90 いってらっしゃい
海の底に沈んでいるかのように静かだった。ゆらり揺れる心地の中、リディアはゆったり身を任せる。
ゆりかごのような揺れと、優しい温もりに包まれていた。
「リディア」
優しい声がした。ゆっくり瞼をあげると、母がいた。
「おかあ、さま……?」
なぜここにいるのだろう。不思議だった。母はもう亡くなっているはずなのに。
「変な顔して、どうしたの?」
どうした、と言われて、説明できないことに気づいた。
「……夢を、見ました」
だから、そう伝えた。
「お母様が亡くなって、お父様とお兄様も殺されて……。すごく、嫌な夢でした」
母は答えなかった。ただ優しく微笑むだけ。
「お父様は? お兄様はどこですか?」
不安になって、聞いた。
「リディア」
その声に、ハッと振り返る。そこには、いつもと変わらない2人の姿。
「心配したよ」
父が言った。
「無茶はしないでくれ」
兄も言った。
「ごめんなさい」
自然と謝った。なんの事を言われているのか、わからなかった。
「夢だったんです」
リディアは微笑む。
「全部、夢だったんですよ」
嫌なことなんて何もない。何よりも大切な人たちがここにいる。ここから離れる必要なんてない。
「お母様、また本を読んでください」
そう言って振り返る。先ほどまで母がいたその場所は、空白だった。
「お母様?」
なぜいないのだろう。いつの間にかどこかに行ってしまったのだろうか。
「お父様、お母様はどちらに?」
父の方を見ると、その影が消えていた。
「あら……」
兄もいない。いつの間にかみんないなくなってしまった。
ベッドからおりようとして、そこに揃えられた靴が小さいことに気づいた。幼い頃に愛用していたものだった。
なぜ。不思議に思いながら、でもそれよりも家族を探したくて、靴を履いて部屋を飛び出す。
「お父様、お母様」
ひとつひとつ部屋を覗きながら、家族の姿を探す。
「お兄様、かくれんぼはもう終わりましょう。早く出てきてください」
小さい頃、家から出られないからと一緒に遊んでくれた兄。隠れるのが上手くて、いつも探すのが大変だった。リディアが隠れると、兄は一瞬で見つけ出してしまうのに。
行きついたのは、母の部屋だった。
「お母様」
テラスに続く窓が開いていた。風を受けて膨らむカーテンに誘われるように、リディアはテラスに出る。
風に乗って香ってきたのは、花の香りだった。そういえば、この匂いは母が好きだったな、などと思い出す。
「……怒ってるんですか?」
声がこぼれ落ちた。
「バカなことをした、って」
善良な家族に責められても仕方の無いことをした。その自覚はあった。
「守りたかったんです」
誰も聞いていない。それなのに、誰かに訴えるように。許しを乞うように、吐き出した。
「お父様とお兄様を、あんな形で失いたくなかった」
その声は、眼下の庭園に落ちていく。
「……違いますね」
そう笑みがこぼれた。
「楽しかった」
そして、笑った。
「なんの力もないわたしが、屈強な男性と対等な立場に立てることが、嬉しかったんです」
両手を持ち上げると、そこに感じるのは、武器を売った時に得たあの金貨の重み。
「頑張ったんですよ」
その両手に、リディアは訴える。
「一生かかっても稼げないような金額が、一気に入ってくるんです」
顔をあげると、綺麗な花園が広がっていた。
「楽しかった」
その花たちに、リディアは微笑みかけた。
「悔いは、ありません」
「本当に?」
それは、母の声だった。振り返ると、部屋の中に母が立っていた。
「本当に、悔いはない?」
「何を仰りたいんですか?」
母の影に向けた笑顔は、自嘲気味だった。
「娘のことは、なんでもわかるのよ」
母が言った。
「なんでもって……」
ぽつり、こぼれる。
「わかってるなら、わたしの望み通りにしてください」
それはわがままだった。
「お母様のそばにいたいって、わたしの願いは、わかってるんでしょう?」
穏やかに微笑むだけの母に、リディアは近づくこともできない。
「もういいでしょう?」
テラスから訴える。
「疲れたんです」
その言葉は、絨毯に吸われた。
「誰の許可をもらいたいの?」
母が言った。
「誰に許して欲しいの?」
その言葉の意味がわからなかった。
「リディア嬢!」
その瞬間、声がした。振り返った先は、庭園だった。
「いってらっしゃい」
母の声が耳元で聞こえた。すぐそばに母がいるのだとわかった瞬間、背中を勢いよく押された。
宙に舞う中、リディアは部屋を見る。
そこには、生前と変わらず穏やかに微笑む母の姿があった。
*
目を開けた。そこは、ベッドの上だった。
「……おかあ、さま」
そこに母の姿はなかった。
「リディア?」
兄の顔が見えた。寝起きのような兄の顔に、リディアは手を伸ばす。
「リディア!」
その声に、喜びが混ざった。
「よかった……っ」
「……お兄様」
涙を流して喜ぶ兄を不思議そうに見ながら、リディアは言った。
「お母様に、突き落とされました」
「は?」
リディアの言葉に、兄が呆気にとられる。それはそうか。
「薬師を呼んでくる。寝てなさい」
「はい」
そう言って兄は部屋を出ていく。ひとり残されたリディアは、呆然と天井を見つめた。
まだどこか夢見心地。でも、母がいないのだということは、わかった。
「……生きてる、みたい」
死んでいない。毒を飲んだのに。
呟いた声は、驚きや不思議というよりも、中身のない宙に浮いたような声だった。




