85 父の愛
リュセール公爵家の一室。リディアは初めてその部屋を訪れていた。
手入れが行き届いた室内に、綺麗に整理された書棚と、机の上に積み重なった書類。大きな書斎机の前に置かれた光沢のあるソファに座る姿に、赤いローブはない。
「お待たせしてしまってすみません」
扉が開くのと同時に、リディアはその場に立つ。
「お忙しいのでしょう」
「そんなことはないのですが……」
彼は笑いながら、リディアの向かいに座る。
「貴女には報告しておこうと思いまして」
「摘発できましたか?」
彼から言われる前に、リディアはそう尋ねた。
「そうです」
無駄を許さないリディアの姿勢に、彼はふっと笑う。
「無事に悪質な犯罪者の多くを逮捕できました」
「よかったです」
「貴女が情報を売ってくれたおかげです」
「わたしはただ少しお話しただけ。逮捕できたのは憲兵の実力でしょう」
ギャングの拠点や人相など、摘発できるような情報を売ったのは、リディアではない。リリーだ。
「少し、怖かったんです」
「何がですか?」
「捕らえた者から、貴女の情報が出るのではないかと」
ブラックリリーの、ということだろう。
「しかし、貴女の姿を知る者は一人もいなかった」
彼は苦笑をこぼす。
「何をしたんですか?」
「何も」
リディアは静かに答えた。
「ただ、お話をしただけです」
きっと彼は、捕らえた犯罪者たちにリーダークラスの人間がいないことは気づいているだろう。リディアがしたことにも勘づいているかもしれない。
それでもいい。リディアはマフィアを脅迫なんてしてないのだから。
「貴女のテストには合格しましたか?」
彼はそう尋ねた。
「テストなんて」
彼を試したわけじゃない。でも、そう取られるのも仕方がないとは思う。公権力の実力を試すなんてこと、リディアにできるはずもないのに。
「次は貴族の情報を売ってくれますか?」
まるでリディアの役に立とうとしているかのように、彼は次の策を尋ねる。
「いいえ」
リディアは首を振った。
「彼らにはまだやっていただきたいことがありますから」
貴族を潰すにはまだ早い。リディアの復讐は達成されていないのだから。
「何事にもタイミングはありますからね」
彼は素直に引いた。
「いいんですか?」
ついリディアの方が聞いてしまった。
「彼らを殺すかもしれませんよ」
「かまいません。腐敗の証拠さえ見つかれば、当主が死亡していても家門を潰すことはできます」
リディアの家族なら、絶対に許さない。清濁併せ呑むからこそ、リュセール公爵家はここまで権力を持つのだろう、と思った。
「小公爵様、お願いがあります」
「なんですか?」
彼の声は優しかった。
「西部地域の運河事業、上手くいったそうですね」
「あぁ……。鉱石があったと聞きました」
「その事業に、わたしが個人的に投資していた、ということにしていただけませんか?」
彼が静かに目を見開く。
「投資していた貴族も少なくは無いのでしょう」
「そうですね」
国家事業に貴族が投資するのはおかしいことではない。
「証文だけで結構です」
「なぜですか?」
そう尋ねられるのは仕方の無いことだった。配当をねだっていると見えたのか。
「わたしの貯蓄を家族に渡したいんです」
リディアの貯金は、全て裏社会から得たもの。綺麗なお金ではない。なんの理由もなく家族に渡せるはずがなかった。
「わかりました」
彼はそう答えた。
「いいんですか?」
あまりにもあっさり受け入れられてしまったため、リディアは確かめてしまった。
「もちろん。貴女がそれを望むなら」
なぜこうも良くしてくれるのだろう。リディアの意思を尊重してくれるのだろう。その理由は、尋ねてはいけない気がした。
*
「お父様、お兄様」
リディアは銀行の証明書を家族に持っていく。
「これ、さしあげます」
その額に、2人は驚いた。
「こんな金額、どこで得たんだ?」
兄の問いに、リディアは証文を見せる。
「投資したんです。予想以上の金額が返ってきて、わたしも驚いています」
「投資、って……いったいいくら……」
家族からもらっていたお小遣いは少ない。それを全て当てたとしてもこんな金額にならないことは、きっと彼らにもわかってしまう。
「これは受け取れないよ」
父が言った。
「リディアのものだろう? 娘の貯金を奪うほどお金に困ってないよ」
「そんなこと言わないでください、お父様。この家のために貯めたんです」
「それなら、リディアの将来に使いなさい」
貴族令嬢が一番お金を使うタイミングは、きっとこれから。それを父はわかっているのだろう。
「シリルも、それでいいね?」
「もちろんです」
兄の返答は真っ直ぐだった。
これだけの持参金があれば、家格が釣り合わなくても断る家は少ないだろう。
頭に浮かんだ影を消すように、リディアは頭を振る。
「リディア」
父の声にハッと顔を上げた。
「私は、娘の持参金も用意できない、情けない父親だ。これを家に入れてくれるというなら、一銭も使わずにリディアの持参金にするよ」
その笑みが、じわりと滲んでいく。
「……お父様」
鼻にかかる声を誤魔化すように、リディアは父を抱きしめた。
「ありがとうございます」
父の愛は、優しくて、暖かかった。




