第3話 その麦は誰のもの
倉庫へは、荷車で行くことになった。
「歩き回るなと言いましたよね」
集会所を出たところで、昨日、頭を診てくれた女につかまった。
「倉庫までだ。少し確かめたいことが」
「足で確かめるんですか」
返す言葉がなかった。
負傷者の搬送を終えた荷車を借り、空の籠と一緒に乗せられた。領主用の席は、折った毛布一枚である。
「揺れるので、縁を持ってください」
トマに言われ、素直につかまった。
訪問先へ向かう前に、移動手段から指導されるのは久しぶりだった。
隣には、町の書記が座っている。
名前はマルセル。昨日から何度も働いてもらっているのに、今朝ようやく聞けた。
「粉屋へは、人をやってくれたか」
「はい。お昼過ぎに集会所へおいでいただくよう、お伝えしております」
「ありがとう」
上着の内側に、六人の名前を書いた紙がある。
その感触を確かめ、手を離した。
昼までに、食料の見通しを立てる。
それから、会う。
倉庫は船着き場の脇にあった。
石の土台に、分厚い板壁。屋根は古いが、大きく崩れた所はない。
入口に立っていた男が荷車を見て、こちらへ走ってきた。
「領主様! お越しになると伺っていれば、片づけを」
「普段のままでいい。麦を見せてほしい」
男の名はボルス。倉庫の番をして、七年になるという。
「もちろんです。ただ、その、帳面は役所で」
「持ってきた」
マルセルが革の表紙を持ち上げる。
ボルスは一度口を閉じ、腰の鍵束を探った。
俺は荷車から降りるのに少々手間取った。
不意の訪問で主導権を握ったつもりが、最後は倉庫番にも手を貸してもらった。
格好をつけるのは、頭が治ってからにしよう。
◇
扉が開くと、乾いた藁と穀物の匂いがした。
麦袋は、あった。
木の台の上に、いくつもの山になって積まれている。
マルセルが小さく息を吐いた。
「ございますね」
「そうだな。数えよう」
その顔が、こちらを向いた。
「全部、ですか」
「全部。数えたものを、もう一度数えない方法で」
前の世界でも、在庫を見せてもらったことはある。
大きな倉庫に商品が並んでいると、それだけで安心しそうになる。
だが、百あるように見えることと、百あることは別だ。
まして今回は、今日と明日の飯がかかっている。
「動かしたら、印をつけた方へ置いてください」
奥から声がした。
小柄な娘が、壁際の台から顔を上げていた。袖を肘までまくり、指先に黒い染みがついている。
「赤い紐の袋は、別で」
「なぜ?」
俺が聞くと、娘は一瞬固まった。
どうやら、ただの手伝いが増えたと思っていたらしい。
「りょ、領主様」
「その袋を分ける理由を聞きたい」
「商会のお預かり分です。混ぜると、あとでわからなくなります」
マルセルが帳簿へ目を落とした。
「預かり分?」
「はい。そちらの列は全部」
娘が指さしたのは、入口から一番よく見える山だった。
「持ち主の記録はあるか」
「受取札が。日付ごとに束ねてあります」
「見せてほしい。名前も聞いていいかな」
「リタです。数をつける手伝いをしています」
リタは背筋を伸ばした。
それから、トマが持ち上げかけた袋を見て、慌てて手を伸ばす。
「それ、紐を持たないでください。ほどけます」
「あ、すまん」
「下からです。麦、拾うことになりますから」
トマが持ち直した。
俺もつい腰を浮かせたが、彼に目だけで止められた。
仕事を任せると言った舌の根も乾かぬうちに、負傷した領主が袋運びへ加わるところだった。
おとなしく椅子を借りる。
手伝いを二人増やし、数えた袋を区画ごとに分けた。
抜き取った袋は口を開け、中身と傷み具合を確かめる。秤も借りた。重さの単位は、レオンの記憶に頼った。
乾いた麦が、木の皿へ流れる。
