第51話 奥様、今回は思い切りどうぞ
クラウディアの支度は、早かった。
村から来た男に道を聞き終えた頃には、もう鎧を着ている。
髪はまとめられ、腰には剣。脇に置いた盾も、傷みを確かめて使えるものを選んであった。
「いつでも参れますわ」
俺は、まだ上着を着るところだった。
「ああ。こちらも急ぐ」
「慌てなくてよろしいのですよ」
微笑む妻の後ろを、兵が走っていった。
全員、かなり慌てている。
無理もない。
奥方様が完成してしまったのに、自分の革紐が結べていないのだ。
「橋には、知らせだけを送る。兵は動かさないように」
キャスパーへ伝えると、彼はうなずいた。
館と町にも兵を残し、こちらへ出す人数を確かめる。
今回連れていく兵は十二人。
そのうち、アイナを含む四人が騎乗する。
俺とクラウディアは、その外だ。
トマは俺の護衛についてくれる。
村の男から聞いた道なら、暗くなっても人が歩いて通れる。
ただし、山沿いの近道は使わない。
急ぐからといって、日暮れの山道で馬の足を折るわけにはいかなかった。
「村へ着いたら、まず人と家畜を集める。暗いうちに山へ入るつもりはないよ」
妻がうなずく。
その横で、アイナが小さく息を吐いた。
安心するところが、俺と同じだった。
◇
村へ着いたとき、家々の窓には灯りがともっていた。
外で待っていた男たちが、俺たちを見て声を上げる。
兵が来た、と家へ知らせに走った。
襲われたのは、村の端にある家畜の囲いだった。
死んだ羊が二頭。
ほかの家畜は、石積みの納屋と、その隣の囲いへ移したという。
俺は、まず人の数を確かめてもらった。
「山へ見に行った者は?」
「戻っております。今は、誰も」
「よかった。今夜は、出ないでほしい」
村の男がうなずく。
家畜を追いかけて林へ入る者が出なくて、本当によかった。
クラウディアは壊れた囲いを見て、地面へ膝をついた。
割れた柱と、泥に残った足跡を確かめる。
「猪に似た魔物ですわね。普通の猪より、かなり大きい」
村人が、何度もうなずいた。
「背に、硬い毛が。木にぶつかっても、そのまま」
「近くで止めようとしなかったのは、正解です」
妻は立ち上がり、兵を呼んだ。
入口を見張る者。
納屋のそばへ残る者。
交代で休む者。
持ち場が決まっていく。
アイナは村人に細い道の行き先を聞き、家と家の間へ兵を一人置いた。
「ここも、通れるんですね」
「裏の飼い葉置き場へ。人なら」
「小さいものが来るかもしれません。塞げるものはありますか」
村人が、使っていない柵を持ってきた。
完全に止めるものではない。通れば音がして、分かるようにする。
俺は、彼女たちの話を聞いてから、借りた家へ入った。
勝手に指示を重ねる仕事は、なかった。
◇
夜の間、魔物は囲いまで来なかった。
ただ、林の方から枝が折れる音がした。
家畜が騒ぎ、見張りが隣へ声をかける。
俺も目を覚ましたが、飛び出す前にトマが戻ってきた。
「持ち場の者が、見ています。今は、そのままで」
俺は、椅子へ座り直した。
目が覚めたからといって、今の俺にできることが増えるわけではない。
それでも、眠り直すまでには、少し時間がかかった。
朝になると、村の狩りに慣れた男が、林の外側から足跡を確かめた。
兵を二人つけ、深入りはさせない。
戻ってきた男は、妻へ場所を示した。
「倒れ木の辺りにおります。見えたのは四頭。奥は、分かりません」
林を抜けると、刈り取りの済んだ畑がある。
その向こうが村の囲いだ。
魔物は夜に下りてきて、また林際へ戻ったらしい。
クラウディアは、村の男へ細かく道を聞いた。
それから、アイナを呼ぶ。
「私が前へ出ます。あなたは、後ろを」
「はい」
アイナは、いつものように即座に答えてから、こちらを見た。
俺ではなく、妻の顔を。
「林の中までは、追いませんね」
近くの兵が、動きを止めた。
「ええ。畑へ出てきたところを」
「逃げたものがいても、見えなくなったら止まってください」
「分かっております」
アイナが、もう一度うなずく。
