第48話 畑のことは農家に聞く
長靴を用意した者には、先を見通す力があった。
履いた者には、足元を見る力が足りなかった。
「領主様、そこは」
ヨストの声と、俺の右足が沈んだのは、ほぼ同時だった。
ぬ、と地面が鳴る。
足を上げると、長靴だけがその場に残ろうとした。
「……なるほど」
「踏まない方がよいところです」
「今、よく分かった」
トマが腕を貸してくれた。
長靴ごと引き抜く。ひどく不満そうな音を立てて、泥が俺を放した。
麦を届けた日から、二日。
約束どおり村へ来た俺は、視察を始める前に、土の状態を身をもって確かめていた。
「こっちを歩いてください。草がある方です」
ヨストが先に立つ。
俺は逆らわず、彼と同じところに足を置いた。
後ろではオットーが、紙を濡らさないよう胸元へしまっている。
畑の持ち主たちも集まっていた。パウルの家からは妻が来ている。
「ご主人は?」
「家で、道具を見ております」
「足も休めているかな」
「立ってやらなくてもできることを、渡してきました」
抜かりがない。
その管理能力を、館にも分けてほしかった。
◇
溝には、まだ水が残っていた。
泥と枯れ草が重なり、畑の端に浅い水たまりができている。
ここをさらえば、パウルの畑は乾きやすくなる。
だが、水は消えるわけではない。
「下まで、歩こうか」
俺が言うと、ヨストはうなずいた。
畑の間を下り、荷車の通る道に出る。
水の通り道は、その道の下を抜けていた。
石で囲った狭い口に、枝と土が詰まっている。
道の向こう側で、年配の農夫が腕を組んだ。
「上だけ掘られても、うちに来るんです」
「前にも、そうなった?」
「ええ。雨が続いた年に。畑の端へ、まとめて」
彼は、平らに見える地面の一角を指した。
俺には、言われなければ分からない。
ヨストはそこを見てから、少し横へ歩いた。
「前は、この脇へ流していたはずだが」
「草が伸びて、今は見えませんよ」
農夫が手鎌で草を払った。
その下から、細いくぼみが現れる。
くぼみは畑の縁を回り、さらに下の大きな溝へ続いていた。
俺は、来た方を振り返った。
パウルの畑。
途中にある二軒の畑。
道の下。
この畑の縁。
自分のところだけ水を抜けば、誰かのところに水が増える。
現場へ来る前から、その理屈は分かっていた。
どこへ増えるかは、今、初めて分かった。
「ここまで通してから、上を開ける必要があるんだな」
「そうです。先に上を触ると、仕事をする者の足元にも水が来ます」
ヨストが答えた。
俺はうなずき、オットーを呼んだ。
「絵にできる?」
「道と、畑の持ち主の名前を入れてみます」
測った図ではない。
だが、誰と話し、どこを作業するかは分かる。
オットーは道端の石に紙を載せ、短い線を引き始めた。
◇
話がまとまりかけたところで、農夫が言った。
「ただ、土をこちらへ積まれるのは、困ります」
溝を掘れば土が出る。
どけた土をすぐ脇へ山にすれば、また水をせき止めるか、次の雨で戻る。
ヨストが少し考えた。
「道の窪みに使えないか」
「濡れた泥を入れても、車輪にはじき出されませんか」
今度は、若い農夫が口を挟んだ。
俺は、出かけた言葉を飲み込んだ。
危ない。
道の補修にも使えて一石二鳥だ、と言うところだった。
「それもそうだな。石の混じった分は分けるか」
ヨストは素直に言い直した。
それから農夫たちで、草を寄せる場所と、泥を置く場所を決めていく。
誰か一人が、何もかも知っているわけではない。
荷車を使う者は道を知っている。
下の畑の者は水の出口を知っている。
ヨストは、その話をつないでいた。
「道の下に手を入れるなら、上を車が通らないようにしないと」
トマが言った。
「人を置ける?」
「はい。まず、村の方へ車が来る予定を聞きます」
彼は取りまとめ役のところへ向かった。
俺も、ようやく自分の仕事へ戻る。
「費用の話をしよう。道の下と、何軒も使う溝は、領から出す。自分の畑だけの溝は、家ごとの仕事として、どこまで手が回るか聞かせてほしい」
農夫たちが顔を見合わせた。
「働いた分の税を、減らしていただけるんですか」
