第38話 すごいじゃないか
「止めろ! 止めろって!」
帰還から半月。
キャスパーに連れられて来た水車小屋で、俺は朝から叫んでいた。
水車が回っている。
太い軸が回っている。
その先で、木枠にはめられた鋸が上下している。
ここまではいい。
その鋸と一緒に、台まで跳ねていた。
水路の脇にいた男が、取っ手を引く。
水の流れが変わり、回転が落ちた。
最後にがたんと大きく揺れ、鋸が止まる。
静かになった小屋で、俺は口を開いた。
「……これを、見せたかったのか」
「動くところを、お見せする予定でした」
キャスパーの返事は落ち着いていた。
動いた。
確かに動いた。
予定より、動く場所が多かっただけだ。
◇
少し、話を戻す。
朝、俺はいつものように執務室へ入った。
机にあったのは、決裁を待つ紙と、一枚の走り書きだった。
『水車の力を、鋸に使えないか』
その下に、丸と棒と、ぎざぎざが描いてある。
我ながら、ひどい絵だ。
金融機関に持ち込まれた設備計画がこれだったら、少なくとも説明を求める。
「覚えておいでですか」
キャスパーが尋ねた。
「ああ。以前、君に見られたやつだな」
「職人にも話してよいと仰っていたので、相談しておりました」
それは覚えている。
既存の仕事を止めず、試す費用に上限をつけるところまでは、俺も話に加わっていた。
だが、戻ってからはライナーとの取引や、領内の巡回に気を取られていた。
途中の報告には、枠を作った、軸を合わせた、と書いてあったはずだ。
言葉で読むのと、目の前で動くのとでは、ずいぶん違う。
「今日、木を挽いてみるそうです」
「今日?」
「はい。お時間があれば」
時間は作った。
そして今、跳ねる鋸を見たところだった。
◇
水車の修理をしているヨハンが、止まった軸へ近づいた。
町の板挽きも、鋸の下に置いた木を外している。
ライナーへ板を売った、あの男だった。
「枠が、横へ引かれてるな」
「刃が噛んだんだよ。そこで引っ張られた」
「押しすぎじゃないのか」
「押さなきゃ切れんだろ」
責任の押しつけ合いかと思ったら、二人ともしゃがみ込み、木に残った切り口を覗いていた。
この水車小屋では、普段は穀物を挽いている。
今日は持ち主と話をつけ、仕事のない時間を借りていた。粉を挽く方への動力は切り離し、試作の鋸だけを動かしているという。
試作に使う木材も、職人の手間も、領が払っていた。
誰かの親切だけで、ここまで作られたわけではない。
ヨハンが、木枠を手で揺すった。
「ここに遊びが要ると思ったが、多かったか」
俺は枠を見た。
鋸が上下するたび、左右にも少し振られていた。
「それなら、この両側から――」
「挟みすぎると、止まります」
ヨハンが答えた。
「もう試しました。朝はよくても、水を被って木が膨らむと、動かなくなりまして」
「ああ、そうか」
「だから、当たるところだけ取り替えられるようにしてます」
脇には、厚みの違う小さな木片が並んでいた。
俺は口を閉じた。
既に失敗している。
俺が今思いついた程度のことは、昨日か一昨日に。
キャスパーが、横から静かに言った。
「何かお気づきの点がございましたか」
「今、なくなったところだよ」
紙に丸と棒を書いた男の出番は、思ったより早く終わった。
◇
板挽きが、鋸の歯へ顔を近づけた。
「刃は無事だ。よかった」
借りてきた鋸を、枠に固定してある。
木の仕組みを作り直すより、こちらを折る方が高くつくらしい。
俺も安堵した。
試作のために、職人の普段の仕事道具を潰して帰るわけにはいかない。
「次は、水をもう少し絞る」
ヨハンが言った。
「それと、こっちの台を押さえる。刃だけ真っすぐでも、木の方が動いたら意味がない」
「送りは俺がやる。さっきは、若いのに任せすぎた」
板挽きの言葉に、手伝いの若者が肩をすぼめた。
「早く切れた方がいいと思って」
「早く壊してどうする」
俺は、耳が痛くなった。
便利な機械が動けば、もっと切れる。
もっと切れれば、もっと売れる。
つい、そういう先の話ばかり考える。
目の前の木は、こちらの都合で柔らかくなってくれない。
ヨハンたちが支えを入れ直す間、俺は切りかけの木を見た。
短い木だった。
曲がりも少なく、試すには扱いやすい物を選んでいる。
