第31話 奥様を止められる方
「先に申し上げますが、逃げ足を買われて来たわけじゃありません」
ブルーノは、椅子へ座る前にそう言った。
日に焼けた首。短く切った茶色の髪。
上着は新しくないが、襟元は洗ってあった。差していた剣は、入口で預けている。
三十六歳。
前世の俺より、一つ上だった。
「それは、話を聞いてから判断したい」
「もっともです」
男は頭を下げ、勧めた椅子へ座った。
腰を下ろす動作に、妙な気負いがない。
「臆病者と呼ばれたとは、聞いている」
「ええ。そっちは、よく広まりますね」
苦笑した。
言い訳を重ねるでもなく、こちらの次の言葉を待つ。
キャスパーが、経歴の書かれた紙を俺の隣へ置いた。
王国内の別の領で、二十人ほどの兵を率いていた。今は、商人に雇われて荷の護衛をしている。
「前の戦では、何を任されていた?」
「街道側の守りです。敵を押し返したところで、追えと」
「それに従わなかった」
「すぐには動けないと答えました。歩けない兵が四人、倒れた馬が一頭。残った馬は、荷車を引かせるつもりでしたから」
俺は紙へ目を落とした。
「負傷者を乗せるために?」
「はい。置いて追うなら、せめて収容する兵を寄越してくれと頼みました」
「返事は」
「戻ってから拾え、と」
ブルーノの声は変わらなかった。
「日が落ちかけていました。敵が全員、街道を逃げたかも分からない。森へ入った連中が戻れば、四人とも終わりです」
「その事情は伝えた?」
「伝令に。収容が済むまで守りを解かないとも」
俺は顔を上げた。
「伝わったことは、確かめたか」
「伝令は戻りました。命令は変わらんと。その場にいた兵の名は、出せます」
キャスパーが書き留める。
「追えば、得られたものもあるだろう」
「敵の荷は奪えたかもしれません。向こうが立て直す前に、もっと削れたかもしれない」
「それでも?」
「こちらの四人は、まだ生きてましたので」
男は、膝の上で手を組み直した。
「ただ、馬を失った時点で後ろへ知らせるべきでした。追えと言われてから話したんじゃ、向こうも予定が狂います。そこは俺の落ち度です」
俺はうなずいた。
何を見て判断したかは、話せる男だった。
「四人は?」
「連れ帰りました。一人は、翌朝に」
そこで、言葉が切れた。
「……そうか」
俺は、紙に書いた数を見た。
戻した数と、助かった数は違う。
ブルーノは杯へ手を伸ばし、一口飲んだ。
「主の機嫌は、そのあと戻りませんでした。兵を外されて、倉庫番をして、結局お暇をいただきました」
「それで、護衛を」
「食わなきゃなりませんから。馬の代わりに荷車を押すこともありますよ」
少しだけ、口元が緩んだ。
「逃げるにも、荷車は重いんです」
◇
紹介した商人には、本人とは別に話を聞いてあった。
約束の朝までに護衛を集める。
道中で車輪が傷めば、止まる場所を選んでから人を下ろす。
宿へ着いたあとも、荷と人数を確かめてから、自分の飯にする。
「用心深くて、商いの邪魔になることは?」
そう尋ねると、商人は少し笑った。
「ありますよ。雨のあと、近道を断られましてね。日が延びた分、宿代もかかった」
「不満だったか」
「そのときは。あとで、同じ道を行った荷車がはまったと聞きました」
ただし、前の戦を見ていたわけではないという。
そこは混ぜなかった。
ブルーノには、以前一緒に働いた者の連絡先と、仕え先を離れる際の書付も出してもらった。
確かめることは残っている。
それでも、次の話をするだけの材料はあった。
「任せたいのは、妻の副官だ。本人にも会ってもらいたい」
「奥方様が、兵を率いられると伺いました」
「ああ」
「お守りする役目もある、ということでしょうか」
戸口で待っていたトマが、目を伏せた。
俺は、一瞬、言葉を選んだ。
守ってほしいのは、主に彼女についていく兵の方なのだが。
「まずは、会ってくれ」
◇
クラウディアは、館の脇の稽古場で待っていた。
髪をまとめ、動きやすい服の上から防具を着けている。
こちらに気づくと、柔らかくほほえんだ。
「お待ちしておりました。クラウディアです」
「ブルーノと申します。お目にかかれて光栄です」
男が、丁寧に頭を下げる。
その後ろで、稽古に参加する兵が目を合わせていた。
誰かが何か言いたそうに口を開き、閉じた。
「まず、少し打ち合っていただけます?」
「承知しました。どの程度まで」
「普段の稽古と同じで構いませんわ」
兵の一人が、空を見た。
俺はトマに顔を寄せた。
「今のうちに、水を」
