96 名前を呼んで
今度はジュリアンがアルセイン伯爵家を訪れる。彼を出迎えたリディアは、応接間に案内した。
一応貴族として体裁を保つための調度品はあるものの、やっぱり公爵家とは比べ物にならない部屋が、少し恥ずかしかった。
「お父様、お兄様、小公爵様との結婚を許してください」
その中で、リディアは家族と向き合った。
「リディア」
父が口を開く。
「彼の隣にいて、お前は幸せかい?」
その声は優しかった。
「お前が本当に望むのなら、反対はしないよ」
リディアはその言葉を受けて、静かに頷く。
「もちろんです」
リディアの表の姿も、裏の姿さえも受け入れてくれた。正当な対価がある今、彼の気持ちを受け取らない理由はなかった。
「小公爵様」
続いて父は、ジュリアンを見る。
「娘は、丈夫な子ではありません」
何度も倒れては熱を出す娘の姿は、たった数年では忘れられないはず。
「ですが、芯を持った強い子です」
それは意外な言葉だった。父に「強い」姿は見せていないのに。
「ふつつかな娘ですが、どうかよろしくお願いします」
深々と頭を下げる父に、彼が微笑む。
「頭を上げてください、 伯爵」
そう言って、2人は握手を交わした。
そんな父とジュリアンの姿を見て、リディアは父の隣に目を向ける。怖い顔をして、一言も声を出さない兄の姿。認めていないということは、聞かなくてもわかった。
「お兄様」
そんな兄に、リディアは呼びかける。
「わたしは、幸せです」
兄は睨むようにジュリアンを見る。
「シリル、そんな顔は」
窘めようとする父を、ジュリアンが遮った。
「小伯爵、心配させてしまってすみません」
彼が謝ることではないのに。
「彼女をこの国で1番幸せな女性にします。どうか許していただけませんか?」
穏やかで、しかし芯があるジュリアンの言葉に、兄がゆっくり口を開く。
「……妹を泣かせたら、許しません」
許さない、なんて。上位の人間に言うべきではないのに。
「もちろんです」
ジュリアンはその言葉に腹を立てる様子もなく、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます、お兄様」
だから、リディアも穏やかに兄に微笑んだ。
*
彼は屋敷の中を案内してほしいと言った。その言葉に答えて、リディアは母の部屋に彼を通した。
そこに飾ってあった肖像画を見て、彼が言った。
「リディア嬢によく似ています」
「……そうでしょうか」
何度も見ているその肖像画を、リディアは見つめる。
「お母様とは似ても似つかない気がします」
愛のために勉学に励み、本にしか興味がない男を引き寄せた強かな母。
対してリディアは、汚い手しか使えなかった。家族を守るためとはいえ、許されることではない。
「私が知る伯爵夫人は、教養があって優しい人でした」
「そう思います。お母様は、わたしにも本をたくさん読んでくださいましたから」
ジュリアンは家庭教師だった母の姿を知っている。文学の好みが似ているのはそのせいだろう。
「本は好きです。お父様もお母様もそうでしたから。……でも、わたしは……」
どんな冒険譚よりも、どんな恋愛小説よりも、リディアが興奮したのは、マフィアを前にした時だった。力では到底敵わないような男を、言葉で圧倒させて金貨をもぎ取った、あの瞬間だった。
「母に聞きました」
その時、ジュリアンが言った。
「伯爵夫人は、伯爵と結婚するためには手段を選ばなかったと」
そういえば、公爵夫人が言っていた気がする。
「リディア嬢によく似ています」
ジュリアンと結婚するためにした行動は、そんなにない気がする。少なくとも母のように動いた記憶はない。
「目的のためなら、手段を選ばず行動する。伯爵夫人もそうだったのでしょう」
「……そうかも、しれませんね」
母の努力の末の結果と、リディアの努力の末の結果は、きっと違う。でも、同じ努力をしていたのかもしれない。
「小公爵様」
リディアは彼に向き直った。
「お願いがあります」
「なんですか?」
彼は優しく尋ねた。
「ブラックリリーを続けさせてください」
その言葉を吐き出すのに、勇気が必要だった。
「リリーは、わたしの救いでした」
視線が落ちる。彼の顔を見るのが怖かった。
「ベッドから起き上がることもできなかったわたしが、リリーとしてなら街を歩けたんです」
体力がなく、毎日のように熱を出してベッドで寝ていたリディアと、当たり前のように下町を歩くリリー。リリーという名前が、リディアに体力と気力を与えてくれるようだった。
「だから、リリーをやめたくない」
ぎゅっと瞼を閉じた。リリーを続けるのなら、汚いことから足を洗うことはできない。公爵夫人という公の立場と並行できるのかもわからない。
それでも、リリーという名前を捨てられなかった。
「リディア嬢」
その時、彼の手が、リディアの頬に触れた。
「お願いがあります」
「……なん、ですか?」
彼はリディアのお願いに答えなかった。
「リディア、と、呼んでもいいですか?」
「はい……?」
「貴女の名前を呼びたいんです」
意味がわからなかった。聞こえなかった、というわけはないはずなのに。
「どうぞ」
「では、リディアも、ジュリアンと呼んでください」
「小公爵様のお名前を呼び捨てするなど」
「貴女は公爵夫人になるんですよ」
確かに。公爵夫人になるなら、彼のことをいつまでも「小公爵様」と呼ぶのはおかしい。
「ジュリアン」
だから、リディアは彼の顔を見た。彼は笑っていた。
「これで交換条件です」
「え?」
「貴女が俺の願いを聞いてくれたので、俺も貴女の願いを聞きます」
リディアが望む「対価」だった。いつも忘れなかったそれを、この時だけは忘れていた。
「では、お許しいただけるのですか?」
「リディアが俺の名前を呼んでくれるのなら」
彼の笑顔が、優しい。
「呼びます。何度でも」
リディアはそう答えた。
「では、お願いします」
今、そう望んでいるかのように。
「ジュリアン」
その望みに応えて、リディアが呼びかける。
胸の奥をくすぐられるような、きゅっと縮こまるような、不思議な感覚。
「キスを、してもいいですか?」
唐突だった。
「なぜですか?」
驚いて身体を引くリディアに、ジュリアンはふっと笑う。
「したくなってしまって」
彼の目は、真っ直ぐだった。
「ど、どうぞ……?」
この言葉で合っているのか。そもそもキスとは、了承を得てするものなのか。
よくわからないながら、リディアは頷く。
そんな彼女の唇に、彼がそっと唇を当てる。ふに、と柔らかい感覚に、思わずリディアは目を閉じた。
彼の香りが遠ざかって、リディアはそっと目を開ける。
彼が笑っていた。眩しい笑顔で。その笑顔が、あまりにも幸せそうで。胸の奥が縮こまるような感覚は、きっと「愛」というのだろう。




