第1話 ねこ拾う
夜の散歩は習慣でも何でもない。
散歩自体めったにしないが、するとしたらむしろ日中だ。
まあ夕方くらいとか。
酒を買いにコンビニに行くといった目的もなく、夜に家の近くを歩くことはまずない。
その日に限って、なぜ私は散歩しようなんて考えたのか。
なんとなくだ。
気が向いた、としか言いようがない。
気が向きさえすれば、私は何だってする。
めんどくさくなければ。
役場沿いの道を歩いていたら、文房具店の手前できゃあきゃあという甲高くもかぼそい鳴き声が聞こえてくる。
立ち止まって、猫だ、と私は思う。
「仔猫?」
というか、そう口に出した。
文房具店の手前には、かつて古い建物があった。
民家ではなかったように思うが、何の建物だったかは忘れた。
いつだったか取り壊されて、今は雑草が生い茂っている。
鳴き声は明らかにその空き地から聞こえてくる。
草むらに分け入ろうか、それとも、やめておこうか。
迷っているうちに鳴き声が近づいてきて、間もなく小さな生き物が姿を現す。
といっても、近くに街灯がないし、四本足で尻尾があることくらいしか見てとれない。
よたよたしている。
なんとも頼りない足どりだ。
小さい。
私はとっさにしゃがんでそれを捕獲する。
両手でたやすく包みこんでしまえる。
毛は綿毛のようにやわらかい。
骨張っている。
とても細い骨で、むやみに力をこめたらぽきぱきと折れてしまいそうだ。
「まいったな」
私は仔猫をつかまえたまま、そのへんをうろつく。
これほど小さな猫がひとりで生きていられるわけがないから、母猫がいるはずだ。
何かの具合ではぐれてしまったのだろう。
この仔猫は母猫を必死で捜していたに違いない。
きっと近くにいる。
子育てをしている母猫の行動範囲はたぶんそう広くない。
遠くには行っていないだろう。
と、思う。
たぶん。
知らんけど。
私はかれこれ三十分近く母猫を捜索していたことになる。
その間、仔猫は鳴きつづけていた。
「限界だろ。もう」
私だけなら、あと一時間でも二時間でも母猫を捜しつづけられる。
しかし、仔猫が一緒では厳しい。
やむをえず私は仔猫を家に連れ帰ることにする。
幸い家はすぐそこだ。
歩いて五分もかからない。
私は散歩を始めてすぐ仔猫に出くわしてしまった。
とはいえ、三十分ほど母猫捜しでおたおたうろうろしていたから、それも散歩のうちと考えれられなくもない。
「運動にはなっただろ」
私は二階建ての古い一軒家に住んでいる。
何を隠そう、いや、べつに隠してはいないが、私はこの家で生まれ育った。
我が家の玄関の引き戸は、ぐっと持ち上げてから引かないと開かないことがある。
私にとっては慣れたものだが、仔猫を抱いていると一苦労だ。
電気をつけると、仔猫の被毛が灰色ベースの黒い縞模様で、いわゆるサバトラだということがわかる。
「このへんの野良猫で、いたっけな。おまえみたいなの。見覚えがないんだけど」
靴を脱ぎ、浴室前の狭くて急な曲がった階段を上がる。
この階段は尋常じゃなく軋む。
私でもちょっと怖い。
階段を上がった先が便所で、折り返してのびる廊下の床がまた頼りない。
床板の一部はたわんでいる。
直せよ、といつも思う。
「おれか。直すとしたら。だよな」
廊下の突き当たりに洗面台がある。
つまり、おおよそ階段の上に。
そこで廊下は九十度右に折れて、左手に台所の引き戸、右手に部屋のドアがある。
その先の左手に部屋のドア、そして突き当たりのドアを開ければ居間だ。
たまに、ただいま、と言ってみることがある。
返事は当然ない。
私は一人暮らしだ。
返事があったら腰が抜ける。
居間は仏間、寝室と続きになっているが、引き戸で仕切ることができる。
私は仔猫を抱いたまま、仏間、寝室の引き戸を閉める。
床に放してやると、仔猫はよたよたぴょこぴょこ歩いてローテーブルの下に入ってゆく。
ローテーブルというか、布団を外した状態のこたつだ。
仔猫はそこでも安心できなかったようで、まずソファーと壁の間に入り込む。
そこから体の小ささを生かして、ソファーの裏側にまで潜り込んでしまう。
「まいったな」
私はため息をついてソファーに腰を下ろす。
親が買ったもので革張りだが、かなり傷んでいるから、布製のカバーを掛けている。
普段なら見るでもなくテレビをつけるところだ。
けれども、このソファーの裏で怯えきっているだろう仔猫を思うと、そんな気にはなれない。
私は以前、猫を飼っていたことがある。
猫の世話について無知ではないが、自信を持てるほど熟知してはいない。
こんなときに頼りになるものがある。
そう。
スマホだ。
「最後に飼ったのはもらい猫で、その前はペットショップで買ったんだったか。千円だったな、たしか。どいつも最初は仔猫だったけど、今回ほど小さかったっけ」
本当に飼い育てるとなると、いろいろ買い求めないといけない。
さしあたって、餌くらいは必要だろう。
「歯が生えてたら仔猫用ウェットフード? ふやかしたドライフードでもいいのか。生えてなかったらミルクを飲ませなきゃいけない。歯か」
スマホが教えてくれたところによると、口の中に指を突っこんで確認するのがいいようだ。
