第34話 十人と、うちの妻です
三日かけて着いた連合軍の陣には、旗が何本も立っていた。
色も、紋章も違う。
その下を、槍を担いだ兵が行き来している。馬の嘶きに交じって、荷車を止める声が飛んでいた。
人が集まれば、それだけで仕事が増える。
門の脇では、荷台を開けた商人と、板に何か書きつける兵が揉めていた。
「だから、受け取るのは向こうだと」
「向こうで、こっちへ行けと言われたんだよ!」
到着したばかりなのに、妙な親近感が湧いた。
「フェルデン領の援軍だ。指揮官への取り次ぎを頼みたい」
入口の兵へ告げると、兵は俺たちの列を見た。
それから、街道の向こうへ目を向けた。
「後続は、どちらに?」
「これで全員だ。兵は十人。それに、俺と妻だな」
「……奥方様も?」
クラウディアが、馬上で穏やかに微笑んだ。
「夫ともども、お世話になります」
兵の顔に、明らかな困惑が浮かんだ。
分かる。俺も説明する順番を考えている。
「戦闘の指揮は妻が執る。御使者にも、そのように伝えてある」
「はっ。失礼いたしました」
兵は慌てて頭を下げ、別の者を呼んだ。
隣で、トマが小さく息を吐いた。
「十人とお聞きになって、少しがっかりなさったようでしたね」
「国境を空にして来るわけにもいかないからな」
「奥様をご覧になって、安心なさるかと思ったのですが」
安心するためには、まず一度、怖がる必要がある。
なかなか難しい妻だった。
◇
エルンスト卿は、地図を広げた卓の前にいた。
俺たちが名乗ると、手元の紙を確かめ、椅子を勧める。
立派な髭より先に、日に焼けた手の甲が目についた。
「国境の橋を守ったと聞いている。領内の備えは残してきたか」
「はい。現地の指揮官に加え、領内で兵を動かせる者を置いてきました」
「それならよい。こちらへ来た間に橋を失われては、砦を取り返した意味が薄れる」
人数についての嫌味はなかった。
卿は、クラウディアへ目を向けた。
「実戦の指揮は、奥方が?」
「ええ。兵とともに働かせていただきますわ」
「到着したばかりだ。今日は休ませてくれ。明朝、配置を伝える」
俺は礼を述べてから、食糧の話を切り出した。
「その前に、受け取り先だけ確認させてください。兵と馬、それに荷車の御者の分も、名簿にまとめてあります」
「補給係に渡してくれ。食糧は届いている。飼葉の一部が遅れているが、当面の分はある」
「次の便は、いつの予定でしょう」
「四日後だ。ただし、南の渡し場で荷が詰まっている。予定どおりになるかは、明日もう一度報告させる」
届いている物と、届くはずの物を分けて話してくれる。
それだけで、ずいぶん安心できた。
「承知しました。持参した分は、帰路と不足時に備えて残しておきます」
「そうしてくれ。足りなくなってから各領が勝手に買い集めると、今度は近くの村が困る」
隣の妻が、地図を覗き込んだ。
「砦の正面は、この道だけですの?」
「荷車が通れるのはな。西にも道はあるが、古い石切り場へ続く道だ。今朝、確かめる者を出した」
「正面へ出てくる敵兵の数は?」
「日によって違う。こちらを近づけまいと、小さな部隊を出してくる」
「まあ。それは、お困りでしょう」
困っている人の顔ではなかった。
エルンスト卿が、わずかに目を細める。
「砦攻めの経験があるのか」
「いいえ。ただ、外へ出てくださるのでしたら、少々お手伝いできるかと」
少々。
俺はその言葉の扱いに、妻と重大な隔たりがあることを知っている。
「出撃は、こちらの指示に従ってもらう」
「もちろんですわ」
返事は、実に淑やかだった。
◇
割り当てられた場所へ戻る途中、補給係へ名簿を渡した。
麦の袋はあった。
飼葉も、少なくとも空の倉庫を指して届いていると言っているわけではない。
ただ、受け取りの順番を決めた紙の前に、三つの領の兵が固まっていた。
「うちは朝と言われたぞ」
「こちらも朝だ」
朝という言葉は、便利すぎる。
係の者に聞くと、各領へ伝えた者が違い、来る時刻まで揃えていなかったらしい。
「うちは最後で構わない。ただ、いつ来れば受け取れるか決めてくれ。ここで兵を待たせると、その分、休めなくなる」
「では、日があの旗竿の向こうへ移る頃に」
「分かった。受け取りに来る者にも伝えておく」
俺が名簿の控えへ書き込むと、トマが横から覗いた。
「こちらでも、お仕事ですね」
