第47話 奥様、麦袋は敵ではありません
倉の前で、兵が道を空けていた。
クラウディアが通る。
両腕に、麦の袋を抱えている。
一袋ではない。
その持ち方を見ていた兵が、自分の足元の袋と、妻の腕の中を交互に見た。
「奥様。それは、こちらで」
「大丈夫です。持てますわよ」
肩の具合も戻り、手伝ってよいと言われた妻は、朝から機嫌がよかった。
兵は、返す言葉を失っている。
そこへ、ベルタの声が飛んだ。
「持てても、そっちには載せないでおくれ!」
クラウディアが止まった。
「まだ、空いていますけれど」
「荷車が持たないんだよ。次の袋は、後ろの車へ!」
妻は荷台を見た。
自分の腕を見た。
それから、おとなしく向きを変える。
「そういうことでしたら」
兵たちが、一斉に後ろの荷車へ駆け寄った。
ベルタが俺を見て、肩をすくめる。
「人より先に、車を壊されたら困るからね」
「助かるよ。俺が言うより早かった」
妻は、二台目へ丁寧に袋を置いた。
乱暴に扱うつもりはない。ただ、本人にとって軽いものが、ほかでも軽いとは限らないのだ。
兵の一人が、ぽつりと言った。
「敵でなくてよかったな」
麦袋に話しかけているように聞こえた。
◇
支援の第一便は、その日の朝に出す。
前日までに量を決め、倉から出す順もそろえていた。
食べるものが乏しい家へ、まず当面の分を届ける。
次の便までに、まだ調べきれていない家の事情を確かめる。
全部の不足を、今日一日で埋める荷ではない。
だが、必要な家があると分かったのに、書類が全部そろうまで倉へ置いておくわけにもいかなかった。
マルセルが出す量を確かめ、オットーが行き先と照らしている。
ベルタは積み方を見て、御者と順番を話していた。
兵の手を借りるのは、積み下ろしと、荷車から家まで運ぶところが中心だ。
町の守りと交代の予定を崩さない人数だけを出す。
橋の兵は、そのまま残した。
「兵が運ぶなら、運賃は要らなくなるのでは」
倉の者が、何気なく言った。
俺は、首を振った。
「荷車も馬も、御者の仕事も要るよ。兵が袋を担げるからって、ベルタの仕事まで済むわけじゃない」
ベルタが、縄を引きながらうなずいた。
「馬に、領主様からの頼みだから腹を空かせて走れとは言えないからね」
「俺にも、無理だな」
「人にも、あまり言わないでおくれよ」
「言わないよ」
短いやり取りの間にも、荷は載っていく。
今回は、急ぐ輸送に兵を添える。
次から毎回、この人数で村を回るつもりではなかった。
ベルタたちの便に載せられる分と、別に運ぶ必要がある分を、キャスパーが分けている。
◇
倉の脇では、袋の補修をしていた。
マルタが声をかけた、町の者たちだ。
椅子に座り、口のほつれや、底の傷んだところへ針を通している。
「全部、新しいものを買うよりは安く済みます。ただ、何でも縫えばよいわけではありませんから」
マルタは、使わない袋を別に寄せた。
「こちらは、布そのものが弱っています。持ち上げたら、別のところから裂けますよ」
そこまで聞いてから、俺は作業している人たちへ挨拶をした。
一人は、家を長く空けられないという女性だった。
今日は家族と交代し、朝のうちだけ来てくれている。
もう一人は、足を悪くして荷を運ぶ仕事を辞めた男だった。
「針仕事も、なさっていたんですね」
「自分の袋が裂けたら、自分で縫っておりましたので」
男は、糸を引いた。
手は、よどみなく動いている。
運べない、と聞いたところで話を終えていたら、この仕事にはつながらなかった。
マルタが、一人ずつ、帰る時間を確かめていた。
「この方は昼まで。そちらの方は、もう少し早く。続きを頼む人は、午後に来ます」
「代金の扱いは?」
「決めた時間分を、お支払いします。袋によって傷み方が違いますから、数だけでは揉めますよ」
マルセルと相談して、そこまで決めてあった。
俺が口を挟むところは、ほとんどない。
「助かる。無理のない範囲で頼むよ」
女性が、少し笑った。
「無理をしてよければ、もっと縫えるんですけどね。家の鍋が、待ってくれませんので」
◇
出発の前に、オットーが小さな板を持ってきた。
麦の穂の絵。
鍋のような絵。
その下に、短い文字が書いてある。
「昨日、種麦を分けていた板を見まして」
パウルの子供が描いたものだ。
あれを、倉での仕分けにも使えないかと考えたらしい。
「今日の荷は、食べる分が中心です。種の融通をする便が出るときには、そちらも別に。絵だけで量が分かるわけではありませんが、取り違えに気づきやすくなるかと」
「いいね。村の人にも分かるか、聞いてみよう」
クラウディアが、鍋の絵へ顔を寄せた。
「こちらは、兜では?」
オットーが止まった。
俺も、見直した。
言われてみれば、そう見えなくもない。
「……取っ手を、大きくしてみます」
