第21話 独り言は癖なんだ
橋から戻った翌朝、俺は館の仕事部屋にいた。
マルセルの机には、支払いの帳簿。
オットーの前には、届いた用件をまとめた綴り。
その隣で、キャスパーが紙を読んでいる。
俺が出発する前より、机の上の紙が分かれていた。
返事が届いたもの。
相手へ確かめているもの。
こちらで判断する必要があるもの。
「留守の間に、いくつかお返事を出しております」
マルセルが、記録を寄せた。
「認められていた修理の支払いと、町からの受け取りについてです。こちらは、キャスパー殿にも確認を手伝っていただきました」
「そうか」
俺は紙へ目を通した。
王都から持ち帰った荷車の仕事は、もう終わっている。
今、動いているのは、そのあとの館の日々の仕事だった。
キャスパーは、二人から聞いたことを短く書き留めていた。
書類にない事情も、尋ねた相手と分けてある。
経歴に書かれていた年齢は三十。
道中でも、実務を重ねてきたことは感じられた。
ただ、落ち着いて見えることと、仕事ができることは、別だ。
ここで二人とどう働くかは、帰ってから見ておきたかった。
「お二人に、少しずつ教えていただいております」
キャスパーが顔を上げた。
「オットー殿の記録で分かるところを先に読み、残った点を伺っています」
「全部を最初から説明するのは、二人も大変だろう」
「はい。お使いになる帳簿を、私が持ったままにするわけにもいきませんので」
マルセルが、横の紙を引き寄せた。
「留守の間の支払いは、こちらへ抜き出してあります。今、確認してもよろしいでしょうか」
「ああ」
キャスパーへ、俺から個別の案件を渡してはいなかった。
今も、そのつもりはない。
何を聞き、何を確かめ、二人の仕事をどうつなぐか。
まず、それを見せてもらおう。
◇
俺がマルセルの帳簿へ目を戻すと、キャスパーも用件の記録を開いた。
館へ届いた紙のうち、読み終えたものを脇へ寄せ、短い書き付けを作っている。
俺はマルセルと、留守の間の支払いを確認していた。
麦。
人夫の賃金。
馬の餌。
負傷者へ送った薬と布。
一つずつ、記録と残った金を合わせる。
「こちらの薬代は、予定を超えております」
「必要だった分だな」
「はい。川沿いの町から届いた分も含めております」
俺はうなずいた。
生きて帰れた。
だから、その先がある。
町で会った兵の顔が浮かんだ。
歩けない間も、手当てと食事が要る。ここに書かれた金額が、寝台のそばの布や薬につながっている。
向かいから、紙をめくる音がした。
「オットー殿。この修理の件を伺っても?」
「館の倉庫の、裏の戸ですね」
キャスパーが、一枚を示す。
「戸が傾き、閉まりにくくなった。修理の費用は認められている。ここまでは、こちらにあります」
「はい」
「そのあと、日を決めるところで止まっているのでしょうか」
「まだ、返事を待っております」
マルセルが顔を上げた。
「あれは、大工が手を空けられる日を待っているのでは」
「そのように伺って、記録しました」
オットーが答える。
キャスパーは紙を二枚並べた。
「こちらには、倉庫側が作業場所を空けられる日を知らせる、とあります。どちらが最後に話されたか、ご存じでしょうか」
マルセルが、少し眉を寄せた。
「……現物を見に来てもらったときですかね。私は金額だけ確認して、そのあと薬の手配が入りましたので」
オットーは記録をたどった。
「倉庫番が来た日に、話を聞いています。大工の返事を待つ、と」
「倉庫番殿には、今、伺えますか」
「朝の荷を出したあとなら、いるはずです」
キャスパーはマルセルへ向いた。
「倉庫で事情を確かめ、そのあと町の大工にも聞いてきてもよろしいでしょうか。費用や工事の内容を変える話であれば、持ち帰ります」
「そうしていただければ助かります。認めた金額は、こちらに」
帳簿を寄せる。
キャスパーは数字を控え、記録と一緒に持った。
俺は二人を見たまま、黙っていた。
言うべきことは、もう話されていた。
◇
昼前、キャスパーが戻った。
「双方とも、返事を待っておられました」
マルセルが、筆を止める。
「双方?」
「大工は、戸の内側に置かれた荷をよけられる日を待っていました。倉庫側は、大工が来る日に荷を動かすつもりだったそうです」
俺は、机の上の記録へ目を落とした。
来る日が決まれば、動かす。
動かせる日が決まれば、来る。
きれいに、お互いの顔を見て待っている。
「……なるほどな」
キャスパーが、続けた。
「修理を頼んだこと自体は、伝わっておりました。ただ、次に日を決める者が、はっきりしていなかったようです」
「私が最後まで確認しておけば」
マルセルが言いかける。
キャスパーは、すぐに責めるような返事をしなかった。
