第4話 よぶ何者
それなりの苦労はあったが、どうにかねこをケージに入れて動物病院に連れていったところ、健康状態等々、何の問題もないとのことだった。
診てもらったついでに、仏壇の裏に入って出てこないのだが、と相談してみたら、獣医は呆れ顔で言った。
「そんなに入られたくなければ、猫が入れないようにふさぐか何かすればいいんじゃないですか」
私は是が非でも仏壇の裏に入られたくないと訴えたつもりはない。
そんな狭苦しい場所に入ったまま出てない状態にしておいて大丈夫なものか、ということを訊きたかった。
しかし、説明しても無駄というか、この獣医とはどうもわかりあえないような気がする。
だいたいこの動物病院は近所にあって、自宅と病院が一体化しているみたいだが、自宅のほうの玄関前に駐まっている車がわりと頻繁に変わる。
外車のSUVだの、国産高級車だの、いい車ばかりだ。
たぶん私と同年輩だろう獣医の妙にこざっぱりとした外見も、こう言っては何だがいけ好かない。
被害妄想か偏見かもしれないが、いかにも私のような人間を見下していそうなタイプだ。
「生きろ」
私はどの生命体に対しても死を願うことはすまいと心に決めている。
だから、死ね、と思いそうになったときは、その逆の言葉を口にする。
そうすると、自分が善人で、何かいいことをしたような、そんな気分に浸れる。
「生きろ、裕福な獣医め。生きるがいい」
私は何か用があったら別の動物病院に連れてゆこうと心に決め、ねことともに帰宅した。
居間でケージから出すと、ねこはさっそく仏間へと向かう。
そのまま仏壇の裏に入りこみ、私が呼んでも出てきてはくれない。
「ふさぐ、か。簡単に言ってくれるよ」
まあ、やってやれないことはないと思うが、めんどくさい。
「とりあえず健康なのはよかったな。もともと野良だし、病気を持っていてもおかしくないわけだから」
何か祝ったほうがいいような気がしてきた。
飲むか、昼間から。
私は悪魔の囁きを聞かなかったことにする。
「金がないしな。まだ通帳の残高、ギリ六桁だったけど。あれとあれの入金はだいぶ先だから、すぐ底が抜けそうだし……」
私は預金残高が十万円を切らないように心がけて生活している。
我ながら偉いと思う。
十万円あれば、偉いものだと誇っていられる。
残高数万円の世界に突入すると、不安感が増して、自分のことを偉いなんてとても思えなくなってしまう。
残高数千円は恐怖の領域だ。
一度、残高が百四十六円にまで落ちこんだことがある。
あれは本当に気が気でなかった。
ちなみにローン、借金はまた別枠だ。
車のローンが残っていたときなど、実質的な預金残高はマイナスなのに、そこまでつらくなかった。
なんでだろうね。
よくわからないが、預金残高十万円以上をキープしておくと精神衛生上いいことは、経験的にはっきりしている。
私は仏壇の前であぐらをかき、思案する。
「仕事か。たみさんは……次は一ヶ月か二ヶ月先だな。長っ。ええと、原稿は……ううん。何かありませんかって頼むのもな。ライターって名乗れるほどのライターでもないし」
かつて私は文筆で身を立てていたことがある。
本を出したりもしていたのだが、何というかまあ、ようするにあまり売れなかった。
ちょっとだけ売れた本もあるにはあるものの、生計を立てるのは厳しくて、基本的には貧乏暮らしだった。
だから辞めた。
私はもう作家じゃない。
というか、当時、自分のことを作家だと思っていたかというと、けっこうあやしい。
どうも、作家の何々です、と名乗ったことは少なくともない。
売れなかったからね。
ただまあ、昔取った杵柄というか、文章は一応、人並み以上には書ける。
人脈めいたものも、まったくないわけじゃない。
おかげで、コラムや書評のようなものを書く仕事をたまに振ってもらえる。
私のほうから、あからさまにもらいにいくことはない。
仕事を振ってくれそうな人に会う機会があったら、何かあったらいつでも言ってよ、くらいの話をする程度だ。
「頼みまくれば、一本か二本は何か書かせてもらえるしれないけど、そこまでして書きたいかっていうとな……」
私は仏間の畳の上で横になった。
「寝るか」
悪くないアイディアだ。
ただ、難点があって、べつに眠たくない。
「現実逃避だよな。わかってる。探さないと、仕事。めんどくせえ……」
目をつぶる。
眠くならないかな。
