95 秘密
馬車を降りると、満面の笑みのジュリアンがいた。
「リディア嬢」
嬉しそうに差し出された手に自身の手を添えて、公爵家の廊下を歩く。
リディアも嬉しくないはずはないのに、ジュリアンがそれを上回って嬉しそうにするから、どんな表情をするのが正解かわからなくなってしまう。
「ありがとうございます」
彼の言葉に、リディアはハッと顔を上げた。
「俺のわがままを聞いてもらって」
初めてだった。彼の一人称が崩れた。それは、意図的だったのだろうか。
「わがままということは、ないのでは?」
リディアはそれを問うこともできず、ただ答える。
「貴族にとっての結婚は、家同士の結びつき。家族へのご挨拶は当然のことかと」
「そうですね」
たったその一言でも明るく跳ねるような彼の声のせいで、リディアの声がひどく落ち着いているように聞こえる。
案内されたのは、公爵家の応接間。綺麗な調度品が並ぶ、豪奢な部屋だった。
「公爵閣下、お初にお目にかかります。この度はお時間を取っていただき、感謝の言葉もございません」
まずは公爵に。これが初対面のため、言葉や姿勢にはいつも以上に気合いが入る。
「公爵夫人、ご無沙汰しております。しばらくご挨拶できずに、申し訳ございません」
「かまいませんよ。元気そうでよかったわ」
面識のある公爵夫人には少し砕けた言葉で。優しい声音で返されて、リディアは少しだけ表情が緩んだ。
「父上、彼女はアルセイン伯爵令嬢です」
リディアがソファに座ってすぐ、彼はさっそく口を開く。
「彼女との結婚をお許しください」
彼が焦っているのがわかった。父を納得させなければいけない、と思っているのだろう。
確かにリュセール公爵は顔が怖いし、この関係を良く思っていないことはわかる。しかし、実の息子である彼が怯えるほどなのか。
顔が怖い男たちならたくさん見てきた。ノワールローズのヴィクターも、表情を変えないことで威厳を出す人ではあるが、公爵とはまた違ったものだった。ヴィクターの刺すような視線や雰囲気と、公爵の重厚感ある威厳は、全く別物だった。
「なぜだ」
公爵が口を開いた。
「そんな地位も金もない家の女など、何の価値がある」
地位も金もない、か。確かにアルセイン伯爵家は、貴族とは名ばかりで没落寸前といってもいいところ。莫大な財産と国の中枢を担う権力を持つリュセール公爵家とは、全く釣り合わない。
「彼女の価値は、父上には伝わらなくてもかまいません」
彼ははっきりと言った。
「父上にご納得いただける成果は残したはずです。今後も精進していくと誓います。そのために、私のそばには彼女が必要なんです」
彼の功績は、貴族社会に留まらず広く賞賛されている。徒党を組んで悪さをしていた人々を捕らえ、彼らを操っていた貴族たちを摘発した。それだけでどんなにすごいことか。そう評価されている。
「貴族の結婚は情で決めていいものではない。特にお前は、このリュセール公爵家の跡取りなのだ。もっと家のことを考えろ」
もっともな言い分だ。リディアの父が優しいだけで、一般的な貴族の当主の意見としては正当なもの。
彼がどう返すのだろう。彼が持ってきて欲しいと言ったあの切り札はいつ使うのだろう。
「感情に流された結婚などろくなものにならないのは、お前もわかっているだろう」
恋愛結婚をした貴族の不幸話は、噂として後世まで語り継がれる。幸せになった話なんて、噂にもならなかった。
「感情だけでなければ、いいのですか?」
彼が笑った。
「父上は彼女のことを知らない。だから、感情だけだと断言できるのです」
彼の指示で、リディアは銀行の証明書を取り出す。
「これが、彼女が有する財産です」
その額は、貴族でもそう簡単に目にするものじゃない。
「これだけの財産を生み出せる女性です。彼女は全て持参金にしてもいいと言ってくれている。公爵家の嫁として、そして未来の公爵夫人としても、価値があると思います」
価値の証明か。リディアは少し考えた。それは、今までのリディアにとって日常だった。
「公爵様」
リディアが口を開く。
「わたしは小公爵様をお支えする心づもりでいます。公爵夫人が公爵様をお支えしたように、わたしも彼を支えられればと。これは、そのための資金にするつもりです」
公爵は黙り込んでしまった。家格は釣り合わない。しかしそれを跳ね除けるほどの財力がある。その価値を測っているのだろう。
「それでも父上が反対されるというなら、私は継承権を放棄します」
その言葉に驚いたのは、公爵と公爵夫人だけではない。リディアも驚いて彼を見る。
「ユーグもいますし、問題はないでしょう」
本気だろうか。それともハッタリだろうか。
彼には妹のエステルの下に弟がいるとはいえ、まだ幼いはずだ。これから教育すれば後継者にふさわしい人物にはなるだろうが、そのためには時間もお金もかかる。今まで彼にかけられた全てが無に帰すことを、公爵はきっと良しとしない。
「わかった」
そこまで聞いて、公爵がようやく頷いた。
「その女を与えておくことでお前が逃げないというならな」
「もちろんです。彼女を幸せにするためには、財力も権力も必要ですから」
彼の笑みは、明るかった。
*
「すみません。失礼なことを言って」
応接間を出た後、彼はなぜか謝った。
「お許しをいただくのに必要なことでしょう」
リディアはそう返す。
「ただ、心配です」
「何がですか?」
リディアの言葉に、彼は首を傾げた。
「わたしの持参金は、綺麗なものではありません。今後同じ額が手に入る保証もありませんから」
そんなリディアの口を、彼が人差し指でふさぐ。
「それは私たちの秘密にしましょう」
「……秘密、ですか」
「はい」
結婚してしまえば、あとはどうにでもなる。そう笑う彼に、リディアは呆れることもできなかった。




