第1話 その支払いは聞いていない
誰かが、俺を呼んでいた。
「レオン様! お返事を!」
知らない名前だった。
けれど、声には覚えがあった。
目を開けようとして、ひどい吐き気に襲われた。片耳の奥で、細い音が鳴り続けている。口に土が入っていた。吐き出すと、血も混じった。
頬のすぐ横に、鉄の帽子が転がっている。
いや、兜だ。こめかみの辺りが、内側へ深くへこんでいた。
あれをかぶっていたのか。
誰が。
「盾を上げろ! 次が来るぞ!」
怒声の直後、地面が跳ねた。
砂利が顔に当たる。すぐそばで板が割れ、男の悲鳴が途切れた。
反射的に頭を抱えた腕に、重い金属がついていた。手首が細い。見慣れた腕時計がない。代わりに、泥の詰まった革紐が食い込んでいる。
スーツは。
携帯は。
午前中の融資案件は、どうなった。
そこまで考えたところで、誰かが俺の脇へ腕を差し入れた。
「お気を確かに。私の声が聞こえますか」
白い眉。左の頬に古い傷。顎を覆う、短く刈られた灰色の髭。
老いた男が、こちらをのぞき込んでいた。
「……オズ、ワルド」
名前が、勝手に口から出た。
男の目が、わずかに緩んだ。
「はい。ここにおります」
冬の朝。
かじかんだ指で握った木剣。
何度も落とす俺に、黙って拾って渡してくれた大きな手。
父の棺の前。
誰に何を言えばいいのかわからず立ち尽くしたとき、背中に添えられた同じ手。
『まずは、お顔を上げてください』
覚えのない光景が、覚えのあるものとして頭を通り抜けた。
俺はレオン・フェルデン。二十一歳。
父の跡を継いだ、この土地の領主だ。
違う。
俺は三十五歳で、地方銀行の支店次長だった。
先週も、部下と二人で取引先へ謝りに行った。社長に一時間叱られたあと、工場の隅で資金繰りの相談を受けた。帰りに部下へ飯を食わせた。
どちらも、俺の記憶だった。
「お立ちになれますか」
答えようとした瞬間、視界が白く染まった。
空を埋める、小さな石。
盾に当たる音。
兜の内側で何かが砕けた感覚。
ああ。
この身体は、さっき。
「無理はなさいませんよう」
オズワルドは俺を土塁の陰へ座らせ、若い兵へ水袋を押しつけた。
「おそばを離れるな」
「は、はい!」
老騎士が立ち上がる。その肩越しに、戦場が見えた。
低い土塁。傾いた柵。泥の上に捨てられた槍。
その先に川が流れ、浅瀬を人の列が渡ってくる。
長い柄の先に、刃が光っていた。
映画の撮影なら、もう少し足場を整えてほしい。
そんな考えが浮かんだ直後、柵の向こうの兵が喉を押さえて倒れた。
指の間から血があふれた。
男は何度も立とうとして、立てなかった。
腹の底が縮んだ。
「第二列、前へ! 渡し場へ戻すな!」
オズワルドの声で、数人が動く。
数人しか、動かなかった。
状況を確認しろ。
頭の中で、自分に言った。
まず現状。次に、使える手段。優先順位。
問題がいくつ重なっていても、順番につぶすしかない。
「……下がる、場所は」
水袋を持った兵が、聞き返した。
「後ろへ。退けないのか」
「街道には、まだ町から逃げる荷車が……」
その言葉で、また記憶がつながった。
川沿いの町。船着き場。穀物を積んだ荷車。
ここから領都へ続く一本道。
父が死んだ。
何も決められない息子が継いだ。
それを聞いた隣国の領主が、兵を動かした。
会議では誰もがオズワルドを見た。老騎士だけが、俺を見ていた。
『ここを取られたら、どうなる』
『川も街道も押さえられます。領都の備えが整うまで、何としても時間を』
だから、兵を出した。
自分も馬に乗った。
いつまでも決められずにいる自分を、今度こそ変えたかった。
若い領主の気持ちが、喉の奥につかえた。
わかった。
ここは、空けられないのか。
だが、どうやって。
俺は剣を振れない。
少なくとも、銀行では習わなかった。
融資、預金、保険に投資信託。最近では取引先の採用相談まで。
多様性の時代とは言うが、ノルマは入行した頃から十分すぎるほど多様だった。
それでも、槍を持って川を渡ってくる相手への対処は、担当したことがない。
目の前に、文字が浮かんだ。
《統治権限を確認》
《換算》
瞬きをした。
文字は消えなかった。
《食料/木材/鉄/人》
その下に、別の項目が開く。
《疲労軽減/防壁形成/装備強化/移動阻害》
何だ、これ。
「これが、見えるか」
「血ですか? 申し訳ありません、手当てを――」
若い兵が布を探し始めた。
俺にしか見えていないらしい。
文字へ意識を向けると、必要な消費と、得られる効果がわかった。
食料を使えば、兵の疲労を軽くできる。
木材を使えば、防壁を作れる。
理解した、というより、頭へ押し込まれた。仕組みを考えようとすると、こめかみの奥が脈打つ。
あの崩れた柵を、防壁でふさげないか。
意識を向けると、壁の形が浮かんだ。短い。切れ目をふさげても、その脇は開いている。
範囲を広げようとすると、文字が赤くなった。
《換算可能量不足》
木材が足りない。
なら、移動を止める。
川から上がってくる兵の足元へ意識を移す。効く範囲と時間が見えた。
狭い。短い。
後ろには、まだ敵がいる。
俺たちの兵を強くする方は。
鉄。装備強化。
その文字を追う間にも、味方の盾が一つ落ちた。
盾だけ強くしても、持つ人間が倒れていく。
「閣下、柵が!」