深呼吸でもしてみるか。
大きく息を吐く。
これ以上、吐けないというところまで吐く。
吐ききる。
すると、必然的に吸わざるをえなくなる。
吸えるだけ吸う。
吸えなくなったら、吐く。
以上を繰り返す。
あとは脱力だ。
なるべく体から力を抜く。
私はこれでだいたい眠れる。
金が入ってくるあてがなくて、不安で仕方ない夜も、この方法で乗りきってきた。
なんだか眠たくなってきたような気もする。
でも、何かが眠気の到来を妨げている。
思い当たる節はなくもない。
「あれかな……」
私はひそかに期待している。
こうしている間にメールが届くなり、電話がかかってくるなりする。
仕事の依頼だ。
やれやれ。
めんどくせえけど、来た仕事はやらないとな。
これは自慢だが、頼まれた仕事を片付けなかったことは一度もない。
我ながら立派なところだと誇っている。
そうやって徳を積んでいるのかも、とも思っていたりする。
おかげで、どうにかこうにか食いつなぐことができているのではないか。
困ったときには来てくれたりするんだよ、仕事のほうから。
だいたいね。
来るから。
たぶん来ると思うんだよね。
来るはずなんだけどな。
「……おっかしいなぁ」
けっこう時間が経っているような。
わからんけど。
体感でたぶん一時間くらいは経過している。
あくまでも体感だ。
一応確認してみようと起き上がる。
居間のこたつの上に置いてあったスマホに手をのばそうとしたら、ぴょこん、と鳴ったものだから、私は跳び上がってしまう。
「びっくりした! 何なんだよ、いきなり!」
つい、殺すぞ、と罵りそうになり、いやいや、殺すはよくないので、生きろ、と言いかけて、スマホに生きろと言うのも変かと思い直す。
「壊れろ」
違うか。
壊れられても。
だいたいスマホに罪はないし、壊れたら直さないとだし、もう4年以上使っていて保証なんかは当然切れているから、修理するには金がかかる。
「ごめん」
私は一言詫びてスマホを手にとる。
ラインだ。
送信者の名を見て、
「げっ」
という声が私の口から飛びだす。
ありせ
という名が表示されている。
私の仕事の窓口は主にEメールと電話で、求められればラインも教えるが、そういうことが多いかというと、さほどでもない。
数少ない友人や縁者とはだいたいラインで連絡をとる。
ありせ、という人物は、親戚じゃないし、友だちとも言えない。
だったら何なのか。
まあ一応、仕事関係、という分類が適当そうだが、曰く付きというか何というか。
「よりにもよって、ありせかよ……」
余裕があったら無視して、やかましく詰められたら、あ、ラインした? 気づかんかったわ、ごめんごめん忙しくて、とか何とか言い訳をする手もあるのだが、背に腹はかえられない。
私はありせが送ってきたラインのメッセージを確認する。
【ぜろ暇? 時間あったら店に来て お願いね】
「暇じゃない」
呟いてみる。
むろん私は嘘をついている。
暇だ。
「しゃあねえか……」
私はねこの食べ物やら水やらを整えて、軽く猫トイレの掃除までしてから、身繕いをする。
といっても、動物病院に行く前に髭を剃ったし、頭に巻いていたタオルはそのままだったから、MA-1的な上着を着るだけでいい。
ちなみに、仏間で横になって目をつぶってから三時間以上経っていた。
動物病院に行ったのは午後になってからだから、そろそろ夕方だ。
時が経つのは早い。
年々速度が上がる。
「このぶんだと、気がついたらくたばってそうだよな」
家を出る。
ありせの店は隣市だから車で行かないといけない。
ガソリン代がもったいないが、頼みたいこととやらは十中八九仕事だし、必要経費だと思って我慢するしかない。
もちろん私の愛車は軽自動車だ。
どうせ高速道路を使って遠出するようなことはない。
街乗りならこのスズキのアルトくんで十分だ。
駐車しやすいし、狭いところも通り抜けられるし、運転がとくに上手でも好きでもない私にとっては、車なんか小さいほうがいい。
独身だから、誰かを乗せることもそんなにないしね。
色はシルバーだ。
ちょっと錆びているが、走行に支障はない。
私のアルトくんは三十分ほどでありせの店の前に到着する。
駐車場は裏手だ。
舗装されていない。
私は愛車を適当に駐めて、店へと向かう。
「てか、何の店なんだろうな、ここ。来るたびに謎なんだけど」
外観は、シャレオツな?
