算》を開いた。
国力の項目が見える。
増えたものも、減ったものもある。
納品すれば材料が減り、代金が入る。
村へ麦を届ければ、倉の在庫は減る。
その数字だけを並べても、今日、誰が温かいものを食べられるかまでは分からない。
人口の項目は、そこにあった。
なくなってはいない。
俺が見ないでいる間も、能力から消えたわけではなかった。
指を伸ばす代わりに、画面を閉じた。
橋の方から、笑い声が聞こえる。
交代を終えた兵が、何か話していた。
「娘が、また背を伸ばしたそうでな」
「お前が帰らんから、見下ろすつもりで伸びてるんだろ」
「そこまで伸びたら、戸を直さなきゃならん」
俺は、少しだけ笑った。
戸を直すなら、大工へ頼めばいい。
代金が要る。
木も要る。
頼まれた大工は、ほかの仕事と日を合わせる。
そういう面倒が、この先も続けばよかった。
「レオン様」
振り向くと、クラウディアが立っていた。
先日の襟巻きを、身につけている。
「冷えますわ」
「そうだね」
妻は、何を見ていたのかとは聞かなかった。
俺の手へ触れ、指先の冷たさを確かめる。
「帰りましょう」
俺は、うなずいた。
◇
館へ戻ると、マルセルが待っていた。
「冬の間の見通しを、そろえました」
紙を広げる。
倉の食料だけではない。
村ごとの聞き取りと、これから届く分、支援を続ける家の見込みが入っている。
届いているものと、約束だけのものは、分けてあった。
家畜に回す餌も、人の食べ物と一緒に数えてはいない。
キャスパーが、隣へもう一枚置いた。
「道が塞がった場合、先に手当ての要る村も、こちらへ」
俺は、二人の説明を聞いた。
楽な冬にはならない。
急な病や、雪で遅れる便もあるだろう。
それでも、足りないと分かっている分を、見なかったことにはしていなかった。
買う分は手配してある。
出す金も、他の支払いと重ねてはいない。
食べる麦を確保するために、来年まく種を数え込んでもいない。
俺は最後まで読んだ。
「越せる見込みが、立ったんだね」
マルセルが、うなずいた。
「はい。見込みどおり進んでいるかは、この先も確かめますが」
「うん。それは続けよう」
彼は、ほんの少しだけ背を丸めた。
椅子に座り直しただけだ。
それでも、長く張っていた力が抜けたように見えた。
俺も、背もたれへ身体を預けた。
「ありがとう。二人とも」
キャスパーは、机の端にある紙へ目を向けた。
「お礼でしたら、ここへ話を届けてくださった方々にも」
村の名と、人の名が並んでいた。
俺一人では、会いに行くこともできなかった数だった。
◇
オットーが持ってきた報告の中に、パウルの家の話があった。
牛は元気にしている。
足も、少しずつよくなっている。
秋の作業は、妻と、近くの家の手を借りて終えた。
借りた麦をすべて返したわけではない。
返すのは、決めたとおり、これからの収穫からだ。
そのことは、本人も妻も覚えているという。
「商人とも、話せている?」
「はい。顔を合わせた際に、今の様子を伝えたと」
オットーが答えた。
それなら、いい。
困ったことが、返す日の直前まで隠れるより、ずっといい。
ヨストからは、来年比べる畑の目印が、雪でも分かるようにしたという報告もあった。
溝は、雨のあとに確かめている。
上と下の畑で、どこを見るかも決まった。
来年、必ず収穫が増えるとまでは言えない。
それでも、失敗すれば何も残らなかった去年とは違う。
何をして、どこが違ったかを、話せるようにしている。
俺は、紙をそろえた。
「春になったら、また行こう」
オットーがうなずく。
トマは、そっと俺の足元を見た。
「長靴は、用意しておきます」
あの泥の件は、春まで残るらしい。
◇
午後には、春の仕事の話をした。
全員を館へ呼び集めたわけではない。
それぞれの仕事の合間に届いていた相談を、キャスパーが分けてあった。
鍛冶場からは、若い者へ教える時間を取りたいという話。
人手として数えるだけでは、いつまで経っても任せられない。
その間に減る仕事と、教える側の負担も書いてある。
マルタからは、働きたいと言っている者の一覧が届いた。
できることだけでなく、来られる日と、家を空けられる時間も添えてある。
ベルタからは、春に増える荷について。
毎回別々に頼むより、近い村で日を合わせたいという。
ただし、今の馬と荷車だけで全部を引き受けるつもりはない。
エルゼも、ガルドも、まだ見ていない利益を先に使う案にはしていなかった。
材料が届かない日や、仕事を止める日があることを、最初から書いている。
俺は、一枚ずつ読んだ。
こちらから何をするか教えた紙ではない。
その仕事をしている人が、次にどうしたいかを考えて持ってきたものだ。
「増えたね」
思わず言うと、キャスパーがうなずいた。
「はい。閣下の机で、止めないようにしませんと」
俺は、紙から顔を上げた。
皆へ考えてくれと言いながら、全部を俺の返事待ちにする。