兵たちは、ゆっくり作業を再開した。
誰かが、小声で言った。
「よく言った」
俺も、同じことを思った。
◇
朝のうちに、道と持ち場を決めた。
住民は、戦う畑から離れた家へ寄る。
動かせない家畜は兵が守り、必要なときに移す先も空けておく。
俺はトマと一緒に、畑を見渡せる土手の後ろへ入った。
足元は乾いている。
逃げる場合の道も、先に歩いて確かめた。
アイナは馬に乗ったまま、畑と村の間を見た。
ほかの騎乗兵は、道の分かれるところへ散る。
魔物へ馬で突っ込む役ではない。
離れた持ち場の間を走り、遅れた者や抜けた魔物を知らせる。
兵の数は多くない。
だから、全員が同じものを見てしまうと、別のところが空く。
妻が、盾を持ち直した。
俺はその横顔を見た。
恐ろしく落ち着いていた。
楽しそうだ、と言い換えても、大きくは間違わない。
「後ろは、こちらで見るよ」
「はい」
「君は前を頼む。今日は、思い切り動けるようにしたつもりだ」
クラウディアが、俺を振り返った。
頬が、わずかに緩む。
「お任せくださいませ」
実に美しい笑顔だった。
その笑顔のまま、妻は畑へ下りていった。
「おい、クソども! 人ん家の飯に手ぇ出してんじゃねえぞ!」
俺は目を閉じた。
近い。
今日は、よく聞こえる。
◇
魔物は、声だけで一斉に飛び出してきたわけではなかった。
最初に、林際の草が揺れた。
低い背が見え、次に、土を掘るような鼻面が現れる。
普通の猪なら、ここまで肩が高くはないだろう。
背の毛は黒く束になり、牙が横へ張り出していた。
兵が、用意した位置から矢を放つ。
一頭の脇へ刺さった。
魔物が頭を振り、こちらを向く。
走った。
土が跳ねる。
あんなものが家の壁へぶつかったら、どこまで持つだろう。
俺の考えがそこへ届く前に、クラウディアが動いた。
正面に立っていた妻が、半歩ずれる。
魔物の牙が盾を擦った。
嫌な音がした瞬間、剣が首の横へ入る。
妻は、その場で踏ん張って受け止めなかった。
突進を横へ流し、通り過ぎる身体へ刃を走らせる。
魔物が畑へ転がった。
土を削って止まる。
クラウディアは、もう次を見ていた。
「次!」
俺は、思わず返事をしそうになった。
呼ばれているのは、俺ではない。
二頭目が、妻の右へ回った。
三頭目は、矢を放った兵の方へ向かう。
「右の列、下がらない! 槍先をそろえて!」
アイナの声が飛んだ。
兵が足を止める。
妻の方へ寄りかけた者が、持ち場へ戻った。
クラウディアは二頭目を追って大きく回らず、三頭目へ進路を変えた。
兵の槍を嫌って頭を振った魔物の、横へ入る。
盾で鼻先を押し、剣を振り下ろした。
長い牙が、土へ落ちた。
魔物が暴れ、兵が二歩だけ退く。
そこへ妻の二撃目が入った。
叫び声を上げる暇もない。
俺は、目の前の動きを追うだけで精いっぱいだった。
◇
馬の蹄が、土手の下を走った。
「左の茂みに、もう一頭!」
騎乗兵の知らせに、アイナが首を巡らせる。
四頭ではなかった。
小さめの一頭が、林の端から村の方へ抜けている。
小さいと言っても、犬などとは比べものにならない。
その先には、家畜を移した小さな囲いがあった。
番をしていた村人が、戸を閉めようとしている。
怖がった山羊が、隙間へ頭を入れた。
戸が閉まらない。
「囲いへ二人! 馬は近づけすぎないで!」
アイナが指示を出した。
自分は、戦っている兵の列を見続けている。
俺は《換算》を開いた。
目の前に見えている一頭。
移動を鈍らせる補助を選ぶ。
範囲を広げず、時間も短くする。
消費の見込みを確かめた。
木材の価値が減る。
量を増やせば、次の順位へ及ぶ。
そこで、止めた。
この範囲なら、失った分を補う手がある。
納品用の鉄や、種麦まで消費を広げるつもりはなかった。
守るために使う。
何が失われるかを見たうえで。
選択した。
魔物の足が、急に土を掴み損ねた。
走っているのに、身体が進まない。
短い間だけ、突進の勢いが落ちた。
その間に、兵が囲いの前へ入る。
