第45話 その牛を売ったら、来年どうする
村へ入ったとき、男が牛を洗っていた。
桶から水をすくい、背を拭いている。
牛はあまりうれしくなさそうで、尻尾を振るたびに、男が少し身を引いた。
売る予定の家畜がある。
館で読んだ紙の一行が、頭に浮かんだ。
ただ、牛を洗っているからといって、すぐにそうだとは限らない。
俺は馬を下り、先に挨拶をした。
「仕事の途中にすまない。話を聞きに来た」
男が振り返った。
濡れた布を落としかけ、慌てて桶の縁へ掛ける。
「領主様。あの、まだ、麦の方は」
「今日、持って帰るために来たわけではないよ」
男の目が、俺の後ろへ動いた。
オットーが、書類を入れた袋を持っている。
トマと護衛の兵もいる。
徴収に見えなくもない。
「先に聞き取ってもらった内容を、現物を見ながら確かめたいんだ。家の仕事を止めない範囲で」
「はい。申し訳ありません。こちらへ」
男は歩き出し、片足をかばった。
俺は、その足元へ目を落としてから、牛へ視線を戻した。
「その牛は、どうする予定?」
「町へ、売りに出そうと」
やはり、そうだった。
「買い手は決まっているのか」
「三日後に、見に来ると。値が合えば、そのまま」
牛が、鼻を鳴らした。
俺には、値段に不満を言ったように聞こえた。
◇
男の名は、パウルといった。
家の前に板を置き、腰を下ろす。
奥から妻が出てきて、俺たちへ水を持ってきてくれた。
小さな子が、戸の陰からこちらを見ている。
オットーが記録を広げた。
収穫した麦。
まだ脱穀していない分。
税として納める予定。
借りた分の返済。
「前に聞いたときから、変わったところはあるかな」
「残っていた畑は、思っていたほど取れませんでした」
パウルは、膝へ手を置いた。
「低いところが、雨のあとに傷みまして。刈る頃には、この足で」
「怪我をしたのか」
「荷を下ろすときに。だいぶ動くようになったんですが」
妻が口を開いた。
「朝は、まだ腫れるんです」
「朝だけだ」
「夕方も」
パウルが黙った。
俺は、うなずいた。
「働けるつもりと、実際に働ける時間が違うわけだね」
責めるつもりで言ったのではない。
元気だった頃と同じ仕事を、同じ日数でできることにしてしまう。
そういう計画は、前世でもよく見た。
隣家の手も借りて、収穫はどうにか終えた。
その代わり、こちらから手伝いに行くはずだった仕事が残っているという。
麦の不足だけではない。
人の手の貸し借りまで、詰まり始めている。
「牛を売れば、何が払える?」
「納める分と、借りた麦を返す分です。麦で足りないところは、金でよいと言われています」
「手元に残るものは?」
パウルは、すぐには答えなかった。
「食べる分は、少し。あとは、冬の間に仕事があれば」
「種にする麦は」
「残します」
今度は、返事が早かった。
早すぎた。
俺は記録を指した。
「これを食べる分に入れているなら、残す分からは外さないといけない。どちらに数えている?」
パウルの視線が、紙の上を動いた。
妻が、膝に置いていた手を握り直す。
「……食べずに済めば、残せます」
俺は、ペンを置いた。
残せることになっている麦は、まだ決まっていない仕事の稼ぎで、食べずに済むことになっていた。
◇
「畑を見せてもらえるかな」
俺が尋ねると、パウルは立ち上がろうとした。
その肩へ、横から手が置かれた。
「畑なら、俺が案内します」
いつの間にか、男が来ていた。
五十をいくらか過ぎたくらいだろうか。
袖をまくり、手に土がついている。
村の取りまとめ役から、農作業に詳しい者を頼んでおいた。その人らしい。
「ヨストです。隣の畑をやっております」
「レオン・フェルデンだ。仕事中に呼んで、すまない」
「ちょうど、道具を返しに来るところでしたので」
ヨストは、パウルを見た。
「牛を磨く暇があったら、足を休めろ」
「見に来るから」
「牛を見るんだ。お前の根性は買わん」
パウルの妻が、深くうなずいた。
俺も、危うく一緒にうなずくところだった。
まだ事情を聞き終わっていない。
歩き出すと、ヨストは畑の境を順に指した。
どの家が作り、どこが湿り、いつ頃に手を入れたか。
自分の畑でないところも、よく知っている。
「皆の畑を見ているのか?」
「道具を貸したり、牛を回したりしますから。どこが終わったか知らないと、次が決まりません」
少し先に、穂の残る一角があった。
俺は、そこへ顔を向ける。
「こちらの麦は、まだ刈らないんだね」
「領主様。それは、麦じゃありません」
俺は足を止めた。
「……そうか」
「粟です」
後ろで、オットーのペンが止まった。
「今のは、書かなくていいよ」
「はい」
トマが、少し離れた道の先を見ていた。
肩は動いていない。
よく耐えている。
法人の帳簿は読んできた。
だが、畑へ立っている作物を、何でも見分けられるようになるわけではない。
