第2話 帳簿の麦では腹はふくれない
若い兵は、一度、土塁の方を見た。
「オズワルド様が……その、他の隊長方も」
横たわる人の何人かには、既に布がかけられていた。
そのとき、外で何かが倒れる音がした。
「おい、しっかりしろ!」
兵が振り返る。
俺も身体を起こした。頭の奥がずきりと痛んだが、今度は景色が回らなかった。
「行ってくれ」
「ですが、おそばを離れるなと」
言いかけて、兵は口を閉じた。
オズワルドの命令だ。この兵にとっては、まだ終わっていない。
「俺はここにいる。手が足りなければ呼んでくれ。無理には動かない」
兵は迷ってからうなずき、外へ出た。
別の兵と二人で負傷者を運び始める。
視界の文字を閉じた。
今、倒れた人は生きている。
◇
戻ってきた兵に名前を尋ねると、トマと答えた。
「トマ。さっき負傷者を運ぶ場所を決めたのは、誰だ」
「槍兵のデニスです。あちらの」
袖を裂いた布で額を縛った男が、荷車を指さしていた。声を張るたび、周りの兵が動く。
呼んでもらうと、男は泥のついた膝を折りかけた。
「そのままで。こちらも立てなくてすまない」
差し出しかけた手を引っ込めた。
この身体の記憶によれば、領主はこういう場で握手を求めるものではないらしい。
「治療を受けられていない人は、どのくらいいる」
「数えきれておりません。手当てのできる者は三人。歩けない者だけで二十人は」
「町へ運べるか」
「荷車はあります。ただ、道を空けねば。逃げる荷と戻る荷がぶつかっております」
町は、渡し場から街道を少し戻った場所にある。
レオンの記憶に地図が浮かぶ。だが、今どこに荷車が詰まっているかまではわからない。
「先に道を空ける必要があるんだな」
「はい。船着き場の広場へ荷を寄せられれば」
「その判断は任せる。荷を動かす持ち主に、理由を伝えてくれ。無断で捨てないように」
デニスが、俺の顔を見た。
「私が、決めてよろしいので?」
「現場を見ている君に決めてほしい。困ったら戻ってくれ」
軍の動かし方はわからない。
わからない人間が細かく口を出すと、知っている人間の手まで止まる。それは前の職場で、嫌というほど見ていた。
「それから、川向こうの見張りは残せるか」
「二組、置いております。追撃はしておりません」
「ありがとう。そのまま頼む」
デニスの肩が、わずかに下がった。
「戻った者、手当て中の者、亡くなったと確認できた者。名前を分けて残してくれ。見つからない人を、勝手に死んだことにはしないでほしい」
自分で言って、息が詰まった。
オズワルドの名前を、どこへ置けばいい。
「承知しました。字の書ける者をつけます」
男が立ち去ると、トマが隣にしゃがんだ。
「私は何を」
「俺を町まで運べる荷車を、あとで探してくれ。負傷者が先だ」
「領主様も負傷者です」
もっともだった。
「では、運ぶ順番は手当てをしている人に聞いてくれ」
「はい」
上司が勝手に自分を例外扱いすると、周りが困る。
それも、知っているはずのことだった。
◇
町の集会所へ運ばれた頃には、日が傾いていた。
長い卓を壁へ寄せ、床に藁を敷いている。湯の入った桶を抱えた女が行き来し、窓際では老人が包帯用の布を裂いていた。
頭を診た女は、俺の髪についた血をぬぐいながら首をひねった。
「割れたと聞いたんですがね」
「……兜は、へこんでいた」
「ええ。傷は塞がっています。ただ、気分が悪くなったら、すぐ横に。歩き回らないでくださいよ」
彼女自身の手にも、乾いた血がついていた。
他に何人も待っている。礼を言って送り出し、俺は壁際の椅子に座った。
そこで、もう一度《換算》を開いた。
発動には触れず、消費対象の説明を読む。
《人》
《対象:統治者への信頼が基準を満たす領民》
《選定:対象者より無作為》
《個別指定:不可》
信頼が基準を満たす人から、無作為。
戦場にいる必要すらない。
自分を指定して、誰かの代わりにすることもできなかった。
《人》を消費対象から外す。
《対象外》
薄くなった文字を、確かめた。
選び直せる場所に残っていることが、嫌だった。
「領主様」
入口に、痩せた男が立っていた。
町の書記だという。小さな板と、書きつけた紙を抱えている。
「兵だけでなく、町でも行方の知れぬ者が出ております」
椅子の縁を、指でつかんだ。
「いつから」
「敵が退いたと聞く、少し前です。目の前から消えたという者まで。皆、気が動転しておりますので、確かなことは……」
「名前を、聞かせてくれ」
男が読み上げた。
戦場で物資を運んでいた男が一人。
町に住む女が一人。
近くの村から避難してきた夫婦。
そして。
「粉屋の娘、エマ。八つです」
六人目の名前が、一致した。
白い粉のついた袖が浮かんだ。
父親の後ろから、半分だけ顔を出す女の子。
領主館へ粉を届けに来ていた。
『これ、いる?』
差し出されたのは、小さな焼き菓子だった。
父を亡くしたレオンが、館の裏口に座っていた日。
『半分だけど』
端が欠けていた。
先に食べてしまったことを、少し気にしている顔だった。
レオンは、受け取った。
ありがとうと、小さな声で言った。
「父親は、どこに」
「家の周りを捜しております。娘が目の前から消えたと、奥方が」
膝の上で、手を握った。
履歴にある名前と、町で消えた人。その数も、時刻も合っていた。
「この者たちも、捜索の札を出してよろしいでしょうか」
書記は俺の返事を待っている。