「いずれは、太い丸太も挽けるか」
「いずれは、でしょうね」
ヨハンは留め具を締めながら答えた。
「これで丸太まで引っ張る仕組みもつけたら、どっちが悪くて止まったか分からなくなります。まず、切る方だけ」
なるほど。
俺のメモには、木を送る仕組みらしき線まであった。
使わないと決めたのも、彼らだった。
「それで進めてくれ」
「はい」
返事と同時に、木槌が鳴った。
俺が頷くより、仕事の方が少し早かった。
◇
二度目は、ゆっくり始まった。
水車が回る。
軸の動きが腕のような木の棒へ伝わり、鋸の枠が上下する。
前世で見たことのある動きだった。
だが、寸法も、つなぎ方も、俺には設計できない。
板挽きが、台の上の木を少しずつ進めた。
ざっ。
ざっ。
鋸屑が、下へ落ちる。
若者が声を出しかけ、板挽きに目で止められた。
俺も、口を閉じた。
刃が進む。
木枠は揺れるが、さっきのように台まで跳ねることはない。
切り口が、こちらへ伸びてきた。
最後のところで、板挽きが送りを弱める。
手伝いの若者が、切り離される側を支えた。
一枚の板が、分かれた。
「止めていいぞ」
ヨハンの声で、水が絞られる。
今度は、予定どおりの場所だけが止まった。
板挽きが、切れた板を持ち上げた。
表面には、鋸の跡がはっきり残っている。
端の方は、少し厚い。
それでも、板だった。
「切れたな」
俺が言うと、ヨハンが頷いた。
「切れました」
それから、誰かが笑った。
若者だった。
板挽きも、髭の辺りを撫でながら笑っている。
俺は板を受け取った。
まだ、鋸屑がついていた。
水が、これを切ったのか。
目の前で全部見ていたのに、そんなことを思った。
「すごいじゃないか」
思ったまま口にした。
ヨハンが少し照れた顔をしたが、板挽きはすぐに端を指した。
「売るなら、ここを揃えないと。まだ、俺が手で挽いた方がきれいです」
「一日中、君が挽き続けなくて済むようになるかもしれない」
男は黙った。
木枠を見て、それから自分の肩を回した。
「……それなら、ありがたいですな」
派手な返事ではなかった。
俺はもう一度、板の表面へ手を滑らせた。
◇
「使うなら、専用の刃が欲しいですね」
ヨハンが言った。
「枠に合うやつを。留め具も、今のままだと何度も締め直すことになります」
「鉄か」
「ええ。木だけでは、持ちません」
やはり、そこへ戻ってくる。
ライナーは、約束どおり板を積んで領地を出た。
届いた便りには、木箱の職人が使ってみる、と書かれていた。次の数量が決まるには、もう少しかかる。
鉄も、頼めば無限に届くわけではない。
買う金と、運ぶ荷車が要る。
修理する農具。
兵の装備。
荷車の金具。
そして今、目の前に生まれた、新しい鉄の使い道。
俺は手帳へ書こうとして、止めた。
「昔は、この辺りでも鉄を出していたのか?」
板挽きが、顔を上げた。
「西の山で掘ってましたよ」
返事は、あっさりしていた。
「今は?」
「止まってます」
「掘り尽くした?」
「さあ。俺は木を納めてただけなんで」
男は鋸を片付けながら続けた。
「坑道を支える木です。あるときから注文がなくなって、それきり。掘ってた連中も、ほかの仕事に移りました」
俺はキャスパーを見た。
「古い収入の記録に、山の記載はございました。ただ、停止後の費用や現地の状態までは、まとまっておりません」
「掘っていた人を探せるか」
板挽きが、手を止めた。
「ガルドなら、町にいますよ。石積みの仕事をしてるはずです」
紙の上で止まっていた山に、人の名前がついた。
「その人に、話を聞きたい」
◇
館へ戻ると、マルセルが廊下へ出てきた。
「領主様。王都から書状が届いております」
王国の封がある。
急に背筋が伸びた。
また兵を出せという話だろうか。
俺は、後ろの庭へ目をやった。
今日はそこで、クラウディアとブルーノが兵の訓練を見ている。
妻に知られる前に、中身を確かめた方がいい。
書状を開く。
北の砦での働き。
国境の防備。
それらを認める言葉に続いて、次の納付について記されていた。
「……減免か」
「はい。既に認められている分を除き、次に王国へ納める予定の残額。その四分の一が免除されます」
マルセルは、計算した紙を添えた。
