第2話 ひと仕事
三日もすると、仔猫に必要な用具や食糧はおおかた家に揃った。
しかし、私は仔猫をただ、ねこ、と呼んでいる。
私はこのまま飼うつもりなのか。
どうだろう。
決心がつかない。
実家、すなわち私が今住んでいるこの家には、かつて猫がいた。
私も子供なりに世話をしたが、責任感のようなものはなかった。
大学生になって一人暮らしをしていたとき、思いたって一匹の猫を飼いはじめた。
知り合いに頼まれて、もう一匹引き取った。
当時の私は向こう見ずで考えなしだったと思わずにいられない。
私はもう若いとは口が裂けても言えない年齢だ。
自分の生活だけで手一杯だというのに、果たしてねこの面倒なんか見られるのか。
かなり不安だ。
ねこが来てからは、頼まれごとを一つ二つ、家で処理していた。
「一つだけど」
同時に二つも三つも依頼を抱えられるようなら、こんなに苦労していない。
「片づいちゃったしな。仕事、そろそろ探さないと」
ねこは仏間の仏壇の裏に隠れている。
しばらく姿を見ていない。
そのうち腹が減れば出てくるはずだが、なんとか誘いだせないものか。
私は信仰心が薄いので、なんて罰当たりな、みたいなことはまったく思っていない。
とはいえ、そんなところを安住の地にされても困る。
何か打てる手はないものか。
「ねこが出てこないと、仕事どころじゃないし」
私は親が遺した家に住んでいる。
おかげで家賃はかからないが、この古い家以外に資産らしい資産はない。
金遣いが荒いほうではないものの、稼がないと食ってゆけない身だ。
給与所得者ではないから、仕事を受けてこなさないと一円たりとも手に入らない。
主な仕事の受け付け窓口は電話とEメールだ。
ここ数日、電話は鳴っていない。
メールも届かない。
ため息が出る。
「営業か」
だが、どうだろう。
自分から仕事を求めて行動を起こした矢先に、えてして向こうから仕事の問い合わせが来たりする。
そんなときに即応できる状態が望ましいことは言うまでもない。
「まあ」
私は言うまいと思う。
誰に聞かれているわけでもないが、口にしないほうがいいこともある。
「働きたくないし」
言ってしまった。
「いや」
私は首を横に振る。
「ねこだよ。ねこ。まずはねこに出てきてもらわないと」
すべてはそれからだ。
さて、どうする。
私は仏壇の前であぐらをかいている。
ときおりねこに呼びかける。
出てこないな、と思っている。
いやあ、出てこんなあ。
それにしても、出てこんね。
ねこが出てこないと、仕事ができないな。
「願ったり叶ったり……」
言いかけて、私はふたたび首を横に振る。
「違うって。ねこは命だから。仕事なんかより、一つの生命を守ることのほうが大事だし。それはね。あたりまえだよな」
まだ生後一ヶ月程度とおぼしきか弱い仔猫だ。
この命をなんとか繋がないといけない。
私は有意義なことをしている。
目をつぶって静かに自分自身を納得させようとしていると、ぴょこんという音が鳴った。
「ん」
この音はスマホだ。
ぴょこん、はメールではなくてラインの通知音なので、ひょっとしたらそう多くはない友人からの連絡かもしれない。
「ないか」
平日の午前中だ。
それはない。
「でも、わからないよ?」
私は立ち上がってスマホを探す。
あった。
仏間と続きの居間のローテーブル、布団を外したこたつの上だ。
どうか友だちからでありますように。
一縷の望みを抱きつつスマホを手にとると、たみさんという近所で独居している女性からのメッセージだった。
【たのまれてくれるかい】
文面は以上だ。
【何でしょう?】
私がそう返すと、しばらくしてレスがあった。
【そうじ】
【わかりました 今からうかがいます】
私は返事を送りながら大きいなため息をついた。
私はEメールと電話を仕事の窓口にしてはいるが、先方が要望すればラインを交換する。
なお、インスタはやっていないから、DMでの対応は出来ない。
「しょうがない。仕事だ。行くか」
ねこを置き去りにして大丈夫だろうか。
気がかりではあったが、仮に仏壇の裏から出てきてくれたとしても、連れてはゆけない。
あたりまえだ。
犬じゃない。
猫だ。
しかも、仔猫だし。
とりあえず、カリカリのフードをふやかしたもの、ウェットフード、それから水も居間に用意しておいた。
「いたれりつくせりだろ。むしろ。感謝しろよ。しないか。猫だしな」
最低限の身繕いをしようと洗面台の前に立ってみる。
髪はずいぶん切っていない。
伸び放題でぼさぼさだ。
髭も数日剃っていなくてひどい有様だし、髭剃りくらいはしたほうがいいのか。
「硬いんだよな。おれの髭」
私は顎や頬をさわる。
なかなかの感触だ。
私の髭はけっこうな剛毛だから、剃刀でさっと撫でればそれですむというわけにはいかない。
「まあいいか」
私は寝て起きたときのまま、Tシャツにスウェットパンツという出で立ちだ。
二の腕に鼻を押しつけて嗅いでみる。
「うん?」
どうだろう。
正直、わからない。
においらしいにおいは感じないように思うが、断言はできない。
「平気だろ。たぶん」
壁に掛けてあったフライトジャケットを手にして羽織る。
アマゾンで買った。
これはMA-1、なのか?