「当日の記録は、残っておりました。おかげで、費用や修理の内容を最初から確かめ直す必要はありませんでした」
オットーが、自分の綴りを見た。
「ただ、待つものだけを書いて、誰の返事かまでは」
「今、分かりましたので。そこへ書き足していただけますか」
彼はオットーへ紙を返した。
「大工は、明日の午前なら来られるそうです。戸の内側の荷を動かす人手は、午後の荷下ろしが終われば二人空くと、倉庫番から伺いました」
「今日のうちに空けるのですね」
「はい。ただ、置き場所は倉庫番の方で確かめておられます。食料を雨に当てるわけにはいきませんので」
マルセルがうなずく。
「金額は」
「認められている範囲です。戸を外して、傷んだ箇所を見てから増額が必要なら、作業を止めて相談する、と確認しました」
話が、そこまで進んでいた。
キャスパーはオットーの記録を指した。
「これから倉庫へ、明朝の時刻を伝えます。大工にも、こちらが場所を空けると返事をします。そのあと、相手が承知したところまで残せれば」
「分かりました」
オットーが筆を取る。
俺は、マルセルの顔を見た。
しばらく紙を見ていた彼が、キャスパーへ言った。
「助かります」
「いえ。場所と、頼んだ相手をお教えいただけましたので」
大きな仕事ではない。
国庫を救ったわけでも、敵の軍を退けたわけでもない。
戸が一枚、直る日が決まった。
だが、マルセルが思い出すたびに気にかけ、倉庫番が閉まらない戸へ肩を入れ、大工が予定を決められずに待っていた仕事だ。
それが、動いた。
俺は、面談のときの紙を思い出した。
納入の日を変える。
変更を伝える。
相手の返事を確かめる。
書いていたことを、ここでもやっている。
キャスパーが俺を見た。
「領主様?」
「いや。話を聞いていた」
彼は軽く頭を下げ、オットーと連絡の順を確かめ始めた。
◇
午後、俺は橋から持ち帰った報告と、町や村から届いた紙を並べていた。
橋の兵へ物を届ける道。
川沿いの町の倉庫。
ベルタの運搬の試行。
村へ出した確認の返事。
まだ、分からないことは多い。
運ぶ件数が増えても、道が悪ければ往復に時間がかかる。
まとめて運ぶようになれば、今度は荷を置く場所が必要になる。
頭の中で、道と倉庫を行き来していた。
「倉庫の修理が先か……いや、荷を置く日をずらせば、一度に全部を空けなくても……」
「領主様」
キャスパーの声がした。
俺は顔を上げる。
「何だ」
「今のお言葉は、ご指示でしょうか」
机の向こうで、オットーが筆を持っていた。
こちらを見たまま、紙の上で止めている。
俺は、自分の口元へ手をやった。
「……いや。考えていただけだ」
「では、そのようにおっしゃっていただけると助かります。どの倉庫の予定を変えるか、確認が必要になりますので」
オットーが、筆を置いた。
マルセルは、自分の帳簿から顔を上げずに言った。
「私も、初めは書いておりました」
「今は?」
「途中で、反対の案も出てまいりますので」
俺は、椅子へ座り直した。
そうか。
俺の中では、まだ比べている段階だ。
だが、聞く側には、領主が予定を変えろと言ったようにも聞こえる。
前世でも、部下には言っていた。
検討と決定を混ぜるな。
相手が動き始めてから、まだ決めていないと言うな。
今、俺がそれをやっている。
「悪かった。決まったことは、分けて伝える」
「ありがとうございます」
キャスパーが頭を下げた。
その横で、オットーが紙を一枚脇へ寄せる。
「何を書いた?」
「倉庫の修理を、先にする、と」
「消しておいてくれ」
「はい」
マルセルが、静かに筆を走らせた。
笑ってはいない。
だが、口元が少し動いたのを、俺は見た。
「考え事は、一人のときにするか」
「考えておられると分かれば、差し支えありません」
キャスパーの返事は真面目だった。
怒られたというより、仕事をしやすくするための確認だ。
俺も、同じことをしてきた。
「分かった」
俺は報告へ戻った。
数行読んで、口を開きかける。
閉じる。
向かいで、オットーの筆が動いた。
今度は、ちゃんと別の仕事だった。
◇
翌日の昼過ぎ、倉庫の裏戸は閉まるようになった。
修理に来た大工は、道具をまとめながら戸を二度開け閉めした。
倉庫番も、自分で確かめる。
「これなら、一人で閉められます」
「しばらく使って、また擦るようなら知らせてくれ」
キャスパーは、二人のやり取りが終わるのを待っていた。
戸の外へ出てから、作業の内容と代金を確認する。
マルセルのところへ持ち帰る紙には、倉庫番が確かめたことも残した。
俺は町の報告を聞いた帰りに、そこへ寄った。
「済んだか」
「はい。認められていた費用の範囲で終わりました」
キャスパーが答える。
「お確かめになりますか」