「今日は代金を払う。何日働けばいくら減る、という話と混ぜない方がいい」
急ぎで人を出してもらうための費用は、マルセルと相談してきた。
ただし、ここへ来た全員を何日でも雇える金額ではない。
オットーが紙を出す。
人数と、今日使える時間を確かめた。
一人は午後から、自分の畑へ戻る。
一人は道具なら貸せるが、作業には出られない。
パウルの妻は、夫の代わりに無理をして一日出ようとしていた。
「自分の家の種まきの支度が遅れたら、困るだろう。今日は、場所の確認をしてもらえただけで助かった」
俺が言うと、彼女は少し迷ってからうなずいた。
そこへ、村の男が息を切らして来た。
肩に鍬を担いでいる。
「領主様がおいでと聞きまして。うちからも一人、出した方がよいかと」
「頼む仕事と代金を聞いて、できそうならでいい。家の仕事は?」
「麦を、干しております」
「雨が来たら?」
「……妻に、叱られます」
「そちらを優先してくれ」
男は、少しほっとした顔で空を見た。
俺の視察で領内に新たな夫婦喧嘩を発生させるわけにはいかない。
◇
作業は、下の出口から始めた。
草を刈り、泥を上げる。
ヨストは掘る深さを見て、残す土を指示した。
畑との境を、むやみに崩してよいわけではないらしい。
俺も空いた鍬へ手を伸ばした。
「領主様」
「少しなら、できると思うが」
「その鍬は、もう一人が戻ったら使います」
静かに手を離した。
人手だけでなく、道具にも数があった。
トマが、刈った草を運ぶ籠を差し出す。
「こちらなら」
「ありがとう」
仕事をもらえた。
領主なのに、採用してもらった気分になった。
草の籠を運びながら、ヨストに尋ねる。
「こういう手入れは、以前も皆でやっていた?」
「やっておりました。ただ、今年は人が減って、牛を貸す順も変わりましたので」
自分の刈り入れが終わらない。
手の空いた者も、別の家の手伝いへ行く。
溝は、まだ流れるから後にする。
その「後」が重なった。
怠けた者を見つければ済む話ではなかった。
「全部を、今日きれいにはできません」
「分かっている。次の雨までに通すところを、先に頼もう」
ヨストは、鍬の先で道の下を示した。
「あそこが詰まったままだと、上を何日掘っても同じです」
俺は、土をかぶった石の口を見た。
領内の仕事も、ときどき同じ顔をする。
皆が忙しく動いているのに、最後の一か所で止まっている。
今日は、そこが見えていた。
◇
昼前、俺たちは隣の畑へ移った。
作業の指揮はヨストに任せ、下の畑の農夫に案内してもらう。
こちらは、パウルの畑ほど水が残っていない。
刈り株の間も、歩きやすかった。
「同じ麦でも、こちらはよく採れたと聞いたんですが」
「うちは少し高いですからね。それと、この辺は先に溝を通しておりました」
「種も、違う?」
「もとは同じだったと思います。ただ、毎年、残すものは選んでいます」
家から持ってきてもらった穂を、手の上へ載せる。
太く実ったものばかり選べばよいのかと思ったが、それだけではないらしい。
「実がよくても、倒れたところからは、あまり取らないようにしております。うちは風が抜けますので」
風。
水。
土。
刈り取る時期。
知っている単語だけなら、いくつも出せる。
目の前の畑で何を変えるべきかとなると、途端に自信がなくなった。
「ほかの家にも、その話はしている?」
「聞かれれば。ただ、うちと同じにしても、低い畑では違いますよ」
いい答えだった。
成功した方法を、そのまま全員に配ればよいとは思っていない。
俺は、オットーに書いてもらった。
種を残すときに何を見ているか。
同じ村でも、畑で違うところ。
「それが、何かのお役に?」
「来年、採れたときに比べたい。よかった、悪かっただけで終わらせず、何をしたかも残しておきたいんだ」
全部の畑を調べる仕事ではない。
まず、協力してくれる家の、比べやすい小さな場所からだ。
農夫は少し考え、畑の一角を指した。
「なら、あそこを分けておきましょう。溝を直した脇と、少し離れたところで」
「頼めるかな。作付けするものと、種の量も、分かる範囲で」
「升ならあります。広さも、同じくらいには」