少なくとも、開けた袋に石や砂は入っていなかった。
全部終わる頃には、トマの額に汗が浮いていた。
「領主様の分が、七十八袋」
リタが板に書いた数を読む。
「商会のお預かりが、百二十袋。合わせて百九十八です」
マルセルの指が、帳簿の上で止まった。
三百二十袋。
昨日、炊き出しへ五袋出したから、残りは三百十五。
領主の麦は、七十八袋。
差は、二百三十七袋。
「別の倉庫へ移している分は?」
ボルスは首を横に振った。
「私の預かりでは、これで全部です」
「戦の直前に、まとめて出したことは」
「兵の食い扶持は出しました。ですが、それは戦の帳面に……ここに書いた分も含めて、この残りです」
リタが、小さな綴りを差し出した。
毎日の入出庫が、細かな字で並んでいる。
昨日の五袋。
その前に出た兵糧。
さらに前の受け入れ。
いずれも、残数が続いていた。
「マルセル。この三百二十は、いつ確認した数字だ」
「先月の締めです。納付予定と各所の報告をもとに、領都でまとめたものを写しております」
「予定も入るのか」
マルセルがページを戻した。
一枚。もう一枚。
「……ここでは、備蓄として記載されております」
来るはずの麦を、来た麦にしている可能性はある。
ただ、それだけで二百三十七袋の差が説明できるかは、まだわからない。
「今は書き直さないでくれ。こちらの帳面も、そのまま残す。現物の数は別の紙に、今日の日付で」
ボルスが顔を上げた。
「私が盗んだと、お思いで」
「理由を調べている。今のところ、誰が何をしたかは決めていない」
声を落とした。
「ただ、足りないことは事実だ。知っていることは、今のうちに教えてほしい」
男の喉が動いた。
リタの方をちらりと見てから、腰の鍵束を握り直す。
「……出せないのは、数だけではございません」
◇
七十八袋のうち、四十袋には赤い炭で線が引かれていた。
「これは、兵の備えとして残すようにと」
「誰の指示だ」
「領都の代官所です。そちらの二十袋は、秋蒔きの種。残りは町の常の払い出しに」
炊き出しの女が、役所へ行けと言われた理由がわかった。
食べられる麦が、目の前にある。
だが、倉庫番には、それを配る権限がない。
全部出せば解決する、という話でもなかった。
敵は消えていない。川の向こうへ退いただけだ。
種を食べれば、次の収穫に響く。
「兵の食料が何日分必要か、デニスに確かめてくれ。種の二十袋は、今日は触らない」
マルセルに頼み、続けた。
「残り十八袋のうち、明日の炊き出しに必要な分を先に確保したい。普段ここから麦を受け取る人の分も、併せて計算してくれ」
「炊き出しを増やすと、いつもの配給が減りますが」
リタだった。
言ってから、口を押さえる。
「すみません」
「いや。それが知りたい。避難して炊き出しへ来ている人と、普段の配給を受ける人は重なっているか?」
「何軒かは。でも、動けないお年寄りの家もあります。そちらへは、いつも運んでいます」
そこを止めてはいけない。
列に並ばない人が、食べなくていいわけではない。
「炊き出しの担当と、一緒に確認してほしい。家へ届ける分を残して、それぞれ何袋いるか。今日の昼までにわかるか」
リタは倉庫番を見た。
ボルスがうなずくまで、少し時間がかかった。
「……昼までなら」
「頼む。倉庫の数をつける仕事は、その間どうする?」
「私がつけます」
ボルスが答えた。
それで、リタの肩が下がった。
仕事を増やすときは、今持っている仕事も見る。
できそうだからと積み上げれば、よく働く人からつぶれていく。
それにしても、人がいない。
領都に戻ったら、王都へ人員の派遣を頼む文書を書かせよう。
俺を含めて、全員が兼務するにも限度がある。
◇
昼前、リタは炊き出しの女と一緒に戻ってきた。
