第42話 うちの妻はレンタル品じゃないが
朝、窓を開けると、風が少し冷たかった。
昼間はまだ汗ばむが、日陰では上着が欲しくなる。
庭の木は、おおむね緑のままだ。その端に、色の違う葉が混じり始めていた。
この身体の記憶と、館の者が口にする季節の呼び方を合わせると、夏から秋へ移る頃らしい。
戦と帳簿に追われている間にも、季節は進む。
机の上には、マルセルから渡された紙があった。
村ごとの収穫の見込みと、寒くなる前に買い入れたい品について、確認を始めたいという。
食べる麦があっても、次に播く分まで食べてしまえば、その先がない。
人が増えれば、冬を越すための備えも増える。
帰ってから、現物と村の話を合わせて見よう。
そう書き添え、面会の書類と分けて置いた。
今朝は、こちらだ。
◇
「奥方様のお力を、ぜひお借りしたく」
隣領の使者は、丁寧に頭を下げた。
四十前後の男だった。
旅の服はきちんと手入れされているが、目の下に疲れがある。
お世辞だけを言いに来た顔ではない。
隣のクラウディアは、静かに微笑んでいた。
昨日、鎧の手入れを頼んだことなど、まるで感じさせない。
「まず、何が起きているのか伺おう」
俺が言うと、使者は地図を広げた。
領境の先を通る街道。
そこから分かれた山裾の道に、古い関所がある。
以前は使われていたが、道筋が変わり、番を置かなくなっていたという。
「そこを、武装した者たちが占拠しております」
「賊か?」
「通る荷から金品を奪い、近隣の村から食料を持ち出しております。拒めば、火をつけると」
「いつから?」
初めは、数人が旅人を脅す程度だった。
巡回を増やすと姿を消し、別の場所で同じことが起きる。
やがて人数が増え、関所に居座った。
「兵を向けたところ、弓で迎え撃たれました。盾の使い方も、ただの賊とは思えず」
「兵を辞めた者がいるのかもしれませんわね」
クラウディアが言った。
使者がうなずく。
「そのように考えております。追い散らすつもりで出した隊が、負傷者を連れて戻りまして」
俺は、関所の位置を指で追った。
ライナーが使う道のすべてではない。
だが、ここが通れなくなれば、商人が選べる道が一つ減る。
相手の領内だけで済む話でもなかった。
「今、分かっている人数は?」
「四十ほどは確認しております。ただ、出入りがございますので」
「四十しかいないとは、限らないんだね」
「はい」
そこを、無理に少なく言わなかった。
俺は、使者の顔から地図へ目を戻した。
◇
「うちにも、国境がある」
俺は言った。
「兵をまとめて空けることはできない。君の領では、何人を出せる?」
「六十。関所を奪い返したあとの守りも、こちらで受け持ちます」
人数だけなら、相手を上回る。
だが、守りを構えた側へ向かうのだ。同じだけの兵がいれば勝てる、という話ではないのだろう。
クラウディアが地図を覗き込む。
「前に出した兵は、どこまで進めたの?」
「この曲がり角を越えた辺りです。道の両側から矢を受けたと」
「門だけ見て、近づいたのね」
使者は口を閉じた。
「現地を見なければ、分かりませんけれど」
妻は、そう付け加えた。
声は柔らかいままだった。
俺は、少し椅子へ寄りかかった。
「求めているのは、正面を破る力ということか」
「……はい。奥方様の武勇であれば、と」
「その間、ほかの兵は?」
「援護を」
短い答えだった。
俺は、地図の横へ紙を置いた。
「君を責めるつもりはない。ただ、妻が門を壊す。そのあとを皆で進む。それだけの話なら、引き受けられない」
隣で、クラウディアがこちらを向いた。
「私は――」
「戦えるかどうかの話ではないよ」
妻へ言ってから、使者に戻す。
「横から矢が来ると、今、聞いた。逃げ道もあるだろう。そこを誰が受け持つかも決めずに、一人だけ先へ出すわけにはいかない」
キャスパーが、机の端で紙を寄せた。
「事前に、現地の隊長と相談できるよう手配していただけますか。地形と、前の戦いを知る方にも」
「それは、できます」
使者の返事は、今度は早かった。
「主からは、協力に必要な費用についても、話をまとめるよう命じられております」
「では、そこも話そう」
助けると言ってから、馬の餌がないと困る。
帰ってきた兵に、遠征の給金は隣へ聞いてくれとも言えない。
きれいな言葉で省いた分は、誰かが後から背負うことになる。
◇
