第40話 鉄が売れる前に、給料日は来る
翌日の昼、俺は館の小部屋で、エルゼを迎えた。
昨日、炉の前で煤にまみれていた顔は、きれいに洗われている。机にはマルセルが用意した紙と、俺が書き込んだ人員の案があった。
「まず、炉を任せられる人と、炭を見られる人。それぞれ何人ほど必要かな」
「どれだけ作るかによります。今の炉なら――」
「その前に、よろしいですか」
隣から、マルタが手を上げた。
宿の仕事を娘に頼み、今日はこの話のために来てもらっている。
「ご家族は、何人です?」
エルゼが答えると、マルタは続けて聞いた。
子供の年齢。連れてきたい同業者の家族。家に置く道具。食事を作るのは誰か。
俺の紙には、炉の担当、炭の担当、運搬の補助と書いてある。
マルタの紙には、寝床、煮炊き、水と並んでいく。
「町の西側なら、使われていない家に心当たりがあります。ただ、井戸まで坂です。小さい子を抱えて水を運ぶとなると、見た目ほど楽じゃないですよ」
「炭を焼く者は、森へ通うことになりますが」
「ええ。その人が留守の間、家に残る方が困らないようにしませんと」
俺は、自分の紙を見た。
働く人を呼ぶ。
そこまでは考えていた。
その人が仕事に出ている間の家の中までは、抜けていた。
「働く場所は炉でしょうけど、暮らす場所は家ですよ」
「……そのとおりだね」
マルタはうなずき、次の質問に移った。
説教をするために言ったのではない。決めないと困ることが、まだあるだけだ。
宿屋は、毎日、人の荷物と暮らしを受け入れている。
俺が経歴の一行で見ていたものを、この人は実際に運ばれてくる鍋や布団として見ているのだろう。
「家があると言われて来たら、雨が降るたび家の中で桶を並べる。それでは、次の方を誘えませんから」
エルゼが、そこで初めて笑った。
「夫にも、その話をされました。炉の屋根しか見てこないんじゃないかと」
「よく分かっていらっしゃる」
マルタも笑う。
俺も笑いかけたが、自分の紙を見てやめた。
炉の屋根すら、昨日まで人に言われていた。
◇
話は、その日のうちに全部が決まったわけではない。
だが、全部が決まるまで誰も動かない、ということにもならなかった。
マルタが家主へ話を通し、空き家を見に行く。
マルセルは家賃と修繕費、最初の給金をまとめて、用意できる金の範囲を出した。
エルゼは条件を持ち帰り、家族と、声をかけたい職人たちに相談する。
最初に受け入れるのは、三世帯。
俺たちが借りる家の修繕は、雨を防ぎ、火を使い、戸を閉められるところまで。暮らしながら直せるものまで、一度に立派にしようとはしなかった。
税の免除で手元に残せることになった金は、その一部に充てる。
もちろん、全部ではない。
橋の兵が食べる麦まで、炉にくべるわけにはいかない。
その間に、ガルドも動いていた。
以前、鉱山で働いていた者を訪ね、今の仕事と折り合いがつく者を集める。崩れた坑道には入らず、浅い場所から採れる分だけを掘る。
道の水を逃がし、崩れた縁を補う。
荷車が通せない区間は荷を小分けにし、村まで下ろしてから積み替える。
鉱山から町まで、一度に立派な道ができたわけではない。
それでも、袋を抱えて足を滑らせる場所は減った。
数週間後、町の西側に荷車が着いた。
積まれていたのは、職人の道具だけではなかった。
鍋。寝具。紐でまとめた椅子。何かの苗が植わった、小さな鉢。
「それ、横にしないで。土がこぼれるから」
荷台の下で、子供が真剣な顔をしている。
兵が両手で鉢を受け取った。
人員三世帯分、ではない。
こういう荷物が、一緒に来るのだ。
マルタは家の鍵を渡しながら、井戸と店の場所を説明していた。仕事の手続きはオットーが引き受け、家に運び込むものと仕事場へ持っていくものを分けている。
俺は、エルゼの夫に挨拶をした。
「不便なこともあると思う。困ったことは、まずマルタに伝えてほしい。仕事の方は――」
「私に言えばいいです」
エルゼが横から言った。
「夫は、私に仕事を増やすのがうまいので」
「帰ってくる時間を聞いているだけだろう」
なるほど。
これは、俺にも身に覚えがある。
隣の荷車では、幼い子がクラウディアを見上げていた。
「騎士様?」
「ええ。そう見えるかしら」
訓練帰りの妻は、手袋を外してから腰をかがめた。
子供が、腰の剣を指さす。
「わるいやつ、やっつける?」
「もちろん。皆さんが安心して暮らせるようにね」
完璧だった。
