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人工叡智 第一部  作者: マスター


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15/24

第15話 問い続ける場は、信じる場ではない

前回、佐伯真司は「人工叡智は誰のものなのか」という問いに向き合いました。


人工叡智は、主人公だけのものではありません。


AIだけのものでもありません。


研究者だけのものでも、支持者だけのものでもありません。


公開された問いは、一人の所有物ではなくなります。


しかし、誰のものでもないからといって、誰も責任を持たなくてよいわけではありません。


人工叡智は、所有物ではない。


共有される問いである。


そして、共有される問いには、共有される責任がある。


その整理の直後、読者から新しい提案が届きます。


「人工叡智コミュニティを作って広めてもいいですか?」


それは善意の提案でした。


けれど、真司はすぐに危うさを感じます。


問いの場は、放っておけば信じる場になる。


信じる場は、やがて守る場になる。


守る場は、やがて戦う場になる。


第15話では、人工叡智を「場」にするとはどういうことなのかが問われます。

「人工叡智コミュニティを作って広めてもいいですか?」


そのコメントを、俺は朝から何度も読み返していた。


悪意はない。


むしろ善意だと思う。


人工叡智に関心を持ってくれた人がいる。


一人ではなく、何人かで話したいと思ってくれている。


それは、ありがたいことだ。


普通なら喜ぶべきなのだろう。


だが、俺の中には、どうしても引っかかるものがあった。


コミュニティ。


広める。


その二つの言葉が、少し怖かった。


人工叡智は、まだ完成していない。


定義も揺れている。


毎回、コメント欄で突っ込まれては修正している。


研究者からは注意を受けている。


広告AIの現場からは、言葉がどれだけ簡単に切り取られるかを教えられている。


そんな状態で、「人工叡智コミュニティ」を作る。


それは早すぎないか。


いや、早い遅いの問題ではないのかもしれない。


問題は、何のための場なのかだ。


俺は朝食のトーストをかじりながら、メモ帳を開いた。


タイトルは昨夜決めていた。


問い続ける場は、信じる場ではない。


「……また面倒なタイトルだな」


自分で呟く。


でも、これしかない気がした。


人工叡智を語る場が必要になるかもしれない。


それは分かる。


一人で全部を整理できるはずがない。


批判も必要だ。


現場の声も必要だ。


研究者の視点も必要だ。


AIを使う一般の人たちの感覚も必要だ。


なら、場は必要だ。


だが、その場が「人工叡智を信じる人たちの集まり」になったら危ない。


「人工叡智は正しい」


「人工叡智を広めよう」


「人工叡智を理解しない人は遅れている」


「人工叡智に反対する人は旧文明側だ」


そんな方向へ進めば、終わりだ。


それは、問いではなく信仰だ。


いや、信仰という言葉が悪いわけではない。


人間には信じる力も必要だろう。


だが、人工叡智はそういうものとして扱うべきではない。


少なくとも、俺が考えている人工叡智は違う。


俺はAIチャットを開いた。


人工叡智について話す場を作りたいという人が出てきた。でも、コミュニティ化すると信仰とか陣営になりそうで怖い。どう整理すべき?