「飯をもらうのも仕事だよ」
「奥様は、もうお済みのようですが」
妻は、近くの兵へ砦の方角を尋ねていた。
その兵が身振りを交えて答えるたび、うんうんと楽しそうに頷いている。
「……妻も、仕事の下調べだろう」
「楽しそうですね」
「仕事が楽しいのは、いいことだ」
言ってから、トマに見られた。
何か言いたそうだったが、聞かないことにした。
◇
翌朝、俺たちは陣の北側へ配置された。
砦へ向かう街道と、石切り場の方から回ってくる細い道が、そこで合わさっていた。
偵察に出た兵の帰りを受け入れ、敵が追ってきた場合には陣へ知らせる。
必要以上には追わない。
命令を聞いたクラウディアは、少しだけ残念そうだった。
「まずは、こちらの働き方を見てもらおう」
「分かっておりますわ」
妻は下馬すると、兜を手に地形を眺めた。
道の片側には浅い溝があり、その向こうは刈り取りを終えた畑だった。反対側には、低い藪が続いている。
ブルーノから行軍中の取りまとめを任されていた年嵩の兵が、盾を持つ者を道の脇へ寄せる。
道の真ん中は、帰ってくる味方のために空けた。
「アイナ。馬はすぐ出せるようにしておきなさい」
「はい」
「追いかけるためではなくてよ」
「承知しております」
確認した本人が、一番追いかけたそうだった。
俺はトマとともに、少し下がった場所へ移る。
ここからなら道が見えるし、兵の動きの邪魔にもならない。
妻が、兜をかぶった。
しばらくして、遠くで声がした。
細い道から、馬が一頭、飛び出してくる。
続いて二頭。その後ろにも、もう一頭。
「敵だ! 追ってくる!」
先頭の騎手が叫んだ。
背後に、別の馬影が見えた。
道の曲がり角から、槍を持った敵兵が現れる。
クラウディアの声が変わった。
「帰ってくる連中を通せ! 伝令、陣へ! 敵の騎兵がこちらへ向かっていると伝えろ!」
兵が一人、走り出す。
年嵩の兵が、残る者たちへ声を掛けた。
「槍を下げろ! 道を塞ぐのは、味方が抜けてからだ!」
俺の視界にも、《換算》の表示が浮かんだ。
自軍の状態を確かめながら、道を見る。
先頭の味方が抜けた。
二頭目、三頭目。
最後の馬には、誰も乗っていなかった。
「左にいます!」
アイナが叫んだ。
「溝の向こうです! さっき、馬から落ちました!」
目を凝らすと、道から少し離れた場所で、人が片腕を上げていた。
起き上がろうとして、また膝をつく。
敵は、もう曲がり角を抜けている。
「アイナ、連れてこい! こちらで止める!」
「はい!」
アイナが馬の腹を蹴った。
街道へは出ない。
畑の縁を斜めに進み、倒れた兵の方へ向かう。
俺は逃げ込んできた騎手を呼び止めた。
「戻っていない者は、ほかにもいるか!」
「いえ! あいつだけです!」
「トマ、受け入れる場所を空けてくれ。手当ての支度も」
「はい!」
道の先で、敵が速度を落とした。
槍先が並んだのを見て、そのまま飛び込むのをためらったらしい。
一騎が畑の側へ膨らんだ。
「そっちじゃねえよ」
クラウディアが進み出た。
「相手はこっちだ。来いよ、盗人のクズども!」
初めてその声を聞いた味方の騎手が、びくりと肩を跳ねさせた。
気持ちは分かる。
今は、妻を見ている場合ではないのだが。
◇
アイナが馬を止めた。
飛び降り、倒れていた兵の肩へ手を回す。
兵は立てた。
だが、片足を引きずっている。
馬を寄せた場所は、溝から掘り上げた土が小さく盛り上がっていた。
アイナはそこへ兵を押し上げ、鞍を掴ませる。
「上がって! 足は、こちらへ!」
風に乗って、声の一部が届いた。
兵が鞍へ腹を乗せる。
アイナが腰を押し、ようやく片脚が馬の向こうへ回った。
そのとき、藪の陰から敵兵が出た。
馬には乗っていない。
先ほどの追手に続いて来たのか、俺の場所からは見えていなかった。
「アイナ、右!」
味方の声が飛ぶ。
アイナは手綱を短く持ったまま振り向き、剣を抜いた。
敵の刃を受ける。
遠目にも、身体が押されたのが分かった。
馬が首を振った。
鞍の上の兵が、必死にしがみつく。
アイナは踏みとどまって打ち合おうとはしなかった。
手綱を引き、馬を先にこちらへ向ける。
敵が踏み込む。
もう一度、刃がぶつかった。
道端から、味方の槍兵が二人出た。
「そのまま戻れ!」
年嵩の兵の声だった。