この人は、何も知らない。
口を開いたが、声にならなかった。
戻らないと告げるには、その理由を話さなければならない。
「……目撃した人の話を、残してほしい。時刻と場所も。無理に思い出させなくていい」
ようやく、それだけを言った。
書記がうなずく。
「ご家族とは、俺が会う。時間を作ってもらえるか」
何から話せばいいのかは、まだわからない。
それでも、事情を知らない書記に任せていい話ではなかった。
◇
翌朝も、町には人が集まっていた。
川沿いの家へ戻るのが怖い者。壊れた荷車を動かせない者。負傷した家族のそばを離れられない者。
炊き出しの列は、集会所の外まで続いている。
眠ったのかどうか、よくわからなかった。
名前を書いた紙を折り、上着の内側へ入れた。
エマの父親は、まだ娘を捜していた。
面会の返事が来たら、必ず知らせてほしいと書記に頼んだ。
そのあと、机を一つ借りた。
机と椅子があれば仕事ができる。
そんなつもりで座ったのだが、甘かった。
「領主様、薪を出してよろしいでしょうか」
「領主様、馬を借りたいと」
「領主様、荷車の車軸が」
「領主様、鍋を」
四人まで聞いて、片手を上げた。
「鍋は、何だ」
「宿から借りたいのですが、領主様の許しが必要かと」
「宿の人は?」
「貸してよいと申しております」
鍋の持ち主は了承している。
煮る人もいる。
最後の難関が、俺だった。
「借りてくれ。誰から何を借りたかだけ、書いておいてほしい」
鍋の男が走っていった。
「こういう判断は、これまで誰が?」
「戦の間は、オズワルド様が」
頷きかけて、止まった。
兵の配置だけではなかった。
この町で何が必要か、誰に頼めば動くか。あの人が間に立っていた仕事が、今、全部ここへ来ている。
椅子を引き寄せ、書記にも座ってもらった。
「炊き出しを取り仕切っている人を呼んでくれ。それから、荷車を直せる人も。説明できる人に、まとめて聞きたい」
現れたのは、前掛け姿の大柄な女と、片脚を引きずる老人だった。
「鍋より先に、かまどを増やしたいんですよ。鍋だけあっても置く所がない」
「車軸は直せる。木がありゃな。人も二人借りたい」
聞けば、話は具体的だった。
薪を欲しがっていた男は炊き出しの使いで、馬を借りたかった男は壊れた荷車を引きに行く使いだった。
四つの相談が、二つになった。
書記に、仕事と担当を書いてもらう。
材料の保管場所を確かめ、必要な人をつける。終わったら報告、難しければ途中でも戻る。
「鍋を一つ増やすたびに、許しを取りに来なくていい。必要な数は、あなたが一番わかるはずだ」
「じゃあ、領主様のお屋敷の鍋も?」
女が即座に聞いた。
「使えるなら」
「よし」
返事が速かった。
どうやら、ずっと狙っていたらしい。
館の料理人への説明も頼むと付け加えると、女は初めて笑った。
「勝手に持ち出しやしませんよ」
書記が担当を書き終える前に、女は薪を運ぶ男を呼び止めていた。老人は戸口の若者二人へ声をかけている。
さっきまで俺の返事を待っていた仕事が、それぞれの場所へ動き始めた。
全員に俺が指示を出す必要はない。
何が必要かは、働いている人の方がよく知っていた。
前世でも、応接室で帳簿を眺めているだけでは聞けない話があった。工場へ回り、手を止めてもらえる頃合いを待って、ようやくわかることがあった。
ここでも、まずは聞くところからでいい。
少しだけ、息がしやすくなった。
その女が、机に両手をついた。
「それで、一番困ってることなんですが」
まだあるのか。
いや、鍋とかまどで終わる方がおかしい。
「麦を出してほしいんです。明日の分が足りません」
書記が顔を上げた。
「昨日、倉庫から運ばせたはずでは」
「来たのは五袋。人数を見てくださいよ。薄くするにも限度があります」
書記は手元の紙をめくり、それではと別の帳簿を取りに走った。
戻ってきたときには、革の表紙を抱えていた。
「こちらが町の備蓄です。麦は三百二十袋。五袋を差し引いても、まだ」
机に置かれた帳簿を開く。
文字は読めた。数字もわかる。
袋の大きさは揃っているのか。最後に数えたのはいつか。まだ確かめることはある。
だが、一日分を出せない数字には見えなかった。
「倉庫の担当には聞いたか」
「聞きましたよ。これ以上は出せないって。役所に聞けと言われたから、来たんです」
女は帳簿をのぞき込みもせず、俺を見ていた。
「領主様。紙に麦があるのはわかりました。鍋に入れる方を、お願いします」
帳簿の端を押さえた。
入金予定はある。売上も立っている。
なのに、今日の支払いができない。
そういう相談なら、何度も受けてきた。
理由は、確認するまで決めつけない。
記録が古いのか。運べないのか。誰かが止めているのか。
それとも、そもそも存在しないのか。
「今日、食べる分は確保できている?」
「今夜までは」
「わかった。これから現物を確かめる。足りなければ、調達も含めて昼までに方針を伝える」
女がうなずいた。
書記へ顔を向ける。
「入れた記録と、出した記録をそろえてくれ。それから倉庫の鍵を」
「お持ちさせますか」
「いや。俺たちが行こう」
椅子から、ゆっくり立ち上がった。
戸口のトマが、何も言わずに腕を貸してくれた。
帳簿には、麦がある。
では、その麦はどこにある。
カクヨムでも連載中です。
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