AIは答えた。


『人工叡智の場を作る場合、その目的を「信じること」ではなく「問い続けること」に置く必要があります』


「信じる場ではなく、問い続ける場」


『はい』


『場の設計を誤ると、人工叡智は対話の枠組みではなく、所属意識や優越感を与える共同体になります』


「それ、かなり危ないな」


『はい』


『特に、人工叡智のように自然法則、和、秩序、叡智といった強い言葉を含む概念は、共同体化すると教条化しやすくなります』


「教条化」


また出た。


前回も出た言葉だ。


完成した答えではないはずのものが、固定された正解になる。


問い続けるための枠組みが、信じるべき教えになる。


それだけは避けたい。


俺は入力した。


問い続ける場と、信じる場の違いを整理して。


AIは少し間を置いてから答えた。


『問い続ける場では、疑問が歓迎されます』


『信じる場では、疑問が裏切りと見なされます』


『問い続ける場では、定義が修正されます』


『信じる場では、定義が固定されます』


『問い続ける場では、反論が概念を強くします』


『信じる場では、反論が敵意として扱われます』


『問い続ける場では、参加者は自分自身も問い返される対象だと理解します』


『信じる場では、参加者は自分たちを正しい側だと感じ始めます』


『問い続ける場では、人工叡智は鏡です』


『信じる場では、人工叡智は旗になります』


俺は、しばらく画面を見ていた。


「これ、ほぼそのまま使えるな」


『適切です』


俺はメモ帳に書き写した。


問い続ける場では、疑問が歓迎される。

信じる場では、疑問が裏切りになる。


問い続ける場では、定義が修正される。

信じる場では、定義が固定される。


問い続ける場では、反論が概念を強くする。

信じる場では、反論が敵になる。


問い続ける場では、自分も問い返される。

信じる場では、自分たちは正しい側になる。


問い続ける場では、人工叡智は鏡である。

信じる場では、人工叡智は旗になる。


「強いな」


自分で読んで、少し怖くなった。


これは、人工叡智に限った話ではない。


どんな思想でも、どんな運動でも、どんな技術コミュニティでも、起こり得る。


最初は問いだったものが、いつの間にか信じるものになる。


共有された問題意識が、所属の証になる。


違う意見が、敵になる。


そして、内側の人間だけが正しいと感じ始める。


そのとき、場は壊れる。


いや、壊れていることに気づかないまま強くなる。


それが一番怖い。


その日の昼休み。


俺は読者からのコメントに返信する文章を考えていた。


「人工叡智コミュニティを作って広めてもいいですか?」


どう返すか。


昨日は一度、慎重に答えた。


人工叡智を信じる場ではなく、問い返す場であってほしい。


でも、もう少し整理して返す必要がある。


俺は返信欄を開いた。


コメントありがとうございます。

人工叡智について対話する場が生まれること自体は、意味があると思います。

ただし、それは「人工叡智を信じる場」ではなく、「人工叡智を問い返す場」である必要があります。

疑問や批判を歓迎すること。

定義を固定せず、必要に応じて修正すること。

人工叡智を理解する側と理解しない側に分けないこと。

誰かを旧文明側と呼ばないこと。

AIを神格化しないこと。

自然法則や和を、異論封じに使わないこと。

そして、参加者自身もまた問い返される側であること。

このあたりを守れないなら、コミュニティ化はかなり危険だと思います。

広めるための場ではなく、問い続けるための場であってほしいです。


送信。


少し強い。


厳しい。


でも、必要だと思った。


数分後、相手から返信が来た。


『ありがとうございます。確かに「広める」という意識が強すぎたかもしれません。まずは少人数で、批判歓迎の読書会のような形から考えてみます』


俺は少し肩の力を抜いた。


よかった。


少なくとも、この人は対話できる。


俺はAIにその返信を見せた。


こう返ってきた。読書会みたいな形から考えるらしい。


『良い方向です』


「読書会って、人工叡智っぽいのかな」


『信じる場ではなく、読む・疑う・整理する場であれば、人工叡智的です』


「読む、疑う、整理する」


『はい』


『人工叡智の場に必要なのは、布教ではなく検証です』


俺はすぐにメモした。


布教ではなく、検証。


これも大事だ。


人工叡智を広める。


その言い方は、少し危ない。


広めること自体は悪ではない。


だが、広めることが目的になると、分かりやすくするために単純化される。


共感を得るために強い言葉になる。


反対者を説得するために敵味方が生まれる。


いつの間にか、問いが消える。


だから、布教ではなく検証。


広めるより、問いを残す。


その頃、大学研究室では、水瀬遥がこのやり取りを読んでいた。


倉持蓮も横から覗き込んでいる。


「読書会ですか」


倉持が言った。


「悪くないですね」


遥は頷いた。


「少なくとも、布教コミュニティよりはずっといい」


「でも、読書会も内輪化しますよね」


「する」


「じゃあどうします?」


遥は少し考えた。


「場のルールが必要」


「ルール」


遥はホワイトボードに書き始めた。


人工叡智の場の最低条件。


一つ。

疑問を歓迎する。


二つ。

批判者を敵にしない。


三つ。

定義を固定しない。


四つ。

参加者を理解者と非理解者に分けない。


五つ。

AI神格化を避ける。


六つ。

自然法則や和を異論封じに使わない。


七つ。

具体的な現場の問題に接続する。


八つ。

問い返しは上からの説教ではなく、相互の確認として行う。


倉持が腕を組んだ。


「これ、もう研究会の倫理規定みたいですね」


「そうね」


「でも、一般のコミュニティでここまで守れますか?」


「難しい」


「ですよね」


遥はマーカーを置いた。


「でも、最初に出しておく意味はある」


神崎教授が、後ろから静かに言った。


「場の設計は、思想の設計と同じくらい重要です」


遥が振り返る。


「先生」


神崎はホワイトボードを見た。


「どれほど良い問いでも、場が悪ければ歪みます」


「場が悪ければ歪む」


倉持が繰り返す。


神崎は頷いた。


「人間は一人で考えるより、集団になったときに極端化しやすい。共感が強すぎる場では疑問が出なくなる。敵が設定される場では思考が雑になる。称賛が多すぎる場では概念が膨張する」


