第50話 増えた国力、使えない国力
国力は、増えていた。
誰もいなくなった執務室で、俺は目の前の表示を見ていた。
《換算》の国力の項目。その横に、前日より増えたことを示す数値がある。
今日は、初回の納品を終えた金が戻ってきた。
分かりやすい理由だ。
内訳を開く。
財政の値は上がっている。
生産や物流の項目にも、領地へ来たばかりの頃とは違う厚みがあった。
俺は椅子へ深く座り直した。
「よく、ここまで来たな」
最初に見た帳簿を思い出す。
ない金。足りない麦。頼れる者を失った館。
王都へ行っても、人は送れないと言われた。
今は、キャスパーが隣の机で仕事をする。
マルセルが金を数え、オットーが記録をそろえる。
鉱山から石が届き、鍛冶場で鉄になり、領外へ売れる。
数字だけが増えたのではない。
その数字を見て、思い浮かべる顔が増えた。
そこまで考えて、俺は手を止めた。
視線の下に、人に関する項目があった。
◇
表示を、開かなかった。
この国に戻ってきた者がいる。
新しく住むことを選んだ者もいる。
怪我から回復し、また働けるようになった者がいる。
それを喜ぶことと、消費できる値として確かめることは、同じではなかった。
あのときも、画面には数字が出た。
敵が消えた。
自分を振り返った老騎士も、いなくなった。
六人。
その数は、忘れようとして忘れられるものではない。
俺は、机の上へ手を置いた。
木の硬さが、掌へ返ってくる。
目の前の表示は、何も責めない。
何も慰めない。
そこにある選択肢を、ただ示している。
「使わない」
声にすると、部屋の静けさが少し戻った。
俺は項目を閉じ、物資の方へ視線を移した。
使うつもりのないものを、いつまでも見ている必要はない。
その代わり、使う可能性のあるものを、今度こそ分からないままにしない。
◇
食料の値は、まだある。
先日、村へ支援を届けたからといって、領内からすべて消えたわけではない。
俺は、机へ届いていた倉の記録を開いた。
領の倉にある分。
すでに村へ渡した分。
次の便で出す分。
冬のために残す分。
それから、種に使う麦。
麦という文字が、何度も出てくる。
同じ麦でも、行き先が違う。
口に入れる時期も違う。
画面の値だけなら、ひとまとまりに見える。
だが、これを減らせば、誰の何がなくなるのか。
俺は空いた紙を取り、上に大きく書いた。
『あるもの』
少し離して、もう一つ。
『使ってよいもの』
その間に線を引いた。
前世なら、預金残高と手元の余裕を同じにしないよう、何度も話してきた。
通帳には金がある。
だが、来週には給料を払い、月末には仕入れ先へ送る。
その支払いを忘れて、設備を買ってしまえば困る。
今の俺は、設備どころか、領民の冬を使いかねない。
背もたれから身体を起こした。
いい数字を見て、少し浮かれていた。
◇
紙へ、消費したくない理由を書いていく。
種麦を使えば、来年まく分がなくなる。
納品前の鉄を使えば、約束した品を作れない。
荷車の修繕に回す材を失えば、食料を届ける便が止まる。
同じ量なら、同じ損失。
そんなはずがなかった。
しかも、《換算》には由来による順序がある。
自分が深く関わって作ったものほど、先に消費される。
あの見張り小屋は、実に分かりやすかった。
建てた。
敵を遅くした。
消えた。
分かりやすいが、二度とやりたくない授業だった。
住民たちが考え、手を動かして生んだ価値は、その後ろにある。
だが、後ろにあるから絶対に失われない、という話ではない。
俺は『住民が作ったもの』と書きかけて、止まった。
その一行だけで、安全な山へ分けるわけにはいかない。
どこまで消費が及ぶかを、毎回確かめる必要がある。
能力の表示と、倉の記録を見比べる。
同じ言葉で書いてあっても、ぴたりと重なるわけではなかった。
領内の価値を示すものと、実際の品の所在を記したものだ。
画面にない事情は、人に聞くしかない。
俺は、質問を紙に残した。
明日の朝、マルセルたちに確かめよう。
夜のうちに、全部を結論にする必要はない。
そのくらいは、前世から学んでいた。
◇
「それは、何の紙ですの?」
声に振り返ると、クラウディアが戸口に立っていた。
手には盆を持っている。
画面を閉じる。
彼女には、机の紙と、何もないところを見つめる俺しか見えなかっただろう。
「使えるものを、数え直していた」
「今日、お金が入ったと聞きましたわ」
「入ったよ。マルセルが、ずっと眺めていた」
妻は小さく笑い、杯を置いた。
湯気が上がっている。