使者が持っていた条件は、思ったより具体的だった。
こちらが出す兵の食料と馬の餌。
現地までの案内。
遠征にかかる費用の負担。
不足していたのは、長引いた場合と、戻る判断だった。
「ひとまず、こちらを発ってから十日。それを越えるなら、改めて相談したい。国境で異変があれば、戻る必要もある」
「承知しました。ただ、目前で賊を逃がすようなことは」
「そこは現地で判断する。しかし、うちの橋を失ってまで続ける約束はできない」
使者は考え、うなずいた。
出す兵は十二人。
俺とクラウディアは、別に数える。
橋の兵を引き抜くことはせず、館と町の守りに必要な人数も残す。
マルセルが、用意していた費用の内訳を示した。
「こちらの準備に必要な分は、出発前に。残りは、帰還後の確認をもってお支払いいただきます。食料などを現物でご用意いただく部分は、重ねて請求しません」
使者が紙へ目を落とす。
「賊の持ち物については、討ち取った者の取り分も――」
「村から奪った麦まで、うちへ持って帰るつもりはないよ」
俺は首を振った。
「持ち主へ返すものと、そうでないものは分けよう。何があるか分からない戦利品を、兵への支払いの当てにはしない」
マルセルが、隣で小さくうなずいた。
使者は何か書きつけ、それから顔を上げた。
「この範囲であれば、私の預かった権限でお約束できます」
「あと一つ」
俺は、街道を指した。
「奪い返したあと、また同じことになっては困る。守りを置くという話は、書状にも残してほしい。こちらの商人も通る道だ」
「はい」
「交易の扱いについても、落ち着いたら領主殿と話したい。今、全部決めなくていい。まず、道を使えるようにしよう」
助けに行く理由が、妻の楽しみだけでは困る。
隣の村が焼かれず、荷が動き、こちらで作ったものも運べる。
そのために、限られた兵と金を使う。
使者が深く頭を下げた。
「よろしくお願いいたします」
クラウディアが、俺を見た。
何かを期待している目だった。
「……現地を見てからだよ」
「分かっておりますわ」
昨日と同じ返事なのに、今日はずいぶん弾んで聞こえた。
◇
使者が下がると、クラウディアが俺へ身を寄せた。
「私を一人で行かせたくないと、あんなにはっきり」
「そりゃ、心配はするよ」
妻は、一瞬、黙った。
それから、うれしそうに笑う。
「では、ちゃんと帰ってまいります」
「俺も行くんだけどね」
キャスパーが、小さく咳をした。
「お二人とも、帰ってきていただきませんと」
「ああ。留守を頼む」
彼はうなずき、机の紙をそろえた。
遠征の話から、留守中の決裁へ、迷いなく移っていく。
炉の仕事はエルゼたちへ。
山はガルドへ。
すでに決めた支払いは、マルセルが進める。
新しい相談が来れば、キャスパーが関係する者へ話を聞く。
俺がいないから、全部止めておく必要はない。
「秋の備えの確認も、進めておきます」
キャスパーが、別に置いてあった紙を取った。
「村によって、畑仕事の時期が違います。人を呼び出すより、こちらから聞きに行く方がよさそうです」
「頼む。食べる分と、種にする分は分けて見ておきたい。戻ったら、俺も回る」
「承知しました」
戦に勝って戻っても、冬の食卓まで勝手に整うわけではない。
今は任せられる人がいる。
それが、以前とは違った。
◇
準備には二日を使った。
先方へは使者の従者が先に戻り、集合場所と人数を伝える。
ブルーノとデニスへも、遠征の期間と連絡先を送った。
返ってきた知らせには、橋の守りは引き受けることと、こちらへ知らせを送る道筋が簡潔に記されていた。
クラウディアは、連れていく兵を選んだ。
トマとアイナも、その中にいる。
アイナには、騎乗する兵二人を含む連絡と周辺の見張りを受け持たせる。
前回の荷の護衛から、少しだけ仕事が広がる。
ただし、追いかけて戦う役ではないと、念を押されていた。
「見つけたら、知らせる。数が分からなければ、分からないと報告する。よろしい?」
「はい」
「見えた三人を追って、見えていなかった十人に囲まれないように」
アイナが、真剣な顔でうなずいた。
俺も、横でうなずいた。
聞いておいた方がいい話だった。
出発の朝、マルセルが費用を確認した。
前金は受け取っている。
町で用意した食料も積み終えた。
「予定を越えそうなら、早めにお知らせください」
「分かった」