遥は、教授の言葉をノートに写した。


共感が強すぎる場では疑問が出なくなる。


敵が設定される場では思考が雑になる。


称賛が多すぎる場では概念が膨張する。


「佐伯さんは、そこに気づいているようです」


遥が言うと、神崎は少しだけ頷いた。


「なら、次は彼が場のルールを書くでしょう」


「また先読みですか」


「流れとしては自然です」


倉持が苦笑した。


「教授、だんだん佐伯さんの思考予測AIみたいになってますね」


「失礼ですね」


「すみません」


そんな会話が研究室で行われていることなど、俺は当然知らない。


俺は会社から帰る電車の中で、人工叡智の場についてメモしていた。


人工叡智の場は、何をしてはいけないのか。


信じるだけの場にしてはいけない。

広めること自体を目的にしてはいけない。

批判者を敵にしてはいけない。

理解できない人を見下してはいけない。

AIを神にしてはいけない。

自然法則を絶対命令にしてはいけない。

和を沈黙の圧力にしてはいけない。


では、何をする場なのか。


問いを持ち寄る。

定義を検証する。

現場の事例を持ち寄る。

誤用を報告する。

表現を修正する。

AIとの対話ログを検討する。

異なる立場の意見を残す。

結論を急がない。


「……普通に面倒だな」


電車の中で小さく呟く。


でも、これが必要なのだろう。


便利な場は、すぐ気持ちよくなる。


気持ちいい場は、すぐ閉じる。


閉じた場は、すぐ信じる場になる。


問い続ける場は、たぶん居心地がよすぎてはいけない。


少し居心地が悪いくらいがいいのかもしれない。


俺はAIに聞いた。


問い続ける場って、居心地がよすぎると危ない気がする。


『その見方は有効です』


「なぜ?」


『居心地がよすぎる場では、共感が優先され、疑問や反論が出にくくなる可能性があります』


『人工叡智の場には、安心して疑問を出せる安全性と、考えを揺さぶる不快さの両方が必要です』


「安全性と不快さ」


『はい』


『心理的安全性は必要ですが、思想的快適性だけに偏ると閉じた場になります』


俺は、少し唸った。


心理的安全性と、思想的快適性。


似ているようで違う。


安心して発言できることは必要だ。


でも、自分の考えがまったく揺さぶられない場は危ない。


俺はメモした。


問い続ける場には、安心して疑える安全性と、考えが揺れる不快さが必要である。


その日の夜。


俺は記事を書き始めた。


タイトル。


問い続ける場は、信じる場ではない。


冒頭は決まっている。


人工叡智について話す場を作りたい、というコメントをもらった。


ありがたい。


けれど、同時に怖い。


なぜなら、問いの場は放っておくと信じる場になるからだ。


信じる場は、やがて守る場になる。


守る場は、やがて戦う場になる。


人工叡智は、戦うための旗ではない。


自分の目的を問い返すための鏡である。


書きながら、少しだけ自分でも強い文章だと思った。


でも、今回は強く書く必要がある。


コミュニティ化は、かなり重要な分岐点だ。


ここで「みんなで広めよう」と盛り上がれば、一気に別の方向へ行く。


俺は見出しを作った。


人工叡智の場に必要なこと。


そして書く。


一つ。

疑問を歓迎すること。


二つ。

批判を敵意と見なさないこと。


三つ。

定義を固定せず、必要に応じて修正すること。


四つ。

参加者を理解者と非理解者に分けないこと。