脇から兵が一人、覗き込んだ。
「奥様の兜には、取っ手はありませんので」
「知っております」
兵は、すぐに荷車へ戻った。
オットーは、鍋の下へ火を描き足した。
「これで、どうでしょう」
「今度は、俺にも鍋に見える」
彼はうなずき、残りの板にも線を加え始めた。
◇
昼前、村へ着いた。
荷車を見つけた子供が、広場の方へ走っていく。
やがて、大人たちが集まってきた。
前に俺たちが来たときとは、少し様子が違う。
こちらの荷台を見て、まず中身を確かめようとしている。
「納める麦を、集めに来たんでは?」
年配の男が、遠慮がちに尋ねた。
「今日は、届けに来た」
俺が答えると、男は一度、荷車を見直した。
領主の兵と荷車が来れば、何かを持っていく。
そう思うだけの経験があったのだろう。
俺は、村の取りまとめ役へ挨拶をした。
受け取る家については、先に話を通してある。
皆の前で、一軒ずつ困っている事情を読み上げるつもりはない。
「予定の場所へ、下ろしていいかな」
「はい。こちらへ」
そのとき、広場の入口で荷車が止まった。
別の村人が、脱穀する麦を運んできている。
こちらがそのまま入れば、帰る車と行き違えなくなる。
アイナが馬を下り、御者へ声をかけた。
「二台目は、まだ入らないでください。先に、こちらを通します」
兵に馬を預け、村人へ道を尋ねる。
荷を下ろす場所と、受け取りを待つ人の場所を分けた。
「袋を持った方が、車輪のそばを通らなくて済むようにしたいんです」
彼女の説明に、取りまとめ役が、井戸の横を指した。
「あちらなら、人が通れます。ただ、水汲みの道は空けておいてください」
「分かりました」
アイナは兵を二人呼び、荷車から家々へ運ぶ道を空けてもらった。
俺は、その後ろで立ち止まっていた。
何か言おうと思ったが、言う前に進んでしまった。
トマが、俺を見た。
「領主様、こちらへ」
「俺も、道を塞いでいた?」
「少し」
素直に退いた。
◇
麦を下ろし始めると、クラウディアの周りに人だかりができた。
「領主様の、奥方様が?」
「自分で運んでるぞ」
妻は、袖を留め直していた。
今日は鎧ではない。
それでも、兵が二人で持とうとした袋を、難なく受け取ってしまう。
「どちらへ?」
「え、あ、こちらです」
取りまとめ役が、慌てて先に立つ。
子供が二人、あとを追った。
「すごい。強いんだ」
「ええ。少しだけ」
近くにいた兵が、鼻から変な音を出した。
俺は聞かなかったことにした。
家の前へ着くと、妻は袋を下ろし、持ってきた板を見せた。
「こちらは、お食事の分です」
家の女性が、何度も頭を下げる。
だが、袋へ手を伸ばしかけて、止まった。
「あとで、お返しするのは、いつでしょうか」
俺は、そちらへ歩いた。
「今回、この家へ渡す分は、返さなくていい。暮らしが戻るまでの手当てだよ」
「ですが、働きには」
「それと引き換えではない」
女性は、俺を見た。
家には、まだ小さい子と、横になって休んでいる老人がいる。
働く場を作ることと、働けなければ食べられないことにするのは違う。
「後日、まだ足りないものがないか、話を聞かせてほしい。それは頼む」
彼女は、小さくうなずいた。
クラウディアが、袋の置き場所を尋ねた。
女性は今度こそ、家の奥を指した。
麦が、戸口の内側へ入っていった。
◇
別の家では、袋を受け取りに来た男が、背負おうとしてよろけた。
兵が支える。
男は、恥ずかしそうに笑った。
「これくらい、自分で持てると思ったんですが」
「家まで運ぶ。どっちだ?」
兵が、返事を待って袋を担いだ。
渡した数を数えるだけなら、広場で終わる。
しかし、家へ届かなければ、まだ終わっていない。
オットーが、記録の横へ小さく書き足していた。
「受け取られた方のうち、家まで運んだ分も残しておきます」
「次も必要か、分かるからね」
「はい」
その隣では、村の女性が量る升を見ていた。
自分の家で使うものと、大きさが少し違うという。
オットーは一度、手を止めた。
決めた量を、館の升で量り、村の升ではどのくらいになるかも確かめる。
「袋が同じでも、中身が同じとは限りませんから」
彼は、受け取る相手に見えるところで作業を続けた。
俺が、全部を見て回る必要はなかった。
目の前で起きたことを、それぞれが考えて処理している。
分からないことだけ、こちらへ来る。
「領主様。名のない方が、お一人」
取りまとめ役が、声を落とした。
◇
来ていたのは、少し離れた家で暮らす老人だった。
身内が、しばらく仕事を休んでいるという。
今日、麦が来ると聞いて、自分も受け取れるか尋ねに来た。
取りまとめ役は、困った顔をしていた。
「私が、聞き取りに伺えておりませんでした」
俺は老人へ、今日と明日の食事について聞いた。
まだ少しはある。
ただ、その先は、はっきりしなかった。