来年の実りは、今日の午後には出ない。
だから、忘れない形だけを今日作る。
オットーが、紙の端へ畑の目印を描いた。
◇
作業場所へ戻ると、道の下を通る穴が見えていた。
詰まっていた枝を引き出し、泥をさらう。
上に載る石が動いていないか確かめてから、道を開ける。
トマが待っていた荷車を通した。
「まだ、上は開けないでくれ」
ヨストが声を飛ばす。
下の畑の農夫が出口まで歩き、手を上げた。
それを見て、ようやく上の泥を少しずつ崩した。
濁った水が動いた。
最初は細く、次に草の切れ端を押して流れてくる。
俺は、思わず一歩近づきかけた。
「領主様」
「分かってる。ここから見ているよ」
トマが、差し出しかけた腕を戻した。
朝の件で、俺への信用が一段落ちている。
水は道の下を抜け、畑の縁へ出た。
途中で一度、よどんだ。
農夫が小さな土の塊を崩すと、さらに下へ走った。
「通ったぞ」
誰かが言った。
鍬を持った者たちが、腰を伸ばす。
畑が急に乾くわけではない。
今年失った収穫が、戻るわけでもない。
それでも、さっきまで動かなかった水が、今は流れていた。
パウルの妻が、上の畑からこちらを見ていた。
手を上げると、向こうも上げ返した。
「次の雨でも、見ておかないといけませんね」
ヨストが言った。
「誰が見るかまで、決めておこう」
上と下で一人ずつ。
詰まったら、どこへ伝えるか。
危ない増水の中へ入らず、雨が弱まってから確かめることも添えた。
大工事ではない。
だが、次は「誰かが見るだろう」で終わらずに済む。
◇
作業を終えた者から、オットーが名前と時間を確かめた。
持ってきた金から、約束した代金を渡す。
銅貨を受け取った若者が、手の上で数えた。
それから、今日使った鍬の刃を見た。
「これで、直しに出せます」
ヨストが横から覗く。
「次の種まきまでに、戻るか聞いておけよ」
「はい」
俺は、そこでヨストを少し離れた場所へ呼んだ。
「こういう相談を、これからも頼めないかな」
「溝ですか」
「溝もだ。農具の順番や、牛を貸す日。畑で困っていることを、館へ伝えてほしい。館から話すときも、無理があれば教えてほしいんだ」
ヨストは、すぐには返事をしなかった。
「毎日、館へは行けません」
「それは困る。君の畑が荒れてしまう」
彼が俺を見る。
俺は、泥のついた長靴を見下ろした。
「俺が代わりに耕すわけにもいかないしね」
「……それは、やめておかれた方が」
近くの兵が、咳をした。
ヨストは俺の顔を見てから、少しだけ慌てた。
「いえ、畑には、慣れもございますので」
「うん。朝から十分に分かった」
笑うと、彼もようやく肩を緩めた。
定期的に話を聞く日を決める。
ほかの畑を見に行ってもらうときは、本人の仕事の都合を確かめ、時間と道中の費用を払う。
税や補助を決める役目まで押しつけるつもりはなかった。
「近くなら、見に行けます。知らない村のことは、そこの者に聞かないと」
「それを頼みたい。分からないものまで、分かったことにしなくていい」
ヨストは、手の泥を布で拭った。
「では、まず、この辺から」
「よろしく頼む」
差し出した手は、大きくて固かった。
◇
館へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
クラウディアが玄関で迎え、俺の足元を見た。
長靴だけではない。裾にも、袖にも泥がついている。
「ずいぶん、激しい視察でしたのね」
「水を通してきた」
「ご自分も、お通りになったのですか?」
トマが、横を向いた。
「途中までね」
妻は笑いをこらえながら、着替えを用意すると言った。
その後ろから、キャスパーが紙を持って現れる。
「ヴェーラー卿のところから、注文のお話が届いております」
俺は足を止めた。
「鉄か?」
「はい。修繕用の金具などを。板材についても、量を知りたいそうです」
仕事が、外から来た。
嬉しくなって手を伸ばすと、キャスパーが紙を少し引いた。
「先に、お手を」
見れば、指の間まで泥が入っている。
今日は、よく注意される日だ。
俺は素直に洗い場へ向かった。
畑では水が流れた。
次は、商売の話だった。