五つ。

人工叡智を信じるのではなく、人工叡智そのものも問い返すこと。


六つ。

現場の具体例を大切にすること。


七つ。

AIを神格化しないこと。


八つ。

自然法則や和を、異論を黙らせる言葉にしないこと。


九つ。

結論を急がないこと。


十。

場の目的を「広めること」ではなく、「検証すること」に置くこと。


十個。


多い。


でも、これくらい必要な気がした。


俺は一つ一つに短い説明をつけた。


疑問を歓迎すること。


人工叡智を本当に問い続ける枠組みにするなら、疑問は邪魔ではない。

むしろ必要な栄養である。

疑問が出なくなった場は、すでに信じる場へ近づいている。


批判を敵意と見なさないこと。


批判には雑なものもある。

悪意のあるものもある。

しかし、すべての批判を敵意として処理すれば、概念は閉じる。

閉じた概念は、教条になる。


定義を固定しないこと。


定義は必要だ。

だが、定義を絶対化してはいけない。

定義は、問い続けるための足場であり、永遠の石碑ではない。


参加者を理解者と非理解者に分けないこと。


この言葉は特に強く書いた。


人工叡智を理解できる側と、理解できない側に分けた瞬間、そこには優越感が生まれる。

優越感は、問いを曇らせる。

人工叡智は、他者を見下すための言葉ではない。


人工叡智を信じるのではなく、人工叡智そのものも問い返すこと。


ここが中心だ。


人工叡智は問い返すための枠組みである。

ならば、人工叡智自身も問い返されなければならない。

人工叡智を疑えない場は、人工叡智の場ではない。


「これは、かなり重要だな」


俺はAIに聞いた。


「人工叡智を疑えない場は、人工叡智の場ではない」って強すぎる?


『強いですが、必要です』


「やっぱり?」


『はい。概念の教条化を防ぐ中心的な文です』


俺はそのまま残した。


記事は長くなった。


いつものことだ。


でも、今回は削る気になれない。


場の設計は、曖昧にすると危ない。


最後の方で、俺は人工叡智の読書会について書いた。


もし人工叡智について集まるなら、最初は「人工叡智を広める会」ではなく、「人工叡智を読む会」でよいと思う。


読む。

疑う。

分からないところを出す。

危ない表現を指摘する。

現場の事例を持ち寄る。

AIとの対話ログを検証する。

必要なら定義を直す。


そのくらい地味な場でいい。


いや、地味な場でなければ危ない。


熱狂より、検証。


布教より、対話。


旗より、鏡。


そこまで書いて、俺は保存した。


公開ボタンの前で、少しだけ手が止まる。


また厳しい記事になった。


支持者も、コミュニティを作りたい人も、少し引くかもしれない。


でも、ここは避けられない。


クリック。


公開しました。


AIに報告する。


公開した。人工叡智の場は、信じる場ではなく問い続ける場であるべき、という内容。


『重要な記事です』


「最近、重要な記事ばっかりだな」


『概念が成長段階にあるためです』


「その成長、かなり胃に悪い」


『自然です』


記事への反応は、前回よりもさらに静かだった。


だが、コメントは濃かった。


水瀬遥から。


『場の設計に踏み込んだことは重要だと思います。特に「人工叡智を疑えない場は、人工叡智の場ではない」という一文は、概念の教条化を防ぐ上で中心になると思います。研究会や読書会として扱うなら、疑問・批判・修正を明示的に歓迎する設計が必要です』