木の裂ける音がした。
オズワルドが二人の兵を連れ、崩れた場所へ走る。剣を振るい、槍の穂先を払った。その横から、別の穂先が突き出される。
若い兵が、水袋を置いた。
震える手で槍を拾う。
「待て。君は――」
「ここにいろと、言われましたから」
俺の前に立った。
槍の先が、小刻みに揺れていた。
違う。
俺の言いたかったのは、そうじゃない。
視界の文字が、二重になった。
頭が重い。目を閉じたら、そのまま落ちそうだった。
《不足分の補填が可能》
《対象制限を解除》
指先も動かないのに、その項目だけは選べた。
食料。木材。鉄。
そして、人。
兵を動かす力か。
人の力も、まとめて使えるのか。
この世界には、味方の身体を強くする魔法がある。
誰かから、そう教わった記憶があった。
領地にいる人間の力を集めれば、ここを止められるのかもしれない。
《消費対象に〈人〉を追加》
消費。
その二文字に、引っかかった。
何を、どれだけ。
続きを読もうとして、目の前が暗くなる。
「レオン様!」
オズワルドが振り返っていた。
左腕が下がっている。肩の継ぎ目から、赤いものが流れていた。
それでも、俺の方へ来ようとした。
「お下がりください! ここは、私が!」
父の葬儀のあと、眠れずにいた夜。
扉の外で、この人が誰かに言っていた。
『まだ、お若い。私がお支えします』
来るな。
そこを向いていたら。
老騎士の背後で、敵が槍を引いた。
俺は、川岸の敵の列を見た。
止めたい範囲が、薄く縁取られる。
《換算可能》
やってくれ。
意識の中で、その文字を押した。
音が、途切れた。
光はなかった。
爆発もなかった。
ただ、槍を構えた男がいなくなった。
その後ろの男も。
川岸を埋めていた列に、ぽっかりと泥の地面が現れた。
向こう岸で旗が揺れた。
誰かが叫んだ。
何を言っているかは、わからなかった。
止まった。
息を吐こうとした。
胸が、うまく動かなかった。
オズワルドに、声をかけたかった。
もう、大丈夫だと。
◇
「――追ってはおりません。渡った連中も、川向こうへ」
声が聞こえた。
背中の下が柔らかい。
屋根はなく、顔の上に灰色の布が張ってある。風が吹くたび、端がばたばたと鳴った。
身体を起こそうとして、誰かに止められた。
「まだ、お休みください」
水袋を渡そうとしていた、あの若い兵だった。
頬に泥がついている。手には包帯が巻かれていた。
「敵は」
「退きました」
言ってから、兵は唇を引き結んだ。
笑おうとしているようにも、泣くのをこらえているようにも見えた。
「退きました、領主様。町へは、行かせずに済みました」
布の外で、人が動いていた。
水を求める声。名前を呼ぶ声。
さっきとは違う慌ただしさだった。
生きている。
目の前の兵も、俺も。
乾いた喉を鳴らし、差し出された水を飲んだ。
手が震えて、少しこぼした。
「オズワルドは」
兵の顔が止まった。
「手当てを、受けているのか」
「……捜しております」
捜す。
「あの場所に、いたはずだ」
「はい」
「俺の前に。すぐ、そこに」
「はい。私も、見ておりました」
兵が下を向いた。
「ですが、お姿が。その……敵が消えたときに」
胸の内側が、冷たくなった。
あの文字。
消費。
頭の中で呼ぶと、同じ画面が開いた。
今度は、読めた。
《換算履歴》
《消費:人》
《消費数:6》
六。
数字の下を、開いた。
人の名前が並んでいた。
先頭に、オズワルド。
喉が動いた。
水を飲んだばかりなのに、何かが張りついていた。
取り消し。
戻せ。
別のものを使え。食料でも、鉄でも、館でもいい。
どこを見ても、戻すための項目がない。
「領主様?」
返事ができなかった。
数字を確認するのは、仕事だった。
その数字の中身まで確かめろと、何度も部下に言ってきた。
六。
六人。
オズワルドの下にも、名前があった。
戦場で見た覚えのない名前が、五つ。
若い兵が、俺の手から水袋を受け取った。
「助かりました」
声を詰まらせながら、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。領主様」
俺は、その肩越しに土塁を見ていた。
少し前まで、あの人が立っていた。
ここにおりますと、言っていた。
水を求める声がした。
布の向こうで、誰かが誰かの名前を呼んでいる。
敵は退いた。
だが、倒れた兵を運ぶ人も、手当てをする人も足りていない。
さっきは木材が足りなかった。鉄だけでは、兵を支えられなかった。
その不足を、俺は人で払った。
また攻めてこられたら。
その考えに、指が冷えた。
同じ領地、同じ備えのまま、次も退けられるとは限らない。
人だけは、もう使わない。
そう決めるだけでは、誰も守れない。
食料をそろえる。仕事を回す。任せられる人を見つける。
何が足りず、どこで止まっているのか、一つずつ確かめる。
剣の振り方は知らない。
けれど、立ち行かなくなった事業の話なら、聞いてきた。
できることがあるとすれば、そこだった。
「……今、誰が指示を出している」
若い兵が顔を上げた。
俺は水袋を握り直した。
まずは、この場で困っている人の話を聞かなければならなかった。
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