「用意しております」
仕事が早い。
刃のない稽古用の剣が渡された。
頭や喉は狙わない。降参か、武器を落とせば終わり。立会い役が合図を確認する。
ブルーノは盾を持ち、クラウディアと向き合った。
「では、参ります」
最初の一歩は、慎重だった。
相手の出方を見るように、剣先を動かす。
妻が踏み込んだ。
音が二つした。
一つは、盾に剣が当たる音。
もう一つは、ブルーノの剣が土へ落ちる音だった。
男は後ろへよろめき、踏みとどまった。
空いた手と、落ちた剣を交互に見る。
「……なるほど」
盾を下ろした。
「先ほどの、お守りするという話ですが」
「ええ」
「ドラゴンとかから、ですか?」
後ろで兵がむせた。
トマが、水を渡していた。
用意しておいてよかった。
◇
少し休んでから、兵をまとめる様子を見ることにした。
六人の兵と、空の荷車一台。
ブルーノには、稽古場の端に引いた線まで荷車を下げてもらう。
クラウディアが一人で、それを妨げる。
彼女が荷台に触れるか、決めた時間までに運びきれなければ失敗だ。
剣で打たれた兵は、いったん列を離れる。
押し倒すほどの体当たりは禁止。
頭への攻撃もなし。怪我の恐れがあれば、誰でも止めてよい。
「奥様お一人で?」
ブルーノが言った。
確認するような口調だった。今度は、気遣っているわけではない。
「足りませんかしら」
「いえ。できれば、もう少し減らしていただきたいところです」
妻が笑った。
兵たちも笑ったが、短かった。
準備の間、ブルーノは兵へ一人ずつ名前を聞いた。
「盾を使い慣れてるのは?」
三人が手を上げる。
「腕が痛い者は、先に言ってくれ。あとからかばう方が大変だ」
もう一人が、少し迷って手を上げた。
「よし。荷車の後ろへ。向きを直してくれ。引くのは、そっちの二人」
残る三人へ盾を渡し、自分も一枚持つ。
地面を歩き、荷車の車輪が通る幅を見た。
「奥様を追うな。荷車を守る。抜かれそうなら、まず声を出せ」
しゃがんで、緩んだ盾の留め具を直す。
「後ろへ下がるときは、足を交差させるなよ。俺の声を聞いて、一歩ずつだ」
俺は、線の外から見ていた。
さっきまで初対面だった兵が、ブルーノの手元を見ている。
長い演説はない。
何をすればよいか、順に渡している。
立会い役が手を上げた。
「始め!」
クラウディアが、正面から来た。
盾が鳴る。
兵の肩が大きく揺れた。
「受け止め続けるな。下がっていい。右、代われ!」
ブルーノの声で、隣の盾が前へ出る。
押された兵が後ろへ入り、構えを直した。
その間に、荷車が動いた。
ほんの少しだ。
だが、動いた。
クラウディアが横へ回る。
「左、来るぞ!」
兵が叫ぶ。
ブルーノは彼女を追わず、荷車との間へ盾を寄せた。
「急ぐな。車輪を引っかけるなよ」
彼自身の額にも、汗が浮いている。
妻が剣を振った。
盾の端を払われ、兵の一人が列を離れる。
「一人抜けた。間を詰めろ!」
声が飛ぶ。
荷車を引く兵が足を速めた。
車輪が跳ねた。
後ろで向きを直していた兵が、足をもつれさせて膝をついた。
同時に、クラウディアが空いた側へ踏み込む。
「中止! 足元に一人!」
ブルーノの声が響いた。
妻の剣が止まった。
次の一歩も、止まった。
「全員、止まれ。荷車を押さえろ」
ブルーノは盾を置き、膝をついた兵へ手を伸ばした。
「ひねったか?」
「いえ。手をついただけです」
「見せてみろ」
手のひらを確かめ、立会い役に引き継ぐ。
その間、クラウディアは剣を下げたまま待っていた。
ブルーノが振り返る。
「失礼しました、奥様」
「構いませんわ。立て直してから、続けましょう」
男が、短く頭を下げた。
俺は握っていた手を開いた。
止まる理由が伝われば、妻は止まる。
それを、ためらわずに言える者がいた。
◇
結局、荷車は線まで届かなかった。
再開して間もなく、盾の交代が遅れた。
クラウディアが空いた場所を抜け、荷台へ手を置いた。
「ここまでですわね」
兵たちが、その場へ座り込んだ。
ブルーノも盾を下ろし、大きく息を吐いた。
「もう一度なら、少しは進めます」
「あら。では」
「休んでからです」
返事が速かった。
兵たちが顔を上げた。
何か、希望に似たものが浮かんでいる。
「俺も含めて、腕が上がりません。今やっても、倒される順番を変えるだけです」
「そうですわね」
クラウディアは剣を立会い役へ渡した。
「では、少しお話を」
ブルーノがこちらへ来る。
俺は水を渡した。
「どうだった?」