花屋、みたいな?
何かそういう感じの店のように見えなくもないが、入ると鉢植えはあちこちに置いてあるものの、テーブルと椅子が並んでいて、カフェか何かのようでもあり、カウンターらしきものもある。
あと、ブティックというのはやや古い言い方だろうか、ハンガーラックにたくさん洋服がかかっていたり、ショーケースの中に貴金属類などが並べられていたりして、服飾品を扱っているようでもある。
しかしながら、この店舗のようなスペースの奥にはさらに広大なスペースがあって、そこはかつて倉庫だったことが一見してわかる造りなのだが、絵だの彫刻だの、何とも言いがたい立体物がそこらじゅうに飾られている。
奥のスペースには、アンティークらしいソファーや、大きな円卓や、高価そうなチェアなども置いてあって、この店の主はソファーに足を組んで腰かけ、コーヒーを飲んでいた。
「ぜろ。早かったわね」
金欲しさについ急いでしまったことを見すかされたような気がして、私はとっさに返事ができない。
「暇だったんでな」
結局、私は本当のことを言って、ありせの隣に腰を下ろす。
適切な距離はちゃんとあけている。
外国製だろう四人は座れそうなソファーだから、こうして離れて腰かけても余裕がある。
「だと思った」
ありせはくすっと笑ってコーヒーテーブルにカップを置く。
ソファー脇のコーヒーテーブルの上には、カップの他に煙草とライター、灰皿がある。
「吸わんの?」
私が訊くと、ありせは縦じゃなくて斜めにうなずいて、煙草の箱とライターを手にする。
銘柄はクールという、メンソールの煙草だ。
私もかつて喫煙していたころ、好んでよく吸っていた。
煙草をくわえて火をつけ、吸いこんだ煙を細く吐きだすありせは、ひと言でいうと絶世の美人だ。
絶世。
少々古めかしいというか、文語的な言葉かもしれないが、年齢不詳の女優のような容姿には似つかわしいと思う。
ありせはいつも、どこでそんな服が売られているのか私には見当もつかない恰好をしている。
透け感があったり、光沢があったりして、既製品っぽくないような感じがするというか。
脚は出しても、腕は見せない。
スカートは短かったり、スリットが入っていりしても、トップスは必ず長袖だ。
かなりしっかりとメイクをしている。
私はメイキャップに造詣が深いわけじゃないが、たぶんずいぶん化粧が上手なんじゃないかと思う。
髪もかっちりセットしている。
まるで美容室に行ったあとみたいだ。
テレビに出ているタレントだとか、ファッションモデルなら、こういう人はそれなりにいるだろう。
そのへんを歩いていることはまずない。
ありせには非現実感がつきまとっている。
ついでに言うと、べらぼうにいい匂いがする。
強烈すぎる香りなのに、胸がむかつかない。
もっと嗅ぎたくなる。
嗅いだりしないが。
「で、何の用? 何もないってことはないよな」
私は早く用事をすませてしまいたい。
ありせはまた煙草を一吸いする。
それも、やけにゆっくりと。
「知りたい?」
「呼ばれたから来たんだぞ……」
「とりあえずコーヒーでも飲む?」
「いいよ。もう夕方だし」
「変なことを気にするのね」
「べつに普通だろ。いいから用件を言えよ」
「どうしても?」
「どうしても」
「わかった」
ありせはそう言っておきながら、またもや紫煙をくゆらせる。
だろうな、と私は覚悟していたので、そこまで苛つきはしない。
まったく平静ではいられないが、私が焦れれば焦れるほど、ありせはほくそ笑む。
そういう手合いだ。
私は黙って腕組みをして待つことにする。
五分くらいは耐えてみせる。
それ以上は無理だ。
我慢は好きじゃない。
「印を探して欲しいっていう人がいて」
ありせは結局、二分半程度で口を開く。
危なかった。
もうちょっとで私の堪忍袋の緒が切れるところだった。
五分は長すぎる。
私には三分が限度らしい。
「……印?」
「そう、印」
ありせがうなずいてみせる。
正面の顔もきれいだが、横顔や斜め横顔はさらにすばらしい。
それだけに恐ろしい。
ありせは私と同年配で、性別も同じだ。
そう聞いているのではなくて、私は知っている。
間違いない。
私はこの目で見た。
つまり、あれを。
ひょんなことからというか、そうなってもおかしくないような経緯があって、見てしまったのだ。