声も、笑みも、差し出す手も。
少し離れた場所で、荷を運んでいた兵が、もう一人の兵と目を合わせた。
何かを言いかけ、二人とも黙って荷車に戻る。
俺は、そちらを見ないことにした。
説明には、適切な順番がある。
◇
鉄の出来は、次の試みで変わった。
ガルドたちが山で石を選び、使わないものを運ぶ手間を減らす。
炭の担当が、炉へ入れるものをそろえる。
エルゼたちは、前の結果と比べながら、火の扱いを変えた。
俺が分かったのは、同じように見える黒い炭にも、使う人には違いがあるということだ。
「これは、駄目なのか?」
「駄目というより、これとこれを同じつもりで入れると、困るんです」
見せられた二つを、俺は真面目に見比べた。
「……なるほど」
「分かりました?」
「違いを説明してもらう必要があることは分かった」
エルゼは、少し笑った。
分かったふりをするよりは、いいらしい。
出来上がった鉄は、鍛冶屋で試された。
叩いて延ばし、曲げ、用途に合うかを確かめる。
「釘と、この手の金具なら使えます」
鍛冶屋が机に置いたのは、戸を留める金具だった。
剣ではない。鎧でもない。
だが、町のどこへ行っても、使う場所のある品だった。
その夕方、マルセルが数字を持ってきた。
「この出来で、同じ程度の量が取れるなら、売れた分で次の作業を続けられる見込みです」
「よかった。ようやく、そこまで来たか」
「ただし、炉と家の修繕に使った金まで、戻るわけではありません」
「分かっている。まず、動かすたびに金が減る状態を抜けたい」
「それと、売れる前に給金の日が来ます」
俺は、紙の下へ目を移した。
「……そこだよな」
最初の給金は、すでに取り分けてある。
問題は、それを払い、次の炭を買い、運賃を出したあとだ。
買い手が決まり、荷が届き、代金が戻るまでの間も、人は食べる。
利益が出る予定と、今日払える金は別物だ。
前世で、何度この話をしただろう。
「給金に手をつけるつもりはない。出荷までの費用と、売れる量を合わせよう。約束できる分からだ」
「それなら、この辺りになります」
マルセルが、紙の一か所を指した。
売上の見込みより、ずっと小さな量だった。
最初から全部を当てにしない。
少なくとも、初回は。
◇
ライナーには、試作の結果が出た段階で手紙を出していた。
鉄を持ってきた商人に、今度は鉄を見に来てくれと頼む。
次に彼が町へ来たとき、開口一番に言われた。
「先日は、鉄が足りないとおっしゃっていましたよね」
「今も足りないよ。全部を自分たちで作れるわけじゃない」
「なのに、売るんですか」
「買ってもらえるものがあれば、その金で、作れないものを買える」
ライナーは、机の上の鉄を見た。
「商人の仕事を取られそうですね」
「取ったら、売りに行くところから俺がやる羽目になる。そこは任せたい」
笑いながらも、彼の目は品物から離れなかった。
鍛冶屋で試し打ちを見てもらい、使える用途を説明する。
ライナーの扱う品の中には、こちらの鉄でも材料になるものがある。ただし、遠くまで運べば、それだけ値段は厳しくなる。
「近い町で、釘や金具を打つ者に持ち込むなら、話はできます。毎回、同じような出来なら」
「そのために、エルゼたちを呼んだ」
「毎回という部分は、これからでしょう?」
「そうだ。だから、最初から長い約束は求めない」
領内の修理に使う分は残す。
出来の悪い分まで売れるとは数えない。
そのうえで、初回に渡せる重さと期日を示した。
ライナーは値をつけた。
俺はマルセルの紙を見た。
「運ぶ手間を考えても、もう少し欲しい」
「こちらも、持っていった先で断られるかもしれませんので」
「使える品は、今、一緒に確かめた。買い手の不安まで、全部こちらの値引きにするのは厳しいな」
ライナーが口の端を上げる。
「では、これで」
示された値で、ようやく余りが出る。
大儲けではない。少し出来が落ちれば、消える程度の余りだ。
だからこそ、条件を増やすなら、こちらも何かを出す必要があった。
「その値から少し引く。代わりに、代金の三分の一を先に受け取りたい」
ライナーが、椅子に座り直した。
「まだ、炉から出ていない鉄に?」
「だから、今回の注文分だけだ。受け取る日に残りを払ってもらう。先に受け取った分を引いてね」
「品がそろわなかった場合は」
「足りない分の前金は返す。別の注文で埋め合わせる話にはしない」
どこまでなら間に合うかは、先にエルゼに聞いてある。