それでは、次は俺が詰まるところになる。
「任せた範囲で進められるものは、そちらで。新しい金や人が要るものを、一緒に見よう」
「承知しました」
キャスパーは、迷わず何枚かを自分の方へ寄せた。
残った紙も、十分に多かった。
◇
「全部は、できません」
マルセルが言った。
春の見込みを合計した紙を、こちらへ向ける。
俺は、すぐには返事をせず、一番下を見た。
「全部始めると、赤字か」
「最初に出る金が、先に尽きます」
懐かしい形の問題だった。
いや、懐かしがっている場合ではない。
今も目の前で起きている。
「人を教える話は、人数を絞って始められないかな。道の補修は、荷が止まるところを先に。新しい便は、注文が見えている分から」
キャスパーが、順に書き込む。
やりたいことを諦めるためだけに、数字を並べるわけではない。
どうすれば、始められるかを考える。
「鍛冶場は、領の兵の道具をまとめて直す日が分かれば、教える時間を取りやすいそうです」
オットーが言った。
「それなら、クラウディアたちと合わせよう。急な修繕まで待たせるわけにはいかないが、予定できる分はある」
ひとつ話すと、別の仕事につながる。
それを分かる人が、同じ机にいる。
俺は、自然と前へ身体を寄せていた。
「楽しくなってこられましたね」
キャスパーが言う。
「顔に出ている?」
「ええ」
マルセルは、合計の欄を指で押さえたままだった。
「楽しんでいただいて構いません。ここだけは、ご覧になっていてください」
よくできた仲間だった。
◇
話の途中で、クラウディアが入ってきた。
アイナも一緒だった。
兵の交代と、馬について相談があるという。
「ちょうどよかった。春の修繕の日を合わせたい」
俺が言うと、妻は紙を机へ置いた。
「こちらも、そのお話です」
盾の直し。
革紐の交換。
騎乗組が見張りに出る日と、馬を休ませる日。
アイナが、少し緊張した顔で説明した。
「四人で、毎日遠くへ出るのは難しいです。近い道と遠い道を分け、橋の連絡と重なるところは、一緒にできないかと」
俺は地図を見た。
「ブルーノたちには?」
「先に、伺いました。時刻を変えられない連絡は、残してあります」
キャスパーが、その箇所へ指を置く。
オットーも自分の記録を寄せた。
話が、俺を通らずに始まった。
アイナは一人で何でもできる者になったわけではない。
知らないことを先に聞き、任された者たちのことを考えるようになった。
それで、十分に役目を果たしていた。
クラウディアが、俺へ微笑む。
「いかがですか。こちらも、考えて参りました」
「助かるよ」
妻は、もう一枚の紙を出した。
「では、こちらが追加で必要な費用です」
マルセルが、静かに目を閉じた。
◇
紙には、必要なものだけでなく、今あるものも書いてあった。
馬を増やす前に、今いる馬の手入れと餌を確かめる。
騎乗できる兵を増やすなら、教える時間が要る。
道具も、新しく買う分と、直せる分を分ける。
俺は、最後まで読んだ。
「よくまとまっているね」
妻の顔が、明るくなった。
「アイナが、数字をそろえてくれましたの」
「私は、足りないところを伺っただけです」
アイナが慌てて言う。
クラウディアは、首を振った。
「私だけなら、もう少し多く頼んでおりました」
マルセルが目を開けた。
「アイナ殿、ありがとうございます」
予想していなかった方向から礼を言われ、彼女はますます困った顔になった。
俺は笑って、紙を机へ戻した。
「まずは、直せるものから進めよう。増やす方は、春の入金と、ほかの仕事を見て決める」
「はい」
誰も、全部を断られた顔はしなかった。
何を先に進めるかが、分かったからだ。
◇
窓の外は、もう薄暗くなっていた。
話し合いを終え、キャスパーたちが紙を持って部屋を出る。
マルセルは残った金額をもう一度確かめ、今日はここまでと帳簿を閉じた。
机に、買ったばかりの重しが残った。
鍛冶場の若い者が考えた、小さな鉄の塊。
それで、春の予定を押さえる。
最初に見た帳簿では、足りないものばかりを数えていた。
今の紙には、やりたいことが並んでいる。
人も、物も、金も、まだ十分ではない。
でも、足りないと分かったとき、相談できる相手がいる。
俺の知らない答えを、持っている人がいる。
この領地を、自分一人で豊かにすることはできない。
それでいいと思えた。
クラウディアが、扉の前で待っていた。
「お食事にしましょう。今日は、温かいうちに」
「そうだね。すぐ行く」
俺は最後の紙へ、明日聞きたいことを一つ書いた。
答えではなく、質問を。
それから、椅子を戻した。
六人を忘れずに、この先も生きていく。
戻らないものを数える日も、また来るだろう。
その日も、誰かが畑へ行き、誰かが道具を直し、誰かが食卓を用意してくれる。
俺も、その中で仕事をする。
「レオン様」
妻が、差し出した手を少し揺らした。
俺は笑って、その手を取った。
明日も、聞きたい話がある。
第一章 完




