89 届かなかった手
ついに彼女の隣に立つ権利を得た。それは、彼に強い幸福を与えた。
彼女が売ってくれた情報を元に大勢の犯罪者を逮捕できたことを、父は褒めてくれた。正式に求婚することを認めてもらったわけではないが、もういいだろうと思った。
彼女の瞳の色であるエメラルドを身につけ、堂々と彼女をエスコートできる。それが、彼にとってどんなに嬉しいことか。
両親には相談せず、独断で彼女にエスコートを申し出た。皇后主催の舞踏会という、貴族にとってとても大事な場でのエスコート。
ラピスラズリを身につけた彼女の隣に立てるのが、とてつもなく嬉しかった。
*
「妹に近づかないでいただけませんか」
彼女が離れた時、ジュリアンは彼女の兄に声をかけられた。
「無礼を承知で申し上げます。あの子は、あなたの隣に立てるほど強くありません」
強くない、か。この人は知らないのだ。マフィア相手に武器や薬を売っていた彼女の姿を。
「あなたの目が届かないところで、妹がどれだけ傷つくか」
「傷つけません」
ジュリアンは答えた。
「目を離さなければいいのでしょう」
彼女も気づいていない、ジュリアンの中の熱い思いを、彼女の兄は気づいていた。
「縛り付ける気ですか?」
彼は聞いてきた。
「自由を好む子ですよ。最近は散歩が趣味で。よく出歩いています」
「知ってます」
それが、ただの散歩ではないことも。
「あなたにはもっとふさわしい令嬢がいるでしょう。なぜ妹なんですか」
「彼女しかいないからです」
どんな令嬢も、彼女には敵わない。隣にいてほしいと思うのは、彼女だけなのだ。
「妹は、あなたの気持ちを知っているのですか?」
それは痛い質問だった。
「……いずれ、伝えます」
ジュリアンは答えた。
「妹が望まないものを、私も父も許せませんよ」
「もちろんです」
彼女と家族を説得するところからだ。
風にあたりにいった彼女を探して、庭園に出る。そこには、彼女ともうひとり、令嬢がいた。
「リディア嬢」
彼は歩み寄り、会場から見えないように彼女の手元を隠す。彼女が武器を持っていたから。
「助けてください! リディア様が」
「しまってください」
彼女の顔しか見えていなかった。彼女の声しか聞こえなかった。怒りと悲しみが混ざった彼女の顔を、見過ごせなかった。
「貴女が手を汚す必要はありません」
ジュリアンが手を添えたことで、彼女は静かにファントムシェルを下ろす。
「失礼いたしました」
静かな声が、わずかに掠れていた。その痛みが伝わってくるようだった。
「行きましょう」
こんな場所に置いておけない。彼女の手を引き、その場を後にする。
「ジュリアン様!」
彼女を傷つけたかもしれない女の声なんて、聞こえていなかった。
「大丈夫ですか?」
会場に戻る直前、ジュリアンは尋ねた。
「何がですか?」
彼女は視線を合わせることもなく返した。
好意を感じられないのは、変わらない。彼女にとって、ジュリアンはただのビジネスパートナーでしかないのだろう。
それを利用して恋人のように振る舞っているのに、彼女は文句ひとつ言わない。それは、自分が「小公爵」だからだろうか。
どうやったら彼女を振り向かせられるのだろう。彼女の綺麗なエメラルドに、自分の姿が映るのだろう。
「リュセール小公爵様、先日のご活躍、聞きましたよ」
会場に入ると、綺麗に着飾った男たちがワイングラスを片手に話しかけてくる。彼女が隣にいるのに。彼女との2人きりの時間なのに。
「とんでもない。運が良かっただけですよ」
ジュリアンはそんなことを答えながら、そばを通ったサーヴァントからワイングラスを受け取る。
「ジュリアン様」
その時、彼女の声がした。いつもより優しくて、どこか甘くて。名前で呼ばれたのは初めてで、嬉しくて、でも驚いた。
「わたしも、同じワインがほしいですわ」
その綺麗な笑顔に、心の奥がざわつく。
「あぁ、じゃあ同じものを」
「いいえ」
サーヴァントを呼ぼうと挙げかけた手を、彼女が止めた。
「それが、いいわ」
妖艶で、でもどこか儚げで。まるで、この場から溶けていなくなってしまうかのように。
半ば奪い取るようにワイングラスを受け取った彼女は、視線を揺らす。その目に映ったのは、誰だったのか。
「……ふふ」
小さな笑い声が聞こえた。胸騒ぎがして、彼女の手を止めようとした。
しかし、その手も届かず、彼女はグラスをあおった。
彼女の体が崩れ落ちる。慌てて支えようとした手は、空を切った。
「リディア嬢!」
慌てて抱き起こした彼女の体は、燃えるように熱かった。
「リディア!」
会場の片隅にいた彼女の家族が駆け寄ってくる。彼らに奪われて揺らされた拍子に、彼女の鼻から赤い筋が垂れる。
「リディア! リディア!」
なぜ。なぜ彼女が倒れるのだろう。なぜ血を流しているのだろう。
頭が働かない。揺れ動く視線の先に、こぼれ落ちたワインが映った。
毒か。彼女は毒を飲んだのか。なぜ。誰が。何のために。
『それが、いいわ』
ジュリアンの手にあったワイングラス。彼女はなぜかそれをほしがった。同じワインならいくらでもあるのに。
彼女は、このグラスに毒が入っているのを知って、飲んだ。そうとしか考えられない状況だった。
*
『今後怪しい薬が見つかったら、メアリウス子爵家を捜索してほしい』
それは彼女から伝えられた言葉だった。だから、即座に騎士団に命令した。間もなく見つかった薬は、見たことのないものだった。
メアリウス子爵は「ブラックリリーから買った」としか言わず、解毒薬も持っていないという。
彼女が助かる術は、なかった。
*
「……俺が飲めばよかった」
「バカなこと言わないでください」
ジュリアンの口からこぼれた言葉を、エドガーが叱責する。
「貴方に何かあれば、大変なことになっていましたよ」
「彼女だってそうだ」
自分の命だけが重いわけでも、彼女の命が軽いわけでもない。それがわかってあるのに、エドガーの言葉に苛立ってしまった。
「会いに行かないのですか?」
「断られるんだ」
お見舞いに行きたくても、彼女の家族が許してくれない。恋人でも友人でもない。誰にも言えないビジネスパートナーは、命を瀬戸際を彷徨う人を見舞うことすら許されないらしい。
「俺が飲んでも、倒れなかった」
「そうでしょうね」
ジュリアンは毒に耐性をつけている。あれがどんな毒でも、倒れることはなかったはずだ。彼女に庇ってもらう必要なんて、なかったのに。
「解毒薬はまだできないのか?」
「急がせていますが、特殊な成分が入っているそうで」
命を奪うものではないと、彼女は言っていた。それなのに、彼女はずっと眠り続けている。
いったいどんな薬なのか。彼女の仲間が開発したものなのだろう。その仲間がわかれば、解毒薬はもらえるのだろうか。何も手につかないほど、彼女のことしか考えられなかった。