金の袋が届いたわけではない。
だが、支払うために押さえていた金の一部を、ほかへ回せる。
俺は、その数字を見た。
水車小屋で欲しいと言われた金具が、頭をよぎる。
西の山も。
「マルセル」
「はい」
「鉱山を見に行こうと思う」
彼は一度、書状を見た。
次に、俺を見た。
「読み終えてから、お考えになってもよろしいのでは」
「読み終えたよ」
「まだ、読み終えた書状を置いてもいらっしゃいませんが」
俺は書状を机へ置いた。
折り目も、丁寧に伸ばしておいた。
「それで、鉱山なのだが」
マルセルが額へ手を当てた。
◇
ガルドは、その日の夕方に来た。
板挽きから話が伝わり、仕事を終えてから顔を出してくれたらしい。
五十前後の男だった。大きな手の爪の縁に、白い石の粉が残っている。
部屋へ入ると一礼し、椅子の前で立ち止まった。
「山の話と聞きましたが」
「そうだ。座ってくれ。昔、そこで働いていた?」
「ええ。最後の年まで」
キャスパーが、古い地図を机へ広げた。
男は少し眺め、爪で一点を押さえた。
「ここです。この道は、今は荷車じゃ通れません。歩きなら行けるでしょうが」
「坑道は?」
「入口の一つは崩れたと聞いてます。奥は、見てません」
知っていることと、聞いた話が分かれていた。
俺は頷いた。
「止めた理由を聞きたい。石が出なくなったのか?」
「石はありました」
返事は早かった。
「ですが、石だけ掘っても鉄にはなりません。炭を持ってくる荷車が来なくなって、炉が止まって。給金も遅れました」
「鉱石を運ぶ方は?」
「そっちもです。道が悪くて、一度に積めない。馬が足りない。直す金もない。最後は、掘っても山に積んでおくだけでした」
俺は、机の上へ指を置いた。
掘れなかったのではない。
掘った物を、金へ戻せなくなっていた。
もちろん、それだけを聞いて、今も儲かると決めることはできない。
道はさらに傷み、坑道も放置されている。
だが、話は変わった。
「今、石積みの仕事をしていると聞いた」
「食っていかないといけませんので」
「一日か二日、案内を頼めるだろうか。仕事を空ける分も払う。まず、見られる場所だけでいい」
ガルドは、俺の顔を見た。
「領主様も来るんですか」
「ああ」
男は少し考えた。
それから、言った。
「俺が入るなと言ったら、入らないでいただきたい」
部屋が静かになった。
俺は頷いた。
「分かった」
「奥を見たいと仰られても、支えが駄目なら入れません」
「君に案内を頼むのは、俺にはそれが分からないからだよ」
ガルドの肩が、少し下がった。
「なら、ご案内します」
キャスパーが、日程を書き留めた。
明日はガルドの引き受けた仕事がある。
明後日、朝に出る。
長い面接はしなかった。
まず一緒に山へ行く。それで分かることがある。
◇
ガルドが帰ったあと、マルセルと試験に使える金額を決めた。
最初は現地を見る費用。
持ち帰れる石があれば、少量を試す費用。
坑道全体の再建や、大勢の雇い入れまでは含めない。
減免で空いた分のすべてを、山へ入れるつもりはなかった。
水車の試作も、すぐに必要な修理もある。
マルセルは数字を書き、俺へ向けた。
「この範囲でしたら」
「ありがとう」
「金が残ったと喜ぶ時間が、もう少し欲しかったのですが」
俺は笑った。
「山が動けば、残る金を増やせるかもしれない」
「その前に、出ていく金が増えるのでしょう」
そこは否定できなかった。
扉が開き、クラウディアが入ってきた。
「あなた。王都からお手紙と伺いましたわ」
「戦功への返答だよ。税を減らしてもらえた」
「まあ。それは何よりですわね」
妻は微笑んだ。
そして、俺たちの机に広がった地図を見た。
「次は、どちらへ?」
「西の山だ。鉱山を見に行く」
「何か、討つものが?」
「今のところはない」
返事をした瞬間、妻の笑みが少し静かになった。
「……石ですのね」
「石だね」
これほど石に興味のなさそうな顔を、俺は初めて見た。
机の隅には、水車小屋でもらった板が置いてある。
まだ粗い切り口を、指でなぞった。
この一枚を切るために、鉄が要った。
その鉄を作るために、今度は別の人の力が要る。
俺は地図を畳んだ。
明後日は、その人と山へ行く。