「では、軍の方にも」
「明日の朝にしてくれるかな」
早い。
金が入った話には、必ず使い道がついてくる。
クラウディアは、向かいの椅子へ腰を下ろした。
「剣を新しくしてほしいわけではありません。盾の直しと、傷んだ革紐です」
俺は杯へ伸ばした手を止めた。
「それなら、話を聞こう」
「明日の朝では?」
「必要なものを、冗談と一緒に流すわけにはいかないだろう」
妻は、少し嬉しそうに笑った。
修繕の必要な盾は、すでに分けてあるという。
使えるものを回し、傷みのひどいものから直している。
ただ、同じ部分を何度も直している品もあり、次は作り直した方がよいものもあるらしい。
「明日、記録を見せてもらおう。鍛冶場の予定とも合わせたい」
「ええ」
妻は、俺の紙へ目を落とした。
『あるもの』
『使ってよいもの』
「兵も、そうですわね」
思わず、顔を上げた。
◇
「館にいる兵を数えれば、人数は分かります。でも、全員を同じ日に出せるわけではありませんもの」
クラウディアは指を折った。
見張り。
交代で休む者。
怪我が治りきっていない者。
馬の世話と、連絡に出る者。
「剣を持って立てるからといって、そのまま一日戦えるとは限りません」
「君から、それを聞けて安心した」
「私だって、皆さんが私と同じではないことくらい、分かっております」
妻は少し唇を尖らせた。
「荷車も?」
「もう、分かっております」
つい、余計なことを言った。
俺は謝って、温かい杯を持った。
「橋の方は?」
「ブルーノが交代を見ています。デニスとも話して、片方が休んでも指示が止まらないように」
俺が不在でも、妻が不在でも、守る者がいる。
その形を作ってきた。
クラウディアは少し声を落とした。
「ただ、気になることは、残っていますわ」
「攻めてきた時期か」
妻は、うなずいた。
最初の大きな攻勢では、彼女がいなかった。
次は、俺が王都へ出ていた。
一度なら偶然と言える。
二度でも、偶然の可能性はある。
だが、何も考えなくてよい理由にはならない。
「誰かが知らせたのか。こちらの動きを見る手段があるのか。まだ、決められない」
俺が言うと、妻も同意した。
「出入りする商人を、片端から捕まえるわけにもいきませんものね」
「それをしたら、先にうちの商売が止まるよ」
疑いだけで人を縛れば、物資も話も届かなくなる。
今の領地には、その方が痛かった。
「外出を全部隠すより、いなくても守れるようにする方を、先に進めよう」
「ええ。私がいると知られたら、来なくなるかもしれませんが」
少し、残念そうに言った。
「それは、とてもよいことだよ」
「分かっておりますわ」
返事は完璧だった。
顔は、少しだけ納得していなかった。
◇
妻が帰る前に、俺は一つ聞いた。
「橋で、連絡を待つ間に動けなくなることはないかな」
クラウディアは、すぐに答えた。
「目の前の襲撃なら、待ちません。問題は、どこまで追うかです」
橋を守る。
追い払う。
その先へ出る。
それぞれ、必要な判断が違う。
「逃げる敵を追って、後ろを空けるわけにはいきません。向こうが、それを狙っている場合もありますから」
「君が前へ出たときは?」
「止める役を決めてあります」
俺は、少し考えた。
「その人、大変だね」
クラウディアが俺を見た。
「命令で決めたことには、従いますわよ」
「うん。それは分かっている」
分かっているが、声をかける兵の心臓には、それなりの負担がありそうだった。
妻は、空になった杯を盆へ戻した。
「レオン様も、同じです」
「俺?」
「お一人で、何でも確かめに行かないでくださいませ。現場が大事なのは、分かりますけれど」
長靴を泥に残しかけた話が、どこまで伝わったのだろう。
「気をつける」
「はい。私も、気をつけます」
互いに、少し怪しい約束をした。
ただ、誰が止めるかを決めておく意味は、よく分かった。
◇
翌朝、俺は紙を持って、マルセルたちと話した。
《換算》の細かな表示を、そのまま説明するためではない。
実際にどの物資が、いつ必要なのかをそろえるためだ。
「臨時に使うとしても、ここまでは残したい。その理由も、一緒に見られるようにしてほしい」
俺が言うと、マルセルは倉の記録を寄せた。
「食料については、次の便と、館や兵の分を分けてあります。ただ、村からの追加の話は、まだ届きます」
「全部、今の数字で決まったとは思っていない。見込みは、見込みと分かればいい」
オットーが、印のつけ方を示した。
実際に倉にあるもの。
すでに出したもの。
これから入る予定のもの。