「奥様が味方だというのが、一番いい知らせですね」
水を飲んでから、兵の方を見た。
「交代を一度、練習でやらせるべきでした。口で言って、全員に通じたつもりになった。それと、俺が前に寄りすぎました」
言いながら、荷車へ目を戻す。
どこで止まったかを、まだ見ている顔だった。
クラウディアが尋ねた。
「わたくしが味方なら、どう動かします?」
「何を守るかによりますが。先ほどの荷車なら、後ろを固めて、奥様には前へ出ていただきます」
妻の目が、少し明るくなった。
「ただし、合図を決めます。追うのをやめて戻っていただく合図です」
「敵が崩れたときも?」
「追える人数と道が残っていれば、追います。奥様だけ追いついて、こちらがついていけないなら、そこで止めます」
男は、ためらってから言った。
「……たぶん、その方が多いでしょうね」
兵の一人が、うんうんとうなずいていた。
「分かりました。合図を見落とさないようにしておきますわ」
「助かります。声だけじゃ、届かんこともありますから」
二人が、稽古場の端の旗を見た。
どこに立てば見えるか、話し始める。
俺は、その横顔を見ていた。
妻を止められる者が欲しい。
そう考えていた。
だが、妻の顔は、止められることを嫌がる顔ではない。
後ろを気にせず動ける場面を、具体的に考えている。
「レオン様」
こちらを向いた。
「わたくし、この方と働いてみたいですわ」
◇
給金と住まい、任せる範囲は、館へ戻って話した。
まず一か月、クラウディア付きの副官として働いてもらう。
彼女が動く際の兵の配置と交代、補給の確認。最初は本人の指示のもとで行う。
領の兵すべてを、初日から預けるわけではない。
ブルーノは紙を読み、顔を上げた。
「橋の兵をまとめている方には、先にご挨拶をしたいです」
「デニスだ。時間を取れるよう連絡する」
「お願いします。新入りがいきなり、今までのやり方を変えろと言っても、動きませんから」
キャスパーがうなずいた。
「こちらからも、今の報告と物資の記録をお渡しします」
「助かります。道のことは、土地を知る人に聞きたい。俺は、来るときに通ったところしか知りませんので」
「見回りをしている兵をつけよう」
俺が答えると、ブルーノは、紙へ視線を戻した。
「私からも、一つ」
マルセルが言った。
「装備を新しく求める場合は、まず手元のものをご確認ください」
「ええ。買う前に直せるか見ます」
マルセルの顔が少し和らいだ。
「ただ、直らんものは言いますよ。紐を替えれば済むものと、替えても駄目なものがありますので」
「そこは、理由をお聞かせいただければ」
二人がうなずき合った。
前の仕え先への確認は、引き続き進める。
今の護衛の仕事は、今日の納入で区切りがついていた。商人にも了承を得ている。
「条件は、どうだ」
「俺からは、異存ありません」
ブルーノが姿勢を正した。
「よろしくお願いします。期待どおりかは、働いたところを見て決めてください」
「そのつもりだ。よろしく頼む」
差し出した手を、大きな手が握った。
◇
そのあと、稽古場へ戻ったブルーノに、兵が二人近づいた。
俺たちは、少し遅れて廊下を出たところだった。
クラウディアは、着替えに戻っている。
「あの、副官殿」
「まだ、来たばかりだ。ブルーノでいい」
「では、ブルーノ殿。奥様の稽古なのですが」
兵が、周りを見た。
「少し、短くしていただけませんか」
ブルーノは、腕をさすりながら考えた。
「ああ。さっきのは、短く区切った方がいいな」
二人の顔が輝いた。
「もっとも、休んで終わりじゃないぞ。休んだら、交代を練習する。次は荷車を、あの線まで運ぶ」
「……もう一度、奥様と?」
「その前に、俺たちだけでだ。動き方を覚えてから相手をしてもらう」
ブルーノが、土についた車輪の跡を足先で示した。
「ここで止まらなければ、もう少し行けた。やれることはあるだろ」
二人が跡を見た。
一人が、自分の立っていた場所へ歩く。
「俺が、こっちへ下がれば」
「そうだ。だが、黙って下がるなよ。後ろに踏まれるぞ」
話しながら、三人が動き始めた。
俺は足を止めた。
増えたのは、一人だ。
さっきまで奥様の稽古をどうやって減らすか相談していた兵が、今は次の動き方を話している。
「兵たちの話が、変わりましたね」
キャスパーが言った。
「ああ。次はどう動くかを、考えている」
俺は、土の上へ伸びる車輪の跡を見た。
次は、もう少し先まで動かせる。
そう思える人が、一人増えた。




