第19話 ゼロ回答回避
王都を出る朝、俺は荷車の前に立っていた。
矢の束。
盾の修理に使う材料。
包帯に回せる布。
王国から補給として出された品を、受け取りの書面と照らし合わせる。
免除の書付も、内側の袋にしまってある。
これをなくしたら、帰ってからマルセルに顔向けできない。
王城で、温かい茶が冷えるまで待った成果だ。
紙と物の両方を持ち帰れることには、少し安心していた。
「こちらが、最後の分です」
倉庫の者が布を運んできた。
キャスパーが束を受け取り、荷台の隅へ置く。
そのまま載せるかと思ったが、御者に声をかけた。
「雨よけは、こちらで足りますか」
「上から覆う分はな。ただ、荷台の底までは覆えん」
「布の下へ、何か敷ければ」
「空の袋がある。それを使おう」
御者が袋を出すと、キャスパーは一度、俺を見た。
俺はうなずいた。
「頼む。濡らして持ち帰るわけにはいかん」
馬二頭に、荷車二台。
御者も二人。
領地まで運ぶ契約で、道中の宿と馬の餌についても話は済ませてある。
行きは身軽だった。
帰りは、物も人も増えた。
増えた人の方は、丁寧に布の端を折り、汚れないよう包み直している。
「キャスパー」
「はい」
「王国への仕官を諦めて、最初の仕事が荷造りでよかったか」
彼は顔を上げた。
「王国へ仕官できても、初めは荷造りだったかもしれません」
「なるほど」
「誰のために運ぶかは、こちらの方がよく分かりますので」
矢の束を見て、そう言った。
気持ちのよい返事だった。
ただし、それだけで信用を全部預けるわけではない。
前の仕え先からの返事は、まだ届いていない。
必要な照会は続ける。
当面は、俺たちの目の届くところで仕事をしてもらう。
それでも、今、何に気を配る人間かは見える。
俺は受け取りを終えた紙に署名した。
「では、帰ろう」
トマが馬の手綱を持ってきた。
「お忘れ物は」
「確認した」
「書付は」
「入っている」
「宿の机に置かれていた、もう一冊は」
俺は止まった。
トマが、薄い綴りを差し出した。
領地で考えたいことを書いたメモだ。
「……助かった」
「はい」
キャスパーが、こちらを見ている。
仕官先の領主が、出発前から部下に忘れ物を拾ってもらっている。
前にも似たようなところを見せた気がするが。
今回は、せめて王城の廊下ではなかった。
◇
王都の壁が遠ざかるにつれ、荷車の音がよく聞こえるようになった。
街道の両脇には畑があり、ところどころに宿や馬を替えるための場所がある。
商人の一行とすれ違い、荷を積んだ車の後ろで、しばらく足を緩める。
俺たちは急使ではない。
馬を潰してでも走る旅ではなかった。
荷車の速さに合わせる分、行きより日数はかかる。
それでも、早く帰りたいとは思った。
橋の兵たちに会いたい。
負傷した者の顔も見たい。
妻にも、確かめたいことがある。
考えながら前へ出かけると、後ろで荷車の音が遠くなった。
「領主様」
トマの声がした。
俺は馬を緩めた。
「分かっている。置いていくつもりはない」
「はい」
キャスパーは、荷車の横を歩いていた。
道が平らなところでは荷台の前に座り、坂では降りる。
御者とは、時々言葉を交わしている。
俺も馬を寄せた。
「道を聞いているのか」
「はい。御者殿は、この街道を何度も通っておられるそうです」
御者が、手綱を持ったままうなずいた。
「この先の宿は、庭が広い。車を入れるなら、あそこがいい」
「予定より手前ではないか」
「次まで進めなくはないが、今からだと暗くなるかもしれん。荷があるからな」
キャスパーが、俺に向き直る。
「雨が降ると、先の低い道が重くなるそうです。今日は早めに宿へ入り、明日は明るいうちにそこを越えてはいかがでしょう」
「宿代が一晩増えるか」
「今日の宿を手前へ変えるだけなら、直ちに増えるわけではありません。ただ、明日の進み方次第では」
「後ろの日程にも響く、ということだな」
「はい」
俺は空を見た。
雲が増えていた。
だが、俺に明日の天気を言い当てる力はない。
御者へ聞く。
「いつも、この荷の重さならどうする」
「俺なら、手前で泊まる。急いで越えて、車輪を取られる方が面倒だ」
「では、そうしよう」
キャスパーが軽く頭を下げた。
その後で、もう一台の御者にも声をかける。
先頭だけが分かっていても、二台目が別の宿へ向かっては困る。
行き先。
明朝の出発。
馬を休ませる場所。
言葉を渡し、返事を聞く。
手際はよかった。
派手に何かを命じているわけではない。
ただ、決まったことが、ちゃんと全員へ届いていた。
俺は少し、肩の力を抜いた。
◇
その夜、宿で領地の略図を広げた。
部屋の机は小さかった。
紙を置くと、茶の杯の行き場がなくなる。
トマが椅子を一脚寄せ、そこへ盆を置いた。
「ありがとう」
「領主館の机は、広かったのですね」
「広いはずなんだが、いつも紙で埋まっている」