村人が山羊を引き戻し、戸を閉めた。
「間に合った!」
トマの声に、俺は息を吐いた。
能力は、魔物を倒していない。
戸を閉めたのも、槍を構えたのも、人だった。
◇
クラウディアが、戻ってきた。
囲いへ抜けた一頭は、兵の槍へ向かって頭を振っていた。
妻はその横へ走り込み、盾の縁で顎を打ち上げる。
柔らかい喉へ、剣を突き入れた。
魔物が倒れた。
兵の一人が、支えにした槍と一緒に尻餅をついた。
妻はそちらを見た。
「立てるか!」
「はい!」
「じゃあ、まだ周りを見ろ!」
兵は跳ね起きた。
その元気があれば、大きな怪我ではなさそうだ。
畑では、残っていた二頭が向きを変えていた。
大きい方が林へ戻り、小さい方が続こうとする。
妻が、一歩踏み出す。
「奥様! 林際までです!」
アイナが叫んだ。
クラウディアの足が止まる。
兵たちが、息を止めた。
妻は盾を上げ、逃げ遅れた方へ進んだ。
林へ入る直前、横腹へ剣を入れる。
よろけた魔物を、そこで倒した。
最後の一頭が、草の中へ消える。
「追いません!」
アイナが、今度は兵へ告げた。
「村側を確かめて。怪我をした者は、知らせてください!」
妻は林を見ていた。
それから剣を下ろし、引き返してくる。
俺のところまで戻ると、兜を上げた。
「一頭、逃してしまいましたわ」
「追わずに戻ってくれて、助かった」
俺が言うと、妻は少し驚いた顔をした。
「後ろを頼んだ人の声を、聞いてくれたからね」
彼女はアイナへ目を向けた。
アイナはまだ、兵の数を確かめている。
「……よく見ておりますわね、あの子」
妻の声は、穏やかだった。
◇
逃げた一頭は、そのまま放っておかなかった。
兵をまとめ直し、村人の案内で林の外から様子を見た。
深い山へ追い込むつもりはない。
戻ってくる道を見張り、休んだ兵と交代する。
昼過ぎ、その一頭が別の斜面から畑へ出た。
同じ家畜の匂いを追ってきたらしい。
今度は、先に騎乗兵が知らせた。
住民は退き、兵は位置につく。
クラウディアが、深く息を吸った。
「お帰り、クソ野郎!」
魔物に、帰ってくる家を間違えたと教えてやりたかった。
矢を受けて足を乱したところへ、妻が入った。
盾が跳ね、剣が振られる。
戦いは、朝よりも短かった。
俺の能力を、もう一度使う必要はなかった。
見つかった五頭は、すべて倒した。
ほかにいないかは、夜と翌朝も見張る。
村人をすぐ山へ戻すことはしなかったが、囲いの外へ出る者の顔から、ようやく強張りが薄れていった。
◇
兵の負傷は、二人だった。
一人は転んだときに手を擦り、もう一人は盾を押されて手首を痛めた。
どちらも手当てを受け、今日は重い物を持たせない。
全員、自分の足で歩いている。
家畜を失った家の者は、倒れた魔物を黙って見ていた。
喜んで終わりにできる人ばかりではない。
俺はそちらへ行き、今いる家畜と、残った餌のことを聞いた。
壊れた囲い。
踏み荒らされた飼料。
怖がって乳が出なくなった山羊。
明日からの仕事も、見えてきた。
その後ろで、クラウディアが村の子供に水をもらっていた。
兜を外し、髪を整えている。
「ありがとう。助かりますわ」
朝の声と、同じ喉から出ている。
何度聞いても、慣れない。
俺に気づいた妻が、少し目を伏せた。
「レオン様。お見苦しいところを」
近くの兵が、一斉に手元を見た。
「よく守ってくれた。ありがとう」
俺が言うと、妻は嬉しそうに顔を上げた。
そこへ、アイナが来た。
「奥様。盾の留め具が、緩んでいます」
「あら」
「確認するまで、次の戦いは」
「分かっておりますわ」
妻は、盾を差し出した。
アイナが両手で受け取り、革紐を見る。
村の男が、その姿を見て、俺へ囁いた。
「あの方が、副官で?」
俺は、少し考えた。
「今日は、そういう仕事をしてくれたね」
正式な役目は、帰ってから話そう。
前へ出る者がいて、後ろを見る者がいた。
だから今日は、両方が戻ってきた。
俺は、家畜の囲いへ歩き出した。
今度はこちらが、明日の暮らしを戻す番だった。