女の名はマルタ。集会所の近くで食堂を営んでいるという。
「明日の炊き出しに五袋。家へ届ける分が二袋。数は合わせました」
「同じ家に二度出るようには、なっていない?」
「なってません。鍋の方へ来る人は、こちらで印をつけます」
マルタが紙を持ち上げた。
名前の脇に、小さな丸が並んでいる。
「ただ、明後日は変わりますよ。家に帰る人もいますし」
「毎日、見直そう。足りないとわかったら、その時点で教えてほしい」
まず七袋を出す許可を書いた。
名前を記す手は、慣れた文字の形を覚えていた。自分のものではなかった署名が、紙の上に残る。
ボルスが受け取り、ようやく袋を運ばせた。
残り十一袋。
これで当面の余裕ができた、とは言えない。
「この預かりの百二十袋は、買えるのか」
赤い紐の山を見ると、ボルスが受取札を差し出した。
「商会に聞かねば。川を下って売りに出す品だそうですが、昨日から船も止まっております」
売り先があるなら、勝手には使えない。
向こうにも約束がある。金を出せば必ず譲るとも限らない。
「窓口の人に、話をしたいと伝えてくれ。こちらの支払える金額も確かめたい。マルセル、現金の残りと、近く支払う予定を分けて出せるか」
「領都へ照会いたします」
「町の分は先に頼む」
マルタが、俺と麦袋を見比べた。
「領主様でも、買わないといけないんですね」
「俺の麦じゃないからな」
「鍋は借りましたよ」
「鍋は返せる。食べた麦は返せない」
「鍋も、こすらないと返せませんけど」
そこは、こすって返してほしい。
女は短く笑い、七袋を載せた荷車についていった。
リタも続こうとしたが、足を止めた。
「何か、ほかにもある?」
聞くと、彼女はボルスを見た。
「それも、お見せした方が」
倉庫番の顔が、またこわばった。
少し待つと、男は受取札の束から、折り目のついた一枚を抜いた。
「先月の検分のときです。役所から、並べておくようにと言われまして」
商会の名。
麦、二百袋。
受入日と、返却日。
間は、三日しかなかった。
「検分というのは、備蓄の確認か」
「はい」
「この二百袋は、検分が終わってから返した?」
ボルスがうなずいた。
マルセルが、革の帳簿を開く。
先月の確認日が、その三日間の真ん中にあった。
前の世界で読んだ事件が、頭をよぎった。
確認を受ける日だけ金を借り、残高を整えて、終わったら返す。
その日、その場所にある。それ自体は本当だ。
けれど、自由に使える自分の資産ではない。
確認する側が持ち主まで追わなければ、数字だけが残る。
「借りて並べたのか」
「私は、運び入れるようにと言われただけで……」
まだ、この札だけで全部は決められない。
何のために預かったか。検分した者がどう記録したか。役所の誰が指示したか。
確かめる相手が増えた。
「この札も残そう。商会の控えと照合する。関わった人の名前を、順番に聞かせてくれ」
リタが、小さく息を吐いた。
「前にも、札が違うとは言ったんです」
「誰に?」
「検分に来た方に。そうしたら、麦には違いないだろうと」
俺は、二枚の紙を並べた。
備蓄を確認した帳簿。
借りた麦を返した記録。
麦には違いない。
だが、いざ鍋へ入れようとしたら、ここにはない。
「違いはあるよ」
顔を上げたリタに、言った。
「君が、分けて残してくれてよかった」
そのとき、遠くで昼の鐘が鳴った。
俺は札をマルセルへ預け、上着の内側へ手を当てた。
粉屋との約束がある。
倉庫を出る前に、もう一度、七十八袋と書いた紙を見た。
今は、そこから七袋が減っている。
減った分は、町の人が食べる。
その行き先なら、俺にも確かめられた。
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