「これは、何に使う?」
「食べます。麦だけ作っているわけじゃありませんので」
「そうだね。ほかに食べるものも、合わせて聞かせてくれ」
ヨストは一度、俺の顔を見た。
それから、道の先を指した。
「豆なら、あちらです」
今度は、自分で名前を当てるのをやめた。
◇
パウルの畑の低いところには、まだ湿った土が残っていた。
ヨストが溝へ下り、靴先で草をどける。
水の逃げ道に、土と枯れた茎が詰まっていた。
「ここだけ掘れば、よくなる?」
「先も通さないと、下の畑へ水を押しつけるだけです」
俺は、溝の続く方を見た。
別の家の畑を通り、その先で道を横切っている。
「パウル一人では、決められないんだな」
「ええ。手を入れる日を合わせます。ただ、今年はそれぞれ、目の前の仕事で」
ヨストは、そこまで言って口を閉じた。
誰か一人が怠けていた、という話には見えなかった。
人が足りず、日が合わず、後回しになったところへ雨が来た。
結果だけを見れば、収穫が少ない。
俺は、牛の話へ戻した。
「あの牛を売ったら、次はどう耕す?」
「本人は、借りると言っております」
「借りられる?」
ヨストは、首を横に振った。
「あれは、俺の牛と組ませて使っています。あいつの畑と、うちの畑。それから、近くの何枚かを」
一頭を売る話が、一軒だけでは済まない。
「代わりの牛は」
「いることはいます。ただ、使いたい日は、どこの家も似たようなものです」
「順番が遅れれば?」
「播くのも遅れます」
短い答えだった。
俺は、刈り終えた畑を見た。
牛を売れば、今の支払いはできる。
その代わり、次の収穫を作る段取りが崩れる。
工場の機械を売って返済してもらったあと、その工場に来年の売上を求める。
そんな話を、今、目の前でやろうとしていた。
「牛を残すなら、餌も要ります」
ヨストが言った。
「売るなと言うだけなら、簡単です。冬に食わせられなければ、同じことですから」
オットーが、こちらを見た。
領主へ言うには、少し強いと思ったのかもしれない。
俺は、うなずいた。
「そこも聞きたかった。干し草は、どのくらいある?」
ヨストの顔から、少し力が抜けた。
「見ていただく方が早いです」
◇
家へ戻ると、パウルは座って待っていた。
足も、少し高いところへ載せている。
妻が、させたのだろう。
小屋の干し草と、使える藁を見せてもらう。
ヨストは、量だけでなく、湿っていないかも確かめた。
足りると言い切れる量ではないが、何も用意していないわけでもなかった。
「この牛を売ったら、来年どうするつもりだった?」
俺が尋ねると、パウルは答えた。
「借りて、耕します」
「誰から?」
パウルは、ヨストを見た。
「俺の一頭だけでは、同じようには回せんぞ」
ヨストが言う。
「ほかにも、頼めば」
「頼める相手は、決まっている?」
俺の問いに、返事はなかった。
予定の中には、名前のない協力者が何人もいた。
冬に仕事をくれる誰か。
牛を貸してくれる誰か。
その誰かも、今、自分の冬支度をしている。
「責めたいわけじゃない。ここが決まっていないと、売ったあと、もっと困ると思うんだ」
「ですが、返す約束ですから」
パウルの声が、少し強くなった。
「貸してもらったときは、助かりました。なければ、春を越せませんでした。なのに、今さら」
俺は、うなずいた。
返したくないのではない。
返せないと言うことが、できなくなっている。
「借りた相手に、俺も話を聞きたい。誰から、どんな条件で借りたか、見せてもらえるかな」
妻が家の奥へ入り、布で包んだ紙を持ってきた。
端が、何度も開いた跡で柔らかくなっている。
麦を三袋借り、収穫のあとに四袋返す。
袋の大きさも、ここで使う升で決めてあった。
俺は、その文面を読んだ。
貸し手は、町で穀物を扱う商人だった。
「今日、村へ来ています」
ヨストが言った。
「ほかの家の分も、受け取りに」
俺は紙を畳み、パウルへ返した。
「会ってくる。牛の話は、まだ決めないで待ってもらえるか」
「はい」
それだけで、彼の顔が明るくなることはなかった。
待つ間にも、日付は近づいてくる。
俺も、そこは分かっていた。
◇
穀物商は、村の倉の前にいた。
受け取った麦を量り、荷車へ積ませている。
俺の名を聞くと、すぐに帽子を取った。
「何か、不手際がございましたでしょうか」
「パウルへ貸した麦のことで、話を聞きたい」
商人の表情が固くなった。
「取り決めは、書いたとおりです。村の者にも、立ち会っていただいています」
「まず、その話から聞かせてくれ」
倉の脇へ移り、記録を見せてもらった。
春に渡した量。
返す日。
麦の代わりに金で返す場合の扱い。
パウルの紙と、食い違いはない。
「牛を売るよう、君が言ったのか?」
