88 微笑みの戦場
豪華なシャンデリアが輝く会場で、リディアは彼の手を取った。嬉しそうなその腕に軽く手を添え、大仰な扉を潜る。
その瞬間、会場がざわっとどよめいた。
「リュセール小公爵様が……!」
彼を狙っていた令嬢の悲痛に満ちた声に、
「ついにパートナーを決められたのか……」
彼の動向を注視していた重鎮たち。
彼らに教えてあげたい。これはあくまでも「ビジネスパートナー」だと。彼の嬉しそうな顔は、あくまでも作り笑顔なのだと。
いつものように会場の隅で目立たずやり過ごす家族の姿を見つける。事前に説明していたとはいえ、心配そうな目には心が痛む。
それでも、彼の隣に立つと決めたのは、リディアだ。役目を果たそうと、周囲に目を向ける。
こちらを睨む令嬢の姿を見つけてしまった。
「リディア嬢」
そう呼ばれて、彼に視線を向ける。
「ダンスを踊っていただけますか?」
ダンスまで。確かに舞踏会では必要だが、周りを見るためのパートナーなのに。
「喜んで」
断ることもできず、ダンススペースに誘導される。
彼の耳に輝く、小さなエメラルド。ブローチの大きなエメラルド。これでもかと主張する緑色の宝石を、彼は堂々とつけている。
対してリディアの方も、イヤリングにネックレスにブレスレットにと、ラピスラズリの主張が強い。
恋人でもないのに。そんな言葉に、胸の奥がチクンとする。なぜ痛むのだろう。
「リディア嬢」
彼の声に、顔をあげる。その目が鋭かった。
「メアリウス子爵がいます」
ハッと視線を向けた先、彼は近くの貴族と談笑していた。その姿は、いつもと変わらない。まるで、あの毒の効果がないかのように。
「……ひとつふたつで効果の出る薬ではありません」
何個も飲むことで魔力を蝕んでいくもの。中毒症状が出ていないのは、彼がまだそこまで飲んでいないからだろう。
「解毒薬は?」
「ありません」
「作らせていないのですか?」
「必要ないものです」
確実に貴族を殺すものに、解毒薬は必要ない。そう言って、イレーヌは作らないように指示をしている。
「命を奪うものではありませんから」
毒自体は魔力を蝕んで廃人にするだけで、命に関わるものじゃない。しかしプライドの高い貴族なら、廃人になる前に自ら、ということもあるかもしれない。
それでもいい、と自分に言い聞かせる。彼らはそれだけのことをしたのだ。
「注意して見ておきます」
彼の言葉に、リディアは頷いた。もしこの場で子爵があの薬を売ったら。きっとその場でジュリアンが押さえるのだろう。それならそれでいい。ブラックリリーという名前が出てくることはない。
「少し風に当たってきます」
彼から離れ、リディアは会場を出た。庭園に出て、ベンチに腰掛ける。ふぅ、と自然に息がこぼれた。
疲れているわけではない。ただ、少しだけ呼吸が苦しかった。
「……どうして、あなたなの」
そこへ、エリスが歩み寄ってきた。
「彼の隣にあなたは合わない。身を引いて」
綺麗な言葉で取り繕うことも、敬語さえもなくして、彼女は訴える。
「……なぜですか?」
リディアもまだ、格上である彼女に対して、座ったまま答えた。
「シャルマン公爵家は貴族派。小公爵様とは敵派閥でしょう」
「だから必要なのよ」
気持ちがあるわけではない。貴族の結婚に気持ちなんて必要ない。ただ、彼が必要だから。皇帝派の筆頭である家の嫡男を、貴族派に取り込んだという事実が。
「あなたみたいな人間にはもったいない。彼を上手く使えるとは思えないわ」
「小公爵様は駒ではありませんよ」
「わたしたちは駒よ」
チェスの盤上で、人の手によって動かされるもの。貴族に生まれた者なら、それは当然のこと。リディアの方が異質だ。
「早く没落してしまえばいいのに」
「……っ」
その言葉は、リディアの胸に深く突き刺さった。
「あまり目立たない方がいいわ。こちらには、あなたの家を潰す駒もいるのよ」
はっきりとした警告だった。
その瞬間、リディアはポケットからファントムシェルを抜く。
「……な、にを……」
それは彼女にとって予想外の行動だったらしい。
「これ、ご存知ですか?」
リディアは笑った。
「アッシュライン。知ってるわ。下級貴族たちがこぞって欲しがってるものね」
本物を見たことがない彼女にとって、これは他の貴族たちが持つ「アッシュライン」らしい。
「女性が撃てるものじゃないと聞いたわ」
アッシュラインは反動で腕が痛くなるし、非力な女性が的に当てることは不可能に近い。
「試してみますか?」
しかし、これは違う。非力な令嬢であるリディアのために開発されたものだ。
睨み合う2人の令嬢の間に、さぁっと風が抜ける。
「リディア嬢」
その静寂を破ったのは、ジュリアンの声だった。
「ジュリアン様……!」
その途端、彼女はコロリと表情を変える。
「助けてください! リディア様が」
そんな声など聞こえていない、と、彼はリディアに歩み寄る。
「しまってください」
ファントムシェルを会場から隠すように立って、そっと手を添える。
「貴女が手を汚す必要はありません」
その言葉に、リディアは銃口を下げる。
「失礼いたしました」
リディアがポケットにしまうと、
「行きましょう」
彼は、エリスには一瞥もくれず、踵を返す。
「ジュリアン様!」
彼女の悲痛な声に、彼は振り返ることすらなかった。
*
会場に戻ったリディアは、再び彼の隣に立って微笑む。
彼がサーヴァントからワイングラスを受け取った瞬間、ワインの渋い香りが漂ってきた。
その渋い香りの中に、リディアは独特の甘い香りを嗅ぎとった。なぜなら、その香りは知っているものだったから。
「ジュリアン様」
わざと名前を呼んだ。彼の注意を引くために。
「わたしも、同じワインがほしいですわ」
彼と談笑していた貴族たちの中、雰囲気を壊さないように笑顔を作る。
「あぁ、じゃあ同じものを」
「いいえ」
サーヴァントを呼ぼうとした彼を、リディアが止める。
「それが、いいわ」
そして、彼の手からワイングラスを受け取る。
赤ワインは、薄く紫がかっていた。それは、あの薬が入れられている証。
リディアはそっと会場の隅に目を向ける。父と兄はこちらを見ていなかった。
よかった。彼らには見せたくなかったから。
驚いた表情のジュリアンの隣で、リディアはそれをあおる。
鼻に抜ける甘みに、リディアが目を細めた瞬間。
全身の血が熱く燃えるように回り始め、頭を刺激する。
「……ふふ」
小さな笑みを残して、彼女は意識を手放した。