形と素材はMA-1的だ。
とりあえず、安かった。
それから、頭にタオルを巻くと、出来損ないの大工か職人のように見えなくもない。
「見えないか。大工にも職人にも。見えないな。何だこれ」
私は玄関でスニーカーを履いて外に出た。
たみさん宅は近くだから、車を使ってガソリンを消費するまでもない。
辿りついた一軒家は、私が物心のつくころにはすでに建っていたような気がする。
チャイムを鳴らすと、ややあってたみさんがドアを開けてくれた。
施錠はしていなかったようだ。
「ぜろちゃん。もうきてくれたのかい。早かったね」
たみさんはだいたいジャージの上下で、中はTシャツだ。
上下は揃いのものじゃないことが圧倒的に多い。
今日は上がピンク色で、下は緑色、ついでに靴下は真っ赤だ。
御年七十七歳だっただろうか。
髪は黒い。
染めているわけじゃなくて、白髪にならない家系なのだという。
「おはようございます」
私は笑みを浮かべて挨拶をする。
決して愛想のいい人間じゃないが、それくらいのことはできる。
「上がって上がって」
たみさんは手を振ってみせ、玄関の先の廊下を進もうとする。
でも、そう簡単には進めない。
なぜなら、廊下が多種多様な物で埋まりかけているからだ。
ついでに言うと、玄関もまた、靴やサンダル、スリッパ、新聞、チラシ、空き缶、ペットボトル、菓子か何かの包装紙、等々が散乱し、積み重なって、すごいことになりかけている。
まあ、すでになっている。
「お邪魔します」
けれども、私はこんなことくらいで驚かないし、めげたりもしない。
予想どおりだしね。
靴を脱ぐか脱ぐまいか、一瞬だけ迷うが、脱ぐことにする。
危険物が紛れているかもしれないので、足を切ったりしないように、それだけは注意しないといけない。
たみさんのあとを追って居間に到達すると、その惨状たるや、やはり思っていたとおりだった。
「少し溜まりましたね」
「だろ」
たみさんは居間の中央あたりで立ち往生している。
よくもそこまで行けたものだ。
と思ったら、足の置き場を見つけて、どうにかソファーらしきものに腰を下ろすことに成功する。
「ああ、毎回これだ。たまったもんじゃない」
「ですよね」
私は笑い声を立てずに笑ってうなずく。
「じゃ、さっそく始めます。たみさんは休んでてください」
「悪いね、ぜろちゃん。いっつもいっつも」
「全然ですよ。お安いご用です」
「助かるわ。ほんとに。旦那がくたばってから、どうしてもね。ガキどもだって、顔も見せにこねえんだから」
「お子さん、おいくつなんでしたっけ」
私は雑談に応じながら片づけに取りかかる。
初めてたみさんに家の掃除を手伝ってほしいと相談されたのは、いつのことだったか。
よく覚えていないが、それから二、三ヶ月に一度、ときには一ヶ月おきにたみさんからラインがくる。
もちろん、私は善意、無償で手伝っているわけじゃない。
これはれっきとした仕事だ。
一回一万二千円。
半日がかりになるから、時給にしたらそこまで高くはないかもしれないが、私にとっては小さな金額じゃない。
「ぜろちゃんさ」
「はい」
「一万二千円でいいのかい」
「え、なんでですか?」
「あたしだって、もうちょっと出せるんだよ」
これをたみさんは毎度言う。
「いやいや」
私は必ず断ることにしている。
「いいですよ。そんなそんな。大丈夫ですから」
本音を言うと、もっと欲しいに決まっている。
たみさんが出してもいいと言うのなら、もらえばいいじゃないか。
なんで断っちゃうんだろうな。
あれかな。
微妙に怖い。
もともとは初回、礼をしたい、とたみさんに言われて、私は、礼なんてそんな、と返したが、当然ありがたくちょうだいするつもりだった。
結局、たみさんはそのとき財布に入っていた全額、一万四千円を私に渡そうとした。
私としては気が引けて、さすがに有り金ぜんぶはもらえなかった。
押し問答の末、一万二千円を受けとったら、次も、その次も、同額をいただいた。
なんとなくそれが正規料金みたいな形になっている。
これがもし、一回一万五千円とかになったら、たみさんが、冷静に考えたら高えな、と思ったりして、もう頼まんどこ、というふうになるかもしれない。
あるいは、これまで一万二千円分の仕事で納得してもらえていたのに、プラス三千円分の働きを期待されるようになったりとか。
私はたみさんの家の片づけ、掃除を、仕事としてやってはいる。
しかし、私は専門の業者でも何でもない。
自分の家の片づけ、掃除と同じレベルのことしかやっていないし、それ以上は無理だ。
なんなら、自分の家もそんなにきれいにしているほうじゃない。
ねこがいるし、これからもっと汚くなるだろう。
「そういえば、おれ、仔猫を拾ったんですよ」
「へえ。猫なんてどうすんのさ」
「どうするんですかね」
「猫はしょんべん臭えし、あたし、嫌いだよ。いくらかわいくたってさ」
「まあ拾っちゃったんで」
「飼うのかい」
「とりあえずは、まあ」
「犬ならいいけどねえ」
「散歩しなきゃですよ。犬は」
「運動不足解消になるよ。ぜろちゃんも体動かさないとだめだ。あたしの旦那みたいにくたばっちまうよ」
こうやって今、あなたのために動かしているじゃないですか。
とは、私は言わない。
べつに、たみさんのため、というわけじゃないし。
これでお金をもらう。
仕事だ。
私のためだ。
あと、ねこのため、ということにもなるのか。
私がこのままねこを飼いつづけるとしたら、そうなる。
「怖っ……」
と、私は呟いてしまう。
「なんか言ったかい?」
すかさずたみさんに訊かれて、私はごまかす。
「いえ、何も」
私はねこを飼うのか。
まだ覚悟が定まらない。
ずるずるいくのだけは避けたいが、他の飼い手を見つけるのも骨だ。
今さら捨てるわけにもいかない。
保健所に連絡して連れていってもらうのも気が引ける。
どうしよう。