「いいえ。足りない分をどうするか、本人から、そういう話が出ました」
「買い手を紹介した?」
「頼まれましたので。ただ、値を決めるのは、私ではありません」
俺は、うなずいた。
先に悪役を決めなくてよかった。
商人は、俺の後ろの兵へ視線を向けた。
「返さなくてよい、というお話でしょうか」
「そうは言っていない」
俺は、トマたちに少し離れてもらった。
オットーには、そのまま記録を頼む。
「彼が払える形を考えたい。そのために、君がいつ、何を必要としているか知りたいんだ」
商人は迷ってから、帳面の別のところを開いた。
「この荷を町へ持ち帰り、粉屋へ渡します。向こうも、そのつもりで仕事を受けています」
「パウルの四袋も、その中に入っている」
「はい。私だけで待てる話なら、まだよいのですが」
借り手の麦には、税と食事と種が重なっていた。
貸し手の側では、その麦を待つ、次の相手がいる。
ただ待ってやれと命じたら、困る場所を移すだけになる。
「粉屋へ渡す日は?」
「七日後です」
「その日に、必ず麦で必要なのか。ほかの取引と調整する余地は?」
商人が、こちらを見た。
「……それを、私にお尋ねになるのですか」
「君が取引している相手だ。俺より、よく知っているだろう」
少し間があった。
それから、彼は帳面へ目を落とした。
「一部なら、別の入荷を先に回せるかもしれません。ただ、それも確かめなければ」
「そうだね。今ここで、できると言い切らなくていい」
俺は、牛を売ったあとの耕作の話をした。
ヨストの畑まで影響することも。
商人は、黙って聞いていた。
「牛を残せば、必ず来年返せるとは言わない。ただ、売っても大丈夫な計画には、まだなっていない」
俺が言うと、彼はゆっくり息を吐いた。
「返ってこないよりは、返る方がよいです」
「そこは、俺たちも同じだ」
◇
その日のうちに、解決したことにするつもりはなかった。
だが、何も決めずに帰るつもりもなかった。
商人には、明後日の昼まで、牛の売却を当てにした返済の催促を待ってもらう。その間に、粉屋への納入を調整できるか、確かめてもらうことになった。
借りた麦を、帳面から消す約束ではない。
こちらは、パウルの家の税について、納入の督促を同じ日まで保留する。
減免や猶予を決める前に、必要な量と、領で出せる分を確かめる。
オットーが、日付と、誰が何を調べるかを書いた。
商人が読み、うなずく。
「明後日、もう一度」
「頼む。こちらも、手ぶらでは来ない」
立ち上がると、商人の表情は、会ったときより柔らかくなっていた。
少なくとも、力ずくで帳面を破りに来たわけではないと、分かってもらえたらしい。
◇
パウルの家へ戻り、決まったことを伝えた。
牛を見に来る人には、今すぐ売却を約束しないでほしいと連絡する。
パウルは、今ある食べ物と種、干し草を、ヨストと一緒に確かめる。
俺たちは、館の備蓄と、税の扱いをマルセルたちと詰める。
「明後日まで、食べるものはある?」
俺は、パウルだけでなく、その妻にも尋ねた。
「はい。そこまでは。豆も、まだあります」
彼女が答えた。
俺は、ようやく少し息をついた。
立ち上がると、ヨストが牛の綱を持っていた。
「世話役まで頼んで、すまない」
「いえ。こいつがいなくなると、うちも困りますので」
ヨストは牛の首を叩いた。
自分の暮らしと、隣の暮らしがつながっている。
だから、放っておけない。
それは立派な理由だった。
「また、畑の話を聞かせてくれ」
「私で分かることであれば」
「今日も、いろいろ教わったよ」
ヨストが、少しだけ口元を動かした。
「粟は、覚えていただけましたか」
「そこは、もう忘れないと思う」
後ろで、トマが咳をした。
今度は、耐えきれなかったらしい。
◇
帰り道、オットーが袋を抱え直した。
「領主様」
「何かな」
「お話を始めたときは、商人の方も、ずいぶん警戒しておられましたが」
「兵を連れて来られたら、そうなるだろうね」
「最後には、帳面をあれほどお見せになるとは」
俺は、少し笑った。
「困っているところを話しても、損をしないと思ってもらえれば、聞けることは増えるよ」
オットーが、うなずいた。
こういうところは、経験が役に立つ。
「ただ、別れ際におっしゃっていました」
「何と?」
「明後日までに、曖昧な話をできなくなった、と」
俺は、手綱を持ち直した。
「……確かめることを決めただけなんだけどな」
「はい。そう申し上げておきました」
よい方に伝わったかは、聞かないでおいた。
村の外れで振り返ると、牛はまだ、小屋の前にいた。
子供が背へ手を伸ばし、パウルがそばで見ている。
残すと決められたわけではない。
だが、売って終わりにする前に、話をする時間は作れた。
その時間で、返せる道を探す。
食べる麦と、次の畑を残すために。
俺は、馬を館の方へ向けた。




