第32話 後ろは任せましたわ
魔物が出たという知らせを聞いて、俺は地図へ顔を落とした。
顔を上げると、妻がいなかった。
「クラウディアは?」
「鎧を、と」
トマが、開いたままの扉を見た。
早い。
ほどなく戻ってきた妻は、まだ普段着だった。ただし、後ろの従者が手甲と肩当てを抱えている。
「村の皆様が、不安な思いをしておられますもの」
「そうだな」
理由は正しい。
声が弾んでいなければ、もっとよかった。
ブルーノが館へ来てから、五日。
兵との稽古や、見回りの者から道を聞く仕事を始めたところだった。
彼は報告に来た兵へ水を渡し、地図の上へ指を置いた。
「どこで見た?」
「この村の、森側の畑です。岩牙猪が六頭。柵を壊して、家畜の囲いの方へ」
「人は中へ入ったか」
「見えた者は。門は閉めてあります。私が発ったあとも、二人残って見ています」
村からここまでは、馬を急がせて半刻ほどだという。
ここへ来る前に、隣の農家へも声をかけてくれていた。
「よし。案内は頼めるか。馬は替えよう」
「はい」
クラウディアが、地図をのぞいた。
「六頭で固まっているの?」
「いえ。二頭は道の方へ離れていました」
「では、そちらを抜けさせないようにしましょう」
指が、畑の脇をなぞる。
ブルーノがうなずき、兵を呼んだ。
館の守備から八人。連絡を受けた近くの見回りから、合流できる者が加わる。
橋の兵は動かさない。館にも、残す。
「俺も行く。村の被害と、道の状況を確かめたい」
クラウディアが俺を見た。
「前には、お出にならないでくださいね」
「分かっている」
「では、トマ。お願いしますわ」
トマがうなずいた。
俺の配置は、今のやり取りで決まったらしい。
◇
村が見えたとき、最初に目についたのは、畑を横切る黒い塊だった。
猪。
そう呼ぶには、肩が高すぎた。
盛り上がった背。泥のついた剛毛。
額から鼻へ、灰色の板のようなものが重なっている。
曲がった牙が、折れた杭を持ち上げていた。
木が裂けた。
持ち上げたのではない。
首を振っただけで、柵が抜けたのだ。
「岩牙猪です。額と肩は硬いので、正面から斬るのは避けます」
ブルーノが、俺へ短く説明した。
避ける、という言葉がありがたかった。
あれへ正面から向かうつもりは、まったくない。
村の手前で馬を止めた。
家々を囲う垣の内側から、老人がこちらへ手を振っている。
「領主様まで!」
「けが人はいるか」
「一人、逃げるときに足を。家へ運びました。あとは、まだ畑に……」
老人は、畑の端を指した。
倒れた荷車の向こうに、二人いた。
積んでいた薪を盾代わりにして、身を伏せている。
そこから村の門までの間を、猪が一頭、行き来していた。
ブルーノが先に着いていた見回りの兵を呼ぶ。
「裏から回れるか」
「用水の脇に道があります。ただ、曲がり角から先は見えません」
「そこを知っている者は」
「俺が」
老人の隣にいた若い男が手を上げた。
ブルーノは、勝手に走り出させなかった。
どこまで垣の陰を通れるか聞き、兵二人をつける。
「見えるところまで案内してくれ。そこからは兵が行く」
クラウディアが手綱を従者へ渡した。
兜をかぶる前に、ブルーノを見る。
「道へ出ている一頭を、こちらへ向けますわ。その間に」
「はい。ほかの五頭が動いたら、すぐ知らせます」
彼女が歩き出す。
俺は《換算》を開いた。
人は対象外。木材も外したまま。
鉄を使う装備強化へ意識を向け、まだ決定せずに止めた。
まず、兵がどこに立つかを見る。
◇
クラウディアは、折れた柵の外へ出た。
「おい」
声が変わった。
道の岩牙猪が鼻を上げる。
妻は、拾った石をその前へ投げた。
「こっちだ、泥だらけのクソ団子」
ブルーノの首が、わずかに動いた。
隣の兵が、小声で言う。
「そちらも、慣れます」
「……そうか」
岩牙猪が、地面を蹴った。
速い。
大きな身体が近づいてくるというより、地面ごとこちらへせり上がるようだった。
妻が、半歩ずれた。
剣が、低いところを走る。
突進の向きが崩れた。
猪は片側へ傾き、泥を掘りながら倒れ込んだ。
前脚だった。
クラウディアは追い越すように動き、起き上がろうとした首の下へ剣を入れた。
硬い額を叩く音は、一度もしなかった。
その間に、荷車の陰の二人が立つ。
兵に肩を押され、用水脇の道へ駆け込んだ。
「二人、入った!」
報告が飛んだ。
ブルーノが村の門へ目を向け、もう一度数を確かめる。
畑の五頭が、こちらを見ていた。
「盾は道の口。槍、前へ。追うなよ、ここを渡さなきゃいい」
兵が並ぶ。
道幅は狭く、両脇には水路と積まれた石がある。
