第44話
本当に来たよ。多分苦労性の官僚だな……とか考えていると、宿舎の扉を叩く音が響いた。
ジャックが耳打ちする。「帝国からの使者です」
迎え入れると、そこに立っていたのは穏やかな笑みを浮かべた外務事務次官トルベ殿だった。護衛の兵も連れていない。恐らく疲れていると思うが、表面上そうは見えない。
「夜分に失礼を致す」
「ほう、単身でとは。命知らずだな」
私が肩をすくめると、トルベ殿はわずかに苦笑した。
「承知の上です。本題に入らせていただきましょう……ツァーリ殿に話を聞きたい。一時的に同行させていただけないか」
その言葉にセレナとフィオナが目を瞬き、ツァーリは瞑目している。そして私は即座に首を横に振った。
「捕虜解放の交渉すら始まっていない。立場も定まらぬ中でツァーリ殿を呼ぶのは、筋が通らんな」
沈黙が落ちる。トルベ殿の眉がぴくりと動いたが、すぐに沈痛な表情へと戻った。
「……そう仰ると思っておりました。しかし、帝国としても事情がございます」
「承知している。だが、順序を違えれば、交渉は成り立たぬ」
短いやり取りのあと、再び沈黙が落ちた。やがてトルベ殿は深く息を吐き、椅子から立ち上がる。
「……ご無礼をお許し願いたい。では、これで」
「トルベ殿、まぁお待ちを。軽食でも如何かな?焼き菓子くらいしかありませんが」
「ヴォルフ殿、煎餅があったな?俺はアレが食いたい。トルベ殿、貴殿も忙しいだろうが、少しくらい構わんだろう?」
「……それはありがたい。では頂くとしましょう」
多少躊躇いながらも了承してくれた。少しでも情報を持ち帰ろうと考えての事だろうが、度胸のある方だ。自信家でもあるのかな?
セレナにお茶とお煎餅の用意を頼んだ。そういえば帝国の連中はセレナが婚約者だと言う事を把握してるのだろうか?レアンドラの王配問題もあって公表出来ていないが、帝国の諜報能力を高く見積もるとセレナは私の弱みになる。結局連れてきてしまったが、落ち着かないな……。
「これは……香ばしい香りですな」
「うむ、なかなか美味いぞ?」
ぼんやり考えている内に用意が整っていたようだ。ツァーリはもうバリボリ食ってる。
さて、トルベ殿は情報を欲しがっているだろう。チマチマ出していこう。
「どうぞお召し上がりください。米という穀物を練って焼いた物と、揚げた物です」
「ほう、米ですか。珍しいですな」
「こうして焼いたり揚げても構いませんし、現地で煮炊きするなら製粉も要りませんからな。重宝してますよ」
「それはそれは……兵站部門の人間は喜びそうですな」
「俺も勾留中に食ったが、美味かったな」
そーなんだー。捕虜も食べていたんだねー。
「なるほど、糧食として活用されているのですな」
「しまった、余計な事を申したかな?ツァーリ殿も、あまり我々の内情を漏らしてくれるな」
「ははは、これは失礼。降った連中共々食べる機会が多かったのでついな」
いやぁ、お米はいっぱいあるんだねぇ。
「左様ですか。同胞が丁重に扱われている事に例を申す」
「うむ、不自由はさせておらぬから安心してくれ」
あーいかんいかん、うっかり捕虜の待遇を漏らしてしまった……うん、流石プロの外交屋だ。動じた様子は見せない。内心では得た情報をどう帝国に報告するか、目まぐるしく巡っているだろう。
「ところで」
私が茶を口に運びながら、さらりと言う。
「外交権をお持ちの方は、いらしているのか?」
カップを置く音がやけに大きく響いた。
トルベ殿は一瞬固まったが、すぐに笑みを取り戻す。
「……もちろん。必要な権限は委任されております」
「それは結構。では手土産代わりに一つ伝えておこう」
セレナとツァーリの目が一瞬鋭くなり、フィオナが息を呑む。
私は何気なく、笑みを保ったまま言い放った。
「捕虜は五万だ」
部屋の空気が止まった。
煎餅を齧っていたツァーリが盛大にむせ、セレナが慌てて水を差し出す。
フィオナは完全に石像のように固まっていた。
ただ一人――トルベ殿だけが、表情を変えなかった。
変えられなかった、と言うべきか。
「……心得ました」
「煎餅を包んでおいた。これもどうぞ」
笑顔のまま深く一礼し、トルベ殿は宿舎を後にした。
その背中に、私は心の中でそっと呟いた。
――さあ、帝国の夜は長くなるぞ。
「しかしヴォルフよ。捕虜の人数をあっさり明かして良かったのか?」
ツァーリが幾分神妙な様子で問いかけてくる。
「効果的だろう?外交権は委任されていると明言した彼らは、五万人の捕虜を自力で返還させねばならなくなった」
「……あまり追い込むと何が起きるか分からんぞ?」
「貴殿の様子を見るに、交渉相手としては信用出来るのだろう?」
「……そういうものか」
「そうとも。頼りにしているぞ」
「ははは、ならば役に立たねばな。交渉の場で王国の集落が破壊されていたり、井戸に毒が入れられていた件も俺の仕業として帝国の失態を増やそうか」
セレナがなんとも言えない表情をしている。私もそうかもしれない。あの焦土作戦は私の指示だからな……。
「いや、それはやめておこう。貴殿や帝国の評判を貶める事もあるまい」
『えっ』
「生まれ育った国を悪し様に言うのは辛いだろう」
ツァーリとジャックは驚いた様子で口を開き、呻いている。
そしてセレナとフィオナは微妙にニヤついている。隠しきれてないぞ。
「まぁそう言う噂は拡がっているからな、帝国連中の態度によっては賊の仕業だったと思い出すかもしれん。貴殿は嫌そうな顔で見ていてくれれば良い」
「ヴォルフ、あなたね……」
「うわぁ……」
セレナとフィオナは呆れた様子だ。胡散臭いものを見る目だな。そしてツァーリは大爆笑している。
やがて笑いが収まると、真顔でツァーリが問いかけてきた。
「ヴォルフ、聞いておきたい事がある」