彼女が答えた量から、さらに余裕を取っている。
それでも、確実という言葉は使わなかった。
「領主様のお名前を信じろ、と?」
「品物と条件を見て判断してくれ。そのために来てもらった」
ライナーは鉄を持ち上げ、置き直した。
「……ほかの商人に、先に渡されては困りますよ」
「この注文の分は確保する。ただ、今後の鉄を全部、君だけに売る約束はできない」
「そこまでは申し上げておりませんが」
「これから言うところだった?」
彼は笑った。
否定はしなかった。
最後は、値と量をもう一度合わせた。
引き渡す場所と、重さを量る方法も決める。
傷んだものや、試した品と大きく違うものは、同じ値では買い取らない。
俺たちに必要なのは、今回だけ高く売ることではない。
ライナーが次も荷車を向ける理由を残して、金を戻すことだ。
彼が帰ったあと、マルセルが紙に数字を書き加えた。
「これなら、取り分けた給金を崩さず、出荷まで回せます」
「領から出す分も、決めた範囲で収まる?」
「はい。追加で何か始めなければ」
俺は、机の横に置いた紙を裏返した。
「今のは何です」
「今ではない話だよ」
先に言われた。
最近、みんな俺の動きをよく見ている。
◇
最初の出荷の日、鉄は一本ずつ量られた。
一本だけ、試しに端を打ったところで、ライナーが手を止めた。
エルゼが見て、引き取る。
「これは、こちらへ戻してください」
「直せるのか?」
「手を入れます。今、このまま同じ品として渡すのは嫌です」
予備に回していた分を量り、約束した重さをそろえる。
全部売ることにしていなくてよかった。
荷を積むのはベルタの荷車だった。
この先の引き渡し場所までの仕事を頼んであり、ほかの運搬とぶつからない日を、キャスパーが確かめている。
「鉄は小さくても重いからね。空いて見えるからって、勝手に積まないでおくれよ」
ベルタが言うと、手伝いの兵が抱えた袋を下ろした。
誰かが余った隙間に、別の荷まで載せようとしていたらしい。
荷車にも、働く人にも、見た目で分からない限度がある。
そこは、任せている人の話を聞く。
ライナーが品を受け取り、残りの代金が数えられた。
マルセルが確認し、オットーが記録に残す。
袋の中で、貨幣が重なった。
山に積まれていた石が、ようやくここまで来た。
◇
給金を渡す日にも、俺は顔を出した。
オットーが記録を読み、受け取る者が確かめる。
ガルドは金を手にしてから、もう一度、枚数を数えた。
「違っていたか?」
「いえ」
彼は首を振った。
「この日だと聞いていたので」
「うん」
「本当に、この日なんだなと」
俺は、すぐには返事をしなかった。
前の鉱山では、石を掘っても、運べなかった。
運べなくても、働いた日は戻らない。
家で待つ者には、石を積んでおいたと言っても、食事は出せない。
「次も、約束した日に渡す。そのために、無理な量は約束しないでおこう」
ガルドは、金をしまった。
「分かりました。山の方も、勝手に広げません」
「頼むよ」
帰り道、彼が町の店で足を止めるのが見えた。
布を広げてもらい、指先で厚みを確かめている。
別の者は塩を買った。
子供に手を引かれ、店先をのぞく者もいた。
俺たちが払った金が、町の中へ散っていく。
あの店にも、仕入れと、暮らしがある。
この先ずっと、順調とはいかないだろう。
まだ、炉も家も、費用を取り戻せていない。
それでも今日、働いた人が金を受け取り、売る人が品物を渡した。
始めたかったことの形が、ようやく見えた気がした。
◇
館へ戻ると、マルセルが出荷の結果をまとめていた。
エルゼも、次に使う炭の相談で来ている。
「領内へ残す鉄は、予定どおり確保できています」
「よかった。修理を待たせているところへ回せるな」
「次の炭と運賃も、こちらで」
数字を追っていく。
余裕があるとは言えない。
だが、次に火を入れる金がある。
俺は、少しだけ身を乗り出した。
「これで、もう一つ炉を造るなら、どのくらい――」
「まず、今回の費用を全部引いてからです」
マルセルの返事は早かった。
エルゼまで、深くうなずいている。
「炉だけ増やしても、私の腕は二本ですよ」
「……相談のつもりだったんだけどな」
「でしたら、座ってできます」
言われて、俺は椅子へ深く座り直した。
人が増えた。
鉄ができた。
金も、戻ってきた。
そして、俺を止める人まで増えた。
領地は、確かに強くなっているらしかった。