キャスパーが、地図へ目を落とした。
領主館のある町。
川沿いの町。
村々へ続く道。
そして、国境の橋。
「橋はこちらですね」
「ああ。こちら側に守備隊を置いている。向こうは敵国領だ」
俺は、持参した報告書も開いた。
キャスパーに渡すのは、防備の相談に必要な部分だけだ。
まだ着任前の相手へ、何でもまとめて渡せるわけではない。
「先日の敵は、およそ百五十。守備隊は三十だった」
キャスパーの指が止まる。
「……三十で、持ちこたえたのですか」
「そうだ。橋の幅がある。大勢でも、一度に全員は渡れない」
それだけで済んだ戦ではない。
クラウディアがいた。
デニスたちがいた。
俺も《換算》で支援した。
ただ、支援ができるから、今のままでよいとは思っていなかった。
「兵はよくやってくれた。だが、負傷者も出た。次も同じように防げると、決めつけたくはない」
キャスパーは、しばらく地図を見ていた。
「この三十名は、橋から離れずに?」
「交代で休ませている。細かい割り振りは、現地で確かめる必要がある」
「食事と、傷を負った者の手当ては」
「現地で対応できるところまで。重い傷を負った者は、川沿いの町へ運んだ」
地図の二点を、彼の指がたどった。
「休める場所と、そこまでの道も見たいところです」
「防壁より先に?」
「先後は、現地を見なければ申し上げられません。ただ、橋の前で踏みとどまる者を増やしても、食事や休息を運ぶ者まで足りなければ、長くは続きません」
俺は椅子へ背を預けた。
兵数。
盾。
矢。
敵を止めるための備え。
俺が最初に考えていたのは、そこだった。
兵站という言葉は知っている。
補給が大切なことも、分かっているつもりだった。
だが、誰が食事を運ぶか。
負傷者を運んだ兵が、いつ戻れるか。
休ませる者を、どこで雨から守るか。
そこまで、一つずつ考えてはいなかった。
「荷車が戻るまで、か」
俺が言うと、キャスパーが顔を上げた。
「面談のときの話だ。物を届けた瞬間に、運んだ人間が次の仕事へ戻れるわけではない」
「はい。兵でも、同じことが起こると思います」
トマが地図をのぞき込んだ。
「橋の辺りには、夜になるとぬかるむ場所があります。昼間、乾いて見えても」
「負傷者を運ぶ道にかかりますか」
「通り方によっては。デニスなら、詳しく知っているはずです」
キャスパーが別の紙へ書き留めた。
「では、伺う相手も決まりました」
俺はうなずいた。
こちらにない知識を持つ人間がいる。
だが、その人間も、現地の兵に聞かなければ分からないことがある。
全員が知っていることを持ち寄れば、俺一人で地図を眺めるより、ずっと具体的になる。
「軍の物資も扱っていたのか」
「以前の領地で、必要な荷を送る仕事には携わりました。戦の記録も、いくらか読んでおります」
「戦場の指揮は」
「務めたことはありません」
答えは、はっきりしていた。
「現地で判断される方の意見を伺いたいと思います。図の上で正しくても、使えない策はありますので」
「そうしてくれ。妻とデニスに話を通す」
キャスパーが、報告書へ視線を戻す。
「奥方様が、守備隊を率いておられるのですね」
「ああ」
「それで、この兵数差を」
彼は少し考えた。
「……ぜひ、お話を伺いたいものです」
トマが、静かに杯を手に取った。
俺はその顔を見た。
何か知っている顔だった。
いや、俺も多少は知っている。
「軍事の話なら、頼りになる」
「ほかのお話は」
「まず、軍事の話からにしよう」
妻のことは、現地で知ってもらうのが一番だ。
◇
翌朝、二台の荷車は予定どおり宿を出た。
昼前に小雨が降り始めた。
低い道を抜ける頃には、車輪の跡へ水がたまり始めていたが、深くはなかった。
御者は馬を急かさず、道の端へ寄りすぎないよう進めた。
キャスパーも、一度降りて足元を見た。
ただ、御者の前へ出て指示を重ねることはしなかった。
慣れている人間が、慣れている仕事をしている。
それを邪魔しないのも、仕事のうちだ。
雨がやんだ場所で休み、覆いの中を確かめる。
布は濡れていなかった。
その後も、何度か宿を替えながら進んだ。
王都から離れるにつれ、道沿いの店が減っていく。
建物と建物の間が広がり、畑の向こうに林が見えるようになる。
道を行く者の服や、荷の積み方も少しずつ変わった。
キャスパーは、よく周囲を見ていた。
「何か気になるか」
「道沿いに、荷を下ろせる場所が少なくなってきました」
「人も少ない」
「はい。ただ、荷車が止まる場所には、食事や修理の仕事が集まることもあります。領内で新しく整える際には、どこへ寄せるか考えられるかと」
言ってから、俺を見た。
「もっとも、まずは今の往来を確かめてからですが」
「分かっている。全部、今日決めろとは言わん」
俺は馬上でうなずいた。
候補は増える。
費用も増える。
それでも、何ができるかを一緒に考える相手が増えたのは、悪くなかった。