届くはずの麦を、届いた麦へ混ぜない。
約束した支払いを、まだ出ていないからと忘れない。
新しい立派な帳簿を何冊も作る話ではない。
今ある記録で、取り違えやすいところを直していく。
「木材は、置き場所も分けられます」
キャスパーが言った。
「ただ、全部を動かすと、かえって人手が要ります。まず、使う予定の決まっているものに札を」
「そうしよう。触ってはいけない理由が、その場で分かるように」
マルセルは、俺の紙を見た。
「国力が増えたので、余裕をお探しなのかと思いました」
「余裕を探しているのは、間違いないよ」
「見つかりましたか」
俺は、机に並んだ紙を見た。
よく増えている。
よく使い道が決まっている。
「思ったより、少ない」
「でしょうね」
実に落ち着いた返事だった。
◇
昼前、倉へ行った。
オットーは、倉の者と札を確かめている。
冬の修繕に回す板は、まとめてあるが、全部が同じ用途ではない。
厚さも長さも違う。
一枚の札に書き切れないことは、倉の者が覚えていた。
「この短い分なら、別の使い方をしてもよいかと。大工が、残りになると言っておりました」
俺は、その板を見た。
「残りでも、焚き木や小物に使う予定はない?」
「あります。ただ、長いものを切るよりは、困りません」
なるほど。
捨てる物だから使ってよい、というほど単純ではない。
それでも、失ったときに困る程度は違う。
俺は、どの場所の何かを覚え、記録にも残した。
消費の順と範囲を確かめられる場面なら、こうした事情を合わせて判断する。
品物に札をつけたから能力が避けてくれる、ということではない。
そこだけは、間違えないようにした。
近くでは、袋を繕っていた男が、縫い終わったものをまとめている。
前にマルタが連れてきた、足を悪くした元の荷運びの男だ。
「今度は、底も持ちそうです」
彼は、袋を広げて見せてくれた。
俺は礼を言い、傷んでいたところを見た。
国力の増え方には、こういうものもある。
新しい鉱山だけではない。
一度使えなくなりかけたものを、また使えるようにする人の手だ。
画面のどの値に、どれだけ入るのかは分からない。
分からなくても、助かっていることは分かった。
◇
午後、軍の修繕の話を片付けた。
盾と革紐は、傷みの程度で順を決める。
予備として持てる数も確かめ、同じ日に必要な分を全部修理へ出さないようにする。
クラウディアは、最初からそのつもりで紙を持ってきた。
俺が口を挟む前に、キャスパーと話が進んでいく。
「こちらの盾は、まだ使えます。ただ、次に同じところへ受けたら、分かりません」
「それを先に直しましょう。代わりに回せるものは?」
妻が指を置く。
キャスパーが日付を書く。
剣で戦う姿ばかりが強さではない。
戦う前に、誰が何を持つかを考えることも、守りの一部だった。
話が終わると、妻が俺を見た。
「いかがですか」
「助かる。これなら、頼みやすい」
笑顔が、一段明るくなった。
「では、次に弓の」
「順番に聞こう」
褒めると、提案が増える。
営業としては、よく分かる動きだった。
◇
その日の夕方、山側から使いが来た。
戸口へ通された男は、急いで走ってきたらしく、肩で息をしていた。
トマが水を渡す。
俺は、まず座るように言った。
「村で、何があった?」
「囲いが、破られまして。獣が……いえ、いつもの獣とは違います」
家畜が襲われた。
山際に置いていた飼料の近くにも、大きな足跡が残っている。
姿を見た者の話では、魔物らしい。
人に怪我はない。
ただ、家畜を近くへ寄せ、子供を外へ出さないようにしているという。
「何頭か、見えた?」
「一度に見たのは二頭です。ほかにも、いたかもしれません」
見ていない数を、埋めさせることはしなかった。
場所と時刻を聞き、地図を出してもらう。
キャスパーが紙を広げた。
クラウディアは、椅子から立っていた。
「支度をいたします」
声は、落ち着いていた。
速さだけが、ひどく頼もしかった。
「橋の兵は動かさない。こちらから出せる者を確かめよう。まず、村へ近づく道と、人を寄せる場所を」
俺が言い終える前に、トマが伝令を呼びに向かった。
妻は兵の詰め所へ行く。
机には、朝からそろえた紙が残っていた。
食料。道具。修繕。今、動ける人。
まだ、余っているものなど、ほとんどない。
それでも、何を守り、何を動かすかを、以前よりずっと具体的に話せる。
俺は、能力の画面を開く前に、村の男へ向き直った。
「道を教えてほしい。雨で通れないところは、あるかな」
まず、そこからだ。