ブルーノは広い畑へ兵を出さず、村へ向かう通り道を押さえた。
「奥様。二人とも中です。こちら、整いました!」
白い布を巻いた短い旗が上がる。
クラウディアが、ちらりと見た。
兜の奥から、明るい声が返る。
「では、後ろは任せましたわ」
そして、前へ向き直った。
「人様の畑で好き勝手やってんじゃねえぞ、クソ猪ども!」
村の老人が、俺を見た。
俺は、畑を見ていた。
妻は今日も、頼もしかった。
◇
二頭が同時に動いた。
クラウディアは片方へ向かって走った。
俺には、わざわざ近づいているようにしか見えない。
牙が振られる。
妻が身体を沈め、横へ抜ける。
大きな猪が、後ろから来たもう一頭の進路へ割り込んだ。
重い身体同士がぶつかる。
「仲良く並べよ!」
剣が突き出された。
肩の硬い部分を外し、その後ろへ深く入る。
妻はすぐに引き抜き、よろめいた方の首へ回った。
一頭が倒れるより先に、もう一頭が横転した。
村の門の内側で、誰かが息をのんだ。
兵たちは見とれていなかった。
「右、抜ける!」
一頭が畑を横切り、道へ向かってきた。
槍の穂先がそろう。
猪は正面の刃を嫌うように首を振ったが、止まりきらない。
「受けっぱなしにするな! 後ろ、支えろ!」
ぶつかった盾が、大きく傾いた。
持っていた兵の靴が、土を滑る。
俺は、開いたままの文字へ意識を戻した。
その前で、二本目の槍が低く入った。
ブルーノが横へ出て、空いた隙間へ盾を寄せる。
「左の二人、代われ! 顔を下げるな!」
押された兵が下がり、隣の兵が入る。
猪の牙が盾の縁を削った。
足が、水路側へ落ちかける。
ブルーノが旗を持つ兵へ顎を振った。
短く、笛が鳴る。
旗が左右に振られた。
クラウディアが振り返った。
残る二頭は、森の方へ逃げ始めていた。
妻の足が、そちらへ一歩出る。
止まった。
「あとで覚えてろよ!」
何に対しての約束かは分からない。
だが、彼女は戻ってきた。
「そのまま押さえてろ!」
槍の兵が踏ん張る。
クラウディアは盾の列の外から入り、猪の後脚へ剣を走らせた。
巨体が崩れる。
牙の届かない側へ回った妻が、刃を突き下ろした。
土を蹴っていた脚が、止まる。
「負傷は!」
ブルーノが叫んだ。
「ありません!」
「盾が割れました!」
「腕は動くか。見せろ」
報告を受ける横で、クラウディアが森を見た。
追いかけなかった。
「二頭、入りましたわね」
「見回りの二人に、外から跡を見させています。兵は森へ入れません」
「ええ。村の周りを先に」
剣を下げる。
俺は、浮かべていた文字を閉じた。
使う前に、終わっていた。
◇
倒したのは四頭。森へ退いたのは二頭。
兵に大きな怪我はなく、盾を受けた一人の手に擦り傷があった。
腕と肩も診てもらうよう伝える。
村人の捻挫も、すぐに命へ関わるものではないと聞いた。
俺はようやく、馬から下りた。
村の門が開く。
出てきた男が、畑の方へ走ろうとして、ブルーノに止められた。
「まだだ。動かないか、先に確かめる」
「ですが、あれの牙は」
「牙は逃げん。お前の足は、大事にしとけ」
男は立ち止まった。
俺はトマと、逃げ遅れていた二人のところへ行った。
片方は年配の女で、もう一人は少年だった。
「無事でよかった。ほかに外へ残っている人は?」
「皆、おります。朝、薪を運び出していて……」
女は、倒れた荷車を見た。
「一頭なら、叩いて追えると思ったんです。そしたら、森からぞろぞろ」
俺はうなずいた。
なぜ逃げなかったと責めても、壊れた柵は戻らない。
まず、村の者に人数を確かめてもらった。
誰が畑へ出ていたか。家畜を連れて出た者はいないか。
クラウディアが兜を外し、こちらへ歩いてきた。
「ご無事で、何よりですわ」
女が、深く頭を下げた。
少年は妻の顔と、手にした剣を交互に見ている。
「さっきの、ねえちゃん?」
「ええ」
にこりと笑う。
「母ちゃんが、真似するなって」
女が慌てて少年の口を塞いだ。
俺は、少し間を置いて言った。
「剣も、言葉も、よく習ってからだな」
トマが俺を見た。
後半は、習わなくてもよかった。
◇
村の周りを確かめる間に、壊れたものを見て回った。
柵の杭が七本。家畜の囲いの一部。
荷車は横へ倒れていたが、村の者と起こしてみると、すぐに折れたと分かる箇所はなかった。
使う前に、車輪と軸を確かめてもらう。
畑の被害は、今日見える分だけで決められない。
踏み倒された作物がどのくらい残るか、村で見てもらい、後日知らせることにした。
「杭の代わりに使える木はあるか」
老人が、村の脇の積み場を指した。