俺が黙っていると、トマが隣へ来た。
「お考えを、書き留められますか」
「どうして分かった」
「顔を見ておりましたので」
俺は彼を見た。
こちらも、だいぶ見られるようになってきた。
◇
領地へ入り、やがて町の屋根が見えた。
見慣れたはずの景色が、少し違って見える。
行きは、何を持ち帰れるか分からなかった。
今は、後ろで荷車が鳴っている。
門の兵に声をかけると、一人が館へ走った。
「急がなくていい。先に知らせてあるはずだ」
「いえ、到着されたとお伝えしますので!」
走っていった。
やがて館の前へ着くと、マルセルとオットーが出てきた。
「お帰りなさいませ」
マルセルの声を聞いて、ようやく帰ってきた気がした。
「留守を頼んだ。何か大きな問題は」
「ございますが、まずはお荷物を」
あるのか。
俺は馬から降り、手綱をトマへ渡した。
「先に紹介する。キャスパーだ。手紙に書いたとおり、まず一か月、内政の仕事を見てもらう」
「キャスパーと申します。どうぞ、よろしくお願いいたします」
キャスパーが、二人へ頭を下げた。
「お名前と、お務めについては道中で伺いました。現地のことは、お教えいただくばかりになると思います」
「財政と支払いを見ております、マルセルです」
「オットーです。まだ、私も来たばかりですが」
オットーが、少し慌てて頭を下げ返す。
キャスパーは姿勢を戻してから、彼に言った。
「記録をまとめておられると伺いました。後ほど、拝見してもよろしいでしょうか」
「はい。読めるようには、してありますので」
オットーの肩が、少し上がった。
緊張しているのは分かる。
だが、自分の仕事について聞かれて、うれしくもあるようだった。
マルセルは二台の荷車へ目を移した。
「こちらが、補給の品ですか」
「そうだ。受け取りの控えもある。それから、王庫への納付について、一部免除を認められた」
書付を出すと、マルセルは受け取って目を通した。
もう一度、最初から読む。
「……認められたのですね」
「ああ。兵も役人も出せないとは言われたが、こちらは通った」
マルセルが、静かに息を吐いた。
俺はそれを見て、少しだけ満足した。
よかった。
あの面会を、途中で切り上げなくてよかった。
「御者への残りの支払いは、こちらの控えに。館まで運んでもらう契約だ」
「承知しました。荷を下ろしたあと、確認いたします」
彼は慣れた手つきで紙をそろえた。
その横で、オットーが別の紙を出す。
「領主様のお帰りまでに、お知らせすることをまとめてあります」
「助かる」
受け取った。
紙は、一枚ではなかった。
俺はめくる。
もう一枚。
その次もある。
「……増えたな」
「届いた順の記録から、お返事が必要なものを抜き出しました」
オットーが、真面目に答えた。
「下の方は、マルセル様にご確認いただいて、すでに済んでいるものです」
「済んだものも?」
「重ねてお尋ねになる必要がないように」
俺は手を止めた。
赤い印のあるものは、未処理。
細い線が引いてあるものは、対応済み。
誰へ返事をしたかも書いてある。
「いい。これは、いいな」
オットーが、ほっとした顔をした。
俺は紙をマルセルの方へ向けた。
「では、急ぎのものから――」
「領主様」
マルセルが遮った。
「まず、お着替えを。道の泥がついております」
「このままでも話は」
「椅子にも、つきます」
俺は裾を見た。
確かに、ついていた。
「……分かった」
「それから、食事をお取りください。お戻りになったら、すぐ仕事を始めるだろうとトマから聞いておりましたので」
俺は振り返った。
トマは馬の横で、何も言わずに頭を下げた。
いつの間に話していた。
キャスパーが、一歩前へ出る。
「では、荷の受け取りを先に進めてもよろしいでしょうか。御者殿も、休ませた方が」
「そうしてくれ。マルセル、確認を頼む」
「承知しました」
二人が荷車へ向かう。
オットーは記録の紙を抱えてついていった。
その途中で、キャスパーが振り返る。
「領主様。こちらの仕事を伺う際には、最初のご紹介だけお願いできれば」
「食事のあとで、すぐ来る」
「はい。そのあとは、お任せいただければと思います」
俺は返事をしかけ、止めた。
荷を運んだ者が、ここにいる。
金と帳簿を見ている者が、ここにいる。
記録を残す者も、ここにいる。
そして、話を聞いて、仕事をつなぐために連れてきた者も。
「……分かった。頼む」
俺は館の階段へ足を向けた。
背後では、荷の数を確かめる声が聞こえた。
御者が答え、マルセルが控えを読み、オットーが書き留める。
立ち止まって口を挟まなくても、話が進んでいた。
今は、着替えて飯を食ってこよう。
人を連れて帰った成果を、まずはそこから受け取ることにした。
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