俺は戸の取っ手を引いた。
開く。
戻すと、無理に押し込まなくても収まった。
倉庫番が、うれしそうに見ている。
「毎朝、ここで肩を使っておりましたので」
「それは難儀だったな」
「雨の日は、特に」
俺はうなずいた。
報告に書かれていたのは、戸の修理。
現物にあったのは、毎朝の小さな負担だ。
直ると、そちらまで減る。
「助かった。大工にも礼を伝えておこう」
「先ほど、お帰りになりました。次に参られた際に」
キャスパーが答えた。
大工を、俺が来るまで待たせてはいなかった。
それもよかった。
◇
館へ戻ると、マルセルは支払いの帳簿を開いていた。
キャスパーの報告を聞き、受け取った紙と認めた金額を合わせる。
「問題ありません。こちらで支払います」
「お願いいたします」
オットーが、用件の記録へ線を引いた。
対応済み。
それだけのことなのに、線を引く手が少し軽く見えた。
「私が書いたものでも、分かりましたか」
彼が、キャスパーへ聞いた。
「はい。どの日に、誰が持ってきた話か残っていましたので、聞きに行けました」
「そうですか」
「今回、返事を待つ相手も加えていただきました。ほかの件でも、その欄を使えればと思います」
オットーは綴りをめくった。
「まだ空いているところなら、書き足せます」
「分かるものからで。分からないものは、また伺います」
マルセルが筆を置いた。
「最初から、全部説明しなければならないかと思っておりました」
俺は彼を見た。
「キャスパーに?」
「はい。事情をご存じない方が来られると、そうなることもありますので」
分かる。
手伝いを頼んだのに、教える時間だけが増える。
目の前の仕事は、待ってくれない。
キャスパーも、それを分かっているようだった。
「紙で分かることは、先に読ませてください。そのうえで、お尋ねすることをまとめます」
「そうしていただければ」
マルセルが、帳簿を閉じる。
まだ、終わった仕事が一つ増えただけだ。
これで領内すべてを任せられると決めるつもりはない。
だが、二人の顔を見れば、何が変わり始めているかは分かった。
仕事を教える相手が、仕事を増やすだけの相手ではなかった。
記録を残したことにも、意味があった。
俺は机の端に置かれた盆へ目をやった。
マルセルの杯に、まだ湯気が立っている。
彼もそれに気づいたのか、杯を取って一口飲んだ。
俺は、何も言わなかった。
◇
その夕方、橋で聞いた話を、三人に伝えた。
増援を考えるにしても、今の兵を休ませる場所が足りない。
負傷者を運ぶ道には、雨のあとに水が残る。
修理する盾があり、補充する物資がある。
デニスの書き付けを、机へ置く。
「次の攻撃までに全部そろうとは言えん。だが、今回の損失を埋めるだけで終わらせたくはない」
キャスパーは、話を聞いてから紙へ目を落とした。
「予算と、今ある備えを比べる必要がありますね」
「ああ。俺たちが見てきた場所のことなら、ここで説明できる。細かい使い方は、デニスにも確かめたい」
マルセルが、別の帳簿を寄せた。
「今回の補給でまかなえる分は、こちらで分けられます。新しく必要になるものは、費用を見てからです」
「暮らしを支える分まで回しては、続かん。その線も、一緒に見よう」
兵を増やす。
休む場所を作る。
道を直す。
どれも必要だ。
どれも、金だけ出せば明日できる仕事ではない。
今日、倉庫の戸が直ったことを思い出す。
費用は認められていた。
大工もいた。
だが、場所を空ける日が決まらず、止まっていた。
防備の仕事が増えれば、同じことはもっと大きな形で起きる。
俺が全部に張りつくことはできない。
だからこそ、何が次に必要かを確かめて、関係する者へ届かせる人間が要る。
「修理を先に……いや、運ぶ道を整えてからなら、材料も――」
そこで、俺は止まった。
キャスパーがこちらを見ていた。
オットーの筆も、紙の上で止まっている。
「今のは、考えているだけだ」
オットーが、そっと筆を下ろした。
マルセルは、杯の向こうへ口元を隠した。
「その都度おっしゃっていただければ、助かります」
「分かった。慣れるまで、少し待ってくれ」
俺は、机の上の紙を引き寄せた。
必要なもの。
分かっていること。
まだ、現地に確かめること。
分けて書くと、キャスパーがその横へ、自分の控えを置いた。
マルセルも、費用に関する記録を並べる。
オットーが一枚、新しい紙を出した。
「決まったことは、こちらへ残します」
「ああ。頼む」
部屋に、筆の音が戻った。
橋で踏みとどまった者たちへ、次に何を届けられるか。
今度はそれを、ここで考える番だった。
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