「あります。ただ、どれでもよいわけでは」
「選べる人は?」
「木を切っていた者がおります。今は、腰を悪くして」
呼ばれて出てきた男は、杖をついていた。
積まれた丸太を指し、こちらは柵へ使う、あちらは売る約束がある、と分けていく。
「立っている木のことも、分かるのか」
「この辺りなら。切っていいものと、まだ残すものくらいは」
俺は森へ目を向けた。
地図には、森がある。
だが、誰の持ち分で、何が切れ、どこを通して運べるかまでは書いていない。
今日は魔物を退けた。
これで、明日から自由に材を出せるわけではなかった。
「足に無理のない範囲で、後日話を聞かせてほしい。町の職人にも、何の木が必要か確かめておく」
「わしでよければ」
「仕事として頼む。案内が難しければ、村で地図を見ながらでもいい」
男は、杖から片手を離した。
少し、背が伸びたように見えた。
ブルーノが近づいてくる。
「村の周りには、今のところいません。ただ、逃げた二頭が戻るかもしれません」
「今夜の見張りは」
「見回りの兵を残します。村の者にも、見つけたら追わずに知らせてもらう。道の確認も、組んでおきます」
俺は老人へ向き直った。
「柵の穴をふさぐ間の人手は出す。材料と、作業を任せられる人を教えてくれ」
今度は、何人かが同時に口を開いた。
名前が出る。
仕事が出る。
俺は、トマに紙を借りた。
◇
館へ戻れたのは、日が傾いてからだった。
キャスパーとマルセルへ、被害と当面の手配を伝える。
壊れた盾の補充。村に残した兵の食料。見張りを続ける間の交代。
戦いは短かった。
そのあとにする仕事は、いくつもあった。
オットーが、俺の書いた紙を受け取る。
「こちらの方は、館で雇うのでしょうか」
「いや。森の木について、話を聞く仕事を頼みたい」
「こちらの方は?」
「柵の修理をまとめられる人だ。今回だけ、まず頼む」
オットーは、持っていた別の紙と重ねかけ、分けた。
商人の店へ応募した者の、面談記録だった。
彼の机には、支払い、届け出、仕事を探す者の名前が並んでいる。
「これは、同じ帳面では追いにくいな」
俺が言うと、オットーは苦笑した。
「来てほしい方と、来たい方が、両方増えまして」
採るかどうかだけではない。
誰が何をできるか。どこで働きたいか。住まいは決まったか。働き始めて、困っていないか。
その確認まで、彼のほかの仕事の隙間へ入れていた。
「人の相談を、続けて見る担当が要るな」
キャスパーが顔を上げた。
「採用の窓口を、分けますか」
「ああ。ただ、紙を受け取るだけでは足りない。本人と仕事先の両方に話を聞き、必要ならつなぎ直せる者が欲しい」
オットーの手元を見る。
「今、君が受けている相談を元に、任せる仕事を整理しよう。全部、君の仕事に足していくつもりはない」
彼は、少し肩を下げた。
「それは、助かります」
ようやく人が増えた。
増えた人が働けるようにする仕事も、増える。
それを、頑張っている者へ際限なく積むのは違う。
◇
その晩、ブルーノの報告を受けた。
「妻は、どうだった?」
「頼もしい方ですね」
「そうだろう」
つい、口元が緩んだ。
「敵に回らなくて、本当によかった」
そちらの感想だったか。
クラウディアが、隣でお茶を飲んでいる。
「わたくしも、今日はとても動きやすかったですわ」
「そりゃよかった。次も、戻る合図は見てくださいよ」
「見ましたでしょう?」
「ええ。ちゃんと」
ブルーノが笑った。
妻も、満足そうだった。
そこへ、キャスパーが一通の書状を持ってきた。
「留守の間に、王国の使者が到着しています。明朝、お目通りを願いたいと」
封には、王国の印があった。
人が足りないと訴えたときの返事を思い出しながら、開く。
今度は、こちらへ人を求める話だった。
北隣の領が失った、街道沿いの砦。
そこを足場にする敵国兵が、往来を妨げている。
王国は奪還のため、近隣領の兵を集める。
フェルデン領にも、援軍を出すよう命じる、とあった。
添えられた図へ目を落とす。
砦の脇を抜ける道は、鉄や塩を運ぶ商人が使う道だった。
「……ここを押さえられているのか」
守っているだけでは、こちらへ届く物まで細っていく。
兵を出せば、今度は領内の守りが薄くなる。
俺は、集合の期日を確かめた。
「キャスパー。出せる兵と物資を、明朝までに確認したい。使者には、作戦と補給の話を聞こう」
「承知しました」
隣で、杯の置かれる音がした。
「あなた」
クラウディアが、ひどく落ち着いた声で言った。
「近隣の皆様が、お困りなのですわね」
俺は書状から顔を上げた。
その理由も、正しかった。