ところが、当の本人、というか、本猫はソファーの裏にいる。
「引っぱり出すのか。めんどくさいな。二度手間になりそうだし」
私は買い物に出かけることにする。
近くのドラッグストアがまだ営業時間内なので、行ってみると猫の食べ物は一通り揃っている。
ちょっとよくわからないが、ペット用シートというものもあわせて買ってみる。
ついでに、私はドラッグストアの隣にあるコンビニに寄る。
レジにいる店員が春巻さんであることをそれとなく確認し、店内をざっと見て回る。
入っておいて何も買わないというわけにもいかない。
買わないと、レジにいる春巻さんに近づくことができない。
とくに欲しいものはないので、私は缶ビールを一本、冷蔵庫からとる。
「これだけじゃな」
呟いてしまった。
決して大声を出しているわけじゃない。
かなり小さな声だ。
私はいいつまみになりそうな豆スナックを手にする。
豆スナック一袋と缶ビール一本。
「まあ、いいだろ」
また呟いてしまい、私は顔をしかめる。
たまたま近くに誰もいなかったからよかったようなものの、もし人がいたら変なやつだと思われてしまいかねない。
「最寄りのコンビニだぞ。来づらく……」
私は舌打ちをする。
言ったそばから呟いているじゃないか。
思ったそばから、か。
何なん、と叫びたい。
叫ばないが。
こういうところだぞ、と思う。
思っただけで、今度は呟かない。
偉いぞ。
よくやった。
「偉いか?」
偉くない。
またもや呟いてしまった。
ため息が出る。
きっと一人暮らしが長くなりすぎたのだ。
そして、当面は脱却できそうにない。
もしかしたら、永遠に。
永遠なんてない。
最後まで、か。
「孤独死だな」
もう舌打ちもため息も出てこない。
いいんだ。
孤独死、上等だよ。
せめてなるべく人に迷惑をかけないように孤独死してやるさ。
いや?
迷惑をかけるとしたら赤の他人だろうし、気にしなくていいんじゃない?
そのとき私は死んでいるわけだし。
だよな。
自分が死んだあとのことなんて、どうでもいいか。
リラックス、リラックス。
気楽に死のう。
さすがにまだ死なないと思うが。
私は豆スナックと缶ビールを手にレジへと向かう。
「こんばんは」
マスクをした春巻さんが目を笑わせてくれる。
「この時間、久しぶりですね」
「あ」
私もかろうじて笑みを浮かべる。
「はい、そう……ですね」
春巻さんのシフトは基本的に昼間だ。
けれども例外的に、今日、この曜日だけは夜も出ている。
会計が終わり、私はエコバッグに豆スナックと缶ビールをしまう。
「ありがとうございました」
春巻さんがまた目を笑わせて軽く頭を下げる。
私も頭を下げる。
「どうもありがとうございます」
振り返りたい衝動をこらえて、そのままコンビニをあとにする。
今日もいい声、いい笑顔だったな、春巻さん。
私は春巻さんがマスクを外した顔を見たことがない。
このコンビニで、制服を着た姿と、それから帰り際の私服姿を目にしたこともあるが、マスクはつけたままだった。
年齢も知らない。
なんとなく三十代か、四十歳くらいなのかもな、と思っている。
名札をつけていなかったら、名字すら不明だっただろう。
髪をきれい色に染めている。
笑うとき、やさしそうに目を細める。
とにかく声がすばらしい。
もちろん、恋なんてしていない。
春巻さんに恋しているとは考えたくない。
考えないほうがいいような気がする。
「中学生とか高校生じゃないんだ」
自慢じゃないが、私は独身中年男性だ。
本当に自慢できない。
でも、独身だ。
既婚者じゃないわけだから、恋したってかわまないじゃないか?
そんな理屈が通るものか、バーカ。
ただの独身じゃないんだぞ。
独身中年男性だ。
しかも、結婚歴もない。
真性の独身中年男性とも言える。
「彼女がいたのは、十……いや……二十……」
やめよう。
振り返ってどうなる?
むなしい。
あまりにも。
途方もなく。
胸が痛い。
その痛みも帰宅するころには治まっている。
年々立ち直りが早くなっているような。
少なくとも、若いころは一度凹んだらもっと引きずっていた。
年の功というやつだろうか。
鈍感になってきただけか。
つまり、劣化であり、老化か。
「老眼もね。本格的にきてるしね」
私は目が悪い。
小学校一年生のときから眼鏡をかけている。
年季が入ったなかなかの悪さだ。
度がきつい眼鏡をかけているのに手許が見えないので、眼鏡をずらす。
そうすると、十センチ以内まで近づけなけなければ物体の輪郭すらろくに掴めない。
不便だ。
「みんな通る道だ」
自分を慰めながら我が家の居間に辿りつく。
仔猫の姿はない。
私が不在の間にソファーの裏から出てきて、この空間に慣れてくれていたりして。
ちょっぴり期待していたのだが、そのとおりにはならない。
「そんなもんだよな」
この程度で落ちこんだりしない。
人生はうまくいかないものだ。
何もかもうまくいっていたら、私はこうなっていない。
どうなっていたのか。
想像もつかない。
「とりあえず、引っぱり出すか。めんどくさいけど、しょうがない……」