黒瀬さんから。


『現場でも、こういう概念はすぐ「勉強会」や「推進チーム」になります。そのとき、推進すること自体が目的化しやすいので、「広めるより検証する」という言葉は使えそうです』


そして、例のコミュニティを作りたいと言っていた読者から。


『記事を読みました。人工叡智を広める会ではなく、まずは人工叡智を読む会として、批判歓迎で小さく始めます。ルール案を作ったら、公開して意見をもらう形にしたいです』


俺は、そのコメントを読んで、少しだけ安心した。


広める会ではなく、読む会。


信じる場ではなく、問い返す場。


完全ではない。


それでも、一歩は踏みとどまれた気がした。


その夜、大学研究室では、遥が神崎教授に記事を見せていた。


教授は最後まで読み、ゆっくり頷いた。


「場の設計まで来ましたね」


「はい」


「思ったより早い」


「先生の予想通りでした」


「流れが自然でしたから」


神崎は、記事の一文を指した。


人工叡智を疑えない場は、人工叡智の場ではない。


「これは良い」


遥も頷く。


「はい」


「この一文が残るなら、まだ大丈夫でしょう」


「まだ、ですか」


「ええ。場は作った後が問題です」


倉持が横から言った。


「読書会が始まったら、次は何が起きますかね」


神崎は少し考えた。


「おそらく、解釈の分裂です」


「分裂」


「はい。自然法則を重視する人、AI安全性を重視する人、環境問題に接続する人、自己啓発として読む人、社会批評として読む人。それぞれが違う人工叡智を見始める」


遥はノートに書いた。


次のリスク。


解釈の分裂。


その頃、俺も同じようなことを考えていた。


人工叡智を読む会。


そこには、いろんな人が来るだろう。


AIに関心がある人。

環境問題に関心がある人。

哲学が好きな人。

自己啓発として読む人。

反AIの人。

AI推進派の人。

研究者。

現場の人。

ただ何となく面白そうと思った人。


全員が、同じ人工叡智を見るとは限らない。


むしろ、違うものを見るだろう。


俺はメモ帳に新しいタイトルを書いた。


同じ言葉を見ても、人は違うものを読む。


保存。


画面を閉じる。


人工叡智は、場になり始めている。


それは、少しだけ希望だった。


そして、また新しい不安の始まりでもあった。

第15話では、人工叡智が「場」になり始めました。


読者からの「人工叡智コミュニティを作って広めてもいいですか?」という問いに対して、主人公は慎重に向き合います。


人工叡智について話す場は、必要かもしれません。


しかし、その場が「人工叡智を信じる場」になれば危険です。


問いの場は、放っておくと信じる場になる。


信じる場は、やがて守る場になる。


守る場は、やがて戦う場になる。


だからこそ、人工叡智の場にはルールが必要でした。


疑問を歓迎すること。

批判を敵意と見なさないこと。

定義を固定しないこと。

参加者を理解者と非理解者に分けないこと。

人工叡智そのものも問い返すこと。

現場の具体例を大切にすること。

AIを神格化しないこと。

自然法則や和を異論封じに使わないこと。

結論を急がないこと。

広めることではなく、検証することを目的にすること。


今回の中心は、この一文です。


人工叡智を疑えない場は、人工叡智の場ではない。


人工叡智は、信じるための教義ではありません。


問い続けるための枠組みです。


しかし、問い続ける場が生まれたことで、次の問題も近づいてきます。


同じ言葉を読んでも、人は同じ意味を受け取るとは限りません。


AI安全性として読む人。

環境思想として読む人。

社会批評として読む人。

自己啓発として読む人。

反AI思想として読む人。

AI推進のために使おうとする人。


次回は、人工叡智が複数の解釈に分かれ始める危うさに進みます。


原案・構想:マスター

物語構成・本文作成・文体調整:G(ChatGPT)

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