「あと、現地で新しい事業を始めないでください」
俺は手袋を引き上げる手を止めた。
「討伐に行くんだよ?」
「ええ。念のためです」
トマが、隣で馬の鞍を見直していた。
妙に熱心だった。
反論を考えたが、帰りに何か見つける可能性までは否定できない。
「勝手な約束はしない」
「それで、お願いいたします」
妥当なところに落ち着いた。
◇
隣領の集合地へ着いたのは、出発から三日目だった。
街道を離れる少し前から、荷車が減った。
行き交うのは兵と、畑から戻る村人ばかりになる。
使者が言っていた被害は、紙の上だけの話ではなかった。
村外れの囲いに、先方の兵が集まっている。
俺たちを見ると、何人かが顔を上げた。
「あれが……」
「奥方様か?」
声が小さくなる。
クラウディアは、馬上から穏やかに会釈した。
こちらの兵は、誰も何も言わなかった。
その沈黙には、少しばかり含みがあった。
先方の隊長は、頬に古い傷のある男だった。
挨拶を済ませると、すぐに関所の図を広げる。
「兵は六十、そろっております。門の前へ盾を並べ、奥方様に進んでいただければ」
クラウディアが、図の脇を指した。
「ここは?」
「古い荷の置き場です。石垣が残っています」
「前の戦いで、矢が来たのは?」
隊長が、指を止めた。
「……その辺りです」
「なら、まず見ましょう」
俺も、地図を覗き込んだ。
相手は約束どおり、兵と食料を用意している。
だが、戦い方まで整っているとは限らない。
こちらの役目は、人数を足すことだけではなさそうだった。
◇
偵察は、前に矢を受けた場所より手前で、道を外れた。
隊長がつけてくれた案内の兵。
クラウディアと、数人の護衛。
俺は見通しの利くところまでにして、それ以上は進まないよう言われた。
従った。
俺が敵の数へ加わるわけではないが、救出する人数には加わってしまう。
木の陰から見えた関所は、思っていたより小さかった。
しかし、道を塞ぐには十分だった。
門の前には木を組んだ障害物があり、両側に高低差がある。
そこへ正面から並んで進めば、確かに狙いやすそうだった。
クラウディアが目を細める。
「門の上は、見張りが少ないわね」
「こちらが近づけば、出てくるのでしょうか」
トマが小声で言った。
「かもしれない。でも、ほかにいるわ」
妻の視線は、門から外れていた。
アイナたちは、案内の兵とともに少し手前の斜面を確かめていた。約束した範囲から出ず、しばらくして戻ってくる。
「左の石垣の後ろに、人が見えました。二人です。ただ、奥は見通せません」
「弓は?」
「一人は持っていました。もう一人は分かりません」
クラウディアがうなずいた。
「右も、同じように隠れられる場所がある。門だけを見て進めば、両側から射られるわね」
案内の兵の顔が、わずかにこわばった。
「前も、そこから……」
「なら、今度は先に潰します」
妻の声は、まだ静かだった。
そのとき、関所の方から笑い声が聞こえた。
男が一人、門の外へ出てくる。
そばにいた痩せた男へ何か怒鳴り、足元の袋を指した。
痩せた男は袋を抱えようとしたが、うまく持ち上がらない。
後ろから蹴られ、膝をついた。
俺の隣で、革の擦れる音がした。
クラウディアが、手を握り直していた。
「荷を運ばされているのは、村の者かもしれません」
案内の兵が言った。
「戻らない者が、何人かおります」
俺は息を吐いた。
門の向こうにいる全員を、敵と数えるわけにはいかなくなった。
妻を見る。
「無理に火を使うのは、避けたいね」
「ええ」
短い返事だった。
楽しみにしていた遠出とは、もう、顔が違っている。
クラウディアは関所を見たまま、低く言った。
「人を蹴る足は、よく見えましたわ」
俺は、あえてその先を聞かなかった。
「いったん戻ろう。隊長と、左右の持ち場を決める」
「はい」
妻は、素直に剣の柄から手を離した。
戻る途中、トマが小さく息をついた。
「止まってくださいましたね」
「聞こえるよ」
「失礼しました」
前を歩くクラウディアの肩が、少しだけ揺れた。
明日の戦いで、俺が門を破ることはできない。
だが、誰がどこへ進み、誰を助け、どこまでやったら終わるのか。
そこを曖昧にしたまま、妻と兵を送り出すつもりはなかった。
関所は、道を塞いでいる。
その向こうには、動かなくなった人と荷がある。
今度は、こちらから開けに行く。