予定外に配れば、次に行く家の分が減る。
かといって、名簿にないから帰ってくれでは、何のために来たのか分からない。
オットーに、近くで記録を手伝っていた者を呼んでもらった。
「今日、この方の家を見に行ける?」
「はい。ここから近いです」
「頼む。食べ物と、ご家族の様子を聞いてきてほしい」
老人には、少し待ってもらった。
マルセルと決めていた、急な不足に回すための少量の予備がある。
ただし、他の家から取り上げて渡すわけではないと、オットーと確かめた。
戻ってきた者の話を聞き、そこから当面の分を出した。
継続して必要かは、家族とも改めて話す。
取りまとめ役が、頭を下げた。
「申し訳ございません」
「見つかったんだ。次の便に間に合うよう、ほかにも漏れがないか確かめよう」
彼は、うなずいた。
最初の紙だけで全員を把握できるとは思っていない。
ただ、見つからなかったまま冬を迎えるのは、避けたかった。
◇
昼を過ぎ、荷車の中が軽くなった。
予定の家へ渡し終えた分と、帰るときに持ち戻る分を数える。
ベルタは、帰りの荷を確かめていた。
町で修理する道具を頼まれているらしい。
俺は井戸のそばで、手を洗った。
パウルが、杖をついて来ていた。
妻と一緒で、兵へ水を配るのを手伝っている。
「足は?」
「今日は、走っていません」
「いい報告だね」
妻が、横から言った。
「重いものも、持たせていません」
実に信頼できる報告だった。
パウルは水の入った杯を俺へ渡し、荷車を見た。
「うちは、今の分を残していただけましたから。今日は、こちらを」
「ありがとう。だが、手伝わなければ昨日の話が変わるわけじゃないよ」
「はい。分かっています」
彼は、少し照れたように笑った。
「それでも、座って水を渡すくらいなら、できますので」
俺は杯を受け取った。
無理をさせず、それでもできることを、本人が選ぶ。
そのくらいの余地は、あっていい。
クラウディアが、俺の隣へ来た。
「私にも、いただけますか」
杯を受け取る妻を、パウルがまじまじと見た。
「あれほど運ばれて、お疲れでは」
「よい運動になりましたわ」
近くに座っていた兵が、膝に肘をついたまま動かなくなった。
彼らにとっては、かなりよい運動だったらしい。
◇
村を出る前に、何軒かの戸口から、湯気が上がるのが見えた。
今日渡した麦を、そのまま全部、粒で煮るわけではない。
粉に挽いてもらう手配をする家もあれば、手元に残っていた粉を、ようやく安心して使える家もある。
戸口で、母親が子供へ椀を渡した。
子供は両手で受け取り、熱そうに息を吹きかける。
俺は、その様子を少し離れて見ていた。
税を減らした紙。
倉から出した記録。
荷車に載せた袋。
その先で、こうして食べ物になる。
「領主様」
アイナに呼ばれ、振り返った。
「出発できます。兵も、全員そろっています」
「ありがとう。今日、困ったところは?」
「下ろす場所は、先に聞いていましたが、水汲みの道までは分かっていませんでした。次は、そちらも確かめます」
俺は、うなずいた。
「助かったよ。途中で気づいて、変えてくれたから」
アイナは、少し口元を緩めた。
その向こうで、ヨストが取りまとめ役と話していた。
畑の方を指し、次に、道の下を指す。
俺に気づくと、手を上げた。
「水の通り道の件ですが、下の畑の者とも話せそうです」
「ありがとう。いつなら、仕事の邪魔にならない?」
「明後日の朝なら。ただ、見るなら長靴で」
俺は、自分の靴へ目を落とした。
今日は、すでに十分、土がついている。
「もっと、汚れる?」
「汚れるだけで済めば、よいですが」
トマが、俺の靴を見た。
何か、準備するつもりの目だった。
◇
帰り道、クラウディアが馬を並べた。
「戦いではなくても、兵の仕事は多いのですね」
「今日、よく分かったよ」
「皆さん、よく動いてくださいました」
「戻ったら、休ませよう」
「ええ。今日の訓練は、十分ですわ」
少し後ろで、兵が安堵したように息を吐いた。
聞こえていたらしい。
俺は笑って、前を向いた。
今日の荷を配れば、冬支度が終わるわけではない。
次の便も要る。家ごとの確認も、まだ残っている。
だが、俺が紙を持って走り回るだけではなくなった。
倉で量る人がいて、運ぶ人がいて、家まで届ける人がいる。
働ける時間の短い人にも、できる仕事があった。
麦が減った倉のことは、明日また考える。
今日は、増えた仕事を、皆で終わらせたことを覚えておきたかった。
「レオン様」
「何かな」
「次の便も、人手が足りなければ、お呼びください」
妻は、楽しそうだった。
「頼りにしている。ただ、積み方はベルタに従ってね」
「分かっております。荷車には、私ほど積めませんもの」
俺は、返事を考えた。
訂正するところが、見つからなかった。