迎えに出た槍先を見て、敵が足を止める。
アイナは馬を引いて走った。
俺は表示から目を上げた。
補助を選ぶ指が止まる。
前へ出た二人も、アイナの後ろについて戻ってきていた。
道の方では、敵の騎手が馬から転げ落ちた。
妻が、伸びてきた槍を避けて脇へ入り込んでいる。
何をどうしたのか、全部は見えなかった。
ただ、落ちた兵の手から剣が離れ、次の敵が近づくのをやめたのは分かった。
「どうした! 追いかけるのが好きなんだろうが!」
妻が一歩進む。
敵の馬が後ずさる。
陣の方から、角笛が鳴った。
こちらへ向かってくる味方の槍が、朝日に光っていた。
敵の一人が何か叫んだ。
馬首が返る。
徒歩の兵も藪の方へ走り出した。
クラウディアが、半歩踏み出す。
「奥様、ここまでです!」
年嵩の兵が声を張った。
妻は止まった。
肩が、ゆっくり上下する。
「……分かってるよ」
非常に分かりたくなさそうな返事だった。
◇
助けられた兵は、足首を痛めていた。
近くにいた兵へ馬を預け、二人掛かりで降ろす。
「敵が来たときに、馬が道の石を踏んで……」
痛みに顔をしかめながら、それでもアイナへ頭を下げようとする。
「助かった。ありがとう」
「いえ。動かないでください」
アイナの息も、まだ整っていなかった。
剣を納めようとして、一度、鞘の口を外す。
俺はその手を見た。
「どこか傷めたか」
「いいえ。少し、手が」
「なら、少し休め。馬も見てもらおう」
アイナは頷いたが、すぐに道の方へ目を向けた。
クラウディアが戻ってくる。
兵たちも、声を掛け合いながら持ち場を確かめていた。
「ほかの者も戻っている。今、人数を確かめているよ」
そう伝えると、ようやくアイナの肩が下がった。
「よく気づいたな」
「最後の馬が、道を曲がるところで跳ねたんです。そのとき、人が左へ落ちたので」
「空の馬だけ見ていたら、場所までは分からなかった」
「こちらへ来る人を、見ていましたから」
敵が何人いるか。
どこから攻めてくるか。
俺は、そちらばかり見ていた。
アイナは、帰ってくる者を見ていたらしい。
「助かったよ」
「私は、命じられたことをしただけです」
横から、トマが布を差し出した。
「その命令が出たのは、お前が見つけたからだろ」
アイナは布を受け取ったまま、黙った。
「それに、戻ってきたしな」
「……はい」
今度の返事は、小さかった。
だが、俯いてはいなかった。
クラウディアが兜を脱いだ。
「ご苦労でした、アイナ。馬を落ち着かせたら、水を飲んでおきなさい」
「はい!」
返事が急に大きくなった。
妻は満足そうに頷き、俺へ向き直る。
「お怪我はございませんでしたか、あなた」
「俺は、後ろにいたからな。君こそ大丈夫か」
「ええ。少々、慌ただしかっただけですわ」
近くで水を飲んでいた偵察兵が、咳き込んだ。
少々の意味を、また一人、学んだらしい。
◇
戻ってきた偵察兵の報告は、エルンスト卿の前でまとめられた。
西の道は、途中まで馬が通れる。
だが、崩れた場所があり、そこから先は下馬しなければならない。
砦の脇へ近づく手前には、見張りもいた。
無人の抜け道が見つかった、という都合のいい話ではなかった。
助けられた兵が、卓上の地図を指す。
「この曲がり角から先です。石を積んだ低い壁があります。向こうからは見えにくいですが、上から狙われます」
「通れる幅は」
「二人並ぶと、動きにくいかと」
ほかの者が見たことも重ね、地図に印が増えていく。
卿は最後まで聞いてから、兵を休ませるよう命じた。
「追手を止めた働きも聞いた。負傷者を残さず戻せたのはよかった」
「兵が見つけてくれました。アイナという者です」
エルンスト卿は頷いた。
「名を控えておこう」
それだけの言葉だった。
だが、俺は少し嬉しかった。
連れてくると決めたとき、アイナは戦場へ戻ることを選んだ。
今日、彼女がしたのは、誰かを戦場から連れ戻す仕事だった。
次も、その次も、戻ってきてほしい。
領地に残った連中が、また余計なことを言えるように。
卿が、地図の一角へ指を置いた。
「フェルデン卿」
「はい」
「明日の攻撃で、貴隊に任せたい場所がある」
隣で、椅子が小さく鳴った。
妻が身を乗り出していた。
返事をするのは、もう少し話を聞いてからにしてくれ。
俺は卓の下で、そっと妻の膝に手